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ある不思議なひびききが心の奥でしている

 平成27年の暮れから平成28年にかけて、或る不思議な響きが心の奥でずっとしていることがあった事を思い出している。
 それは、音というより無音に近いもので、鈍重な響きであり、何かが、どこからか語りかけてきているようにも思えた。しかし、言葉として明確なものは何一つ分からないものであった。

 しばらくの間、その響きは、明らかに、ますます、何らかの意思を伝えようとしているかのように、繰り返し響いていた。(気のせいか?病気か?)しかし、体には特段の変化は見られない。ごく普通であった。 

 この響きは四六時中、絶えることなく、すでに一年以上経過していたように思える。それは心にあることが明確になる事で止んだのである。

 こうした、自分でも分からない思いや響きは、そこに焦点をあわせて瞑想していると、時折、突然、(自分の中で)明確化されることがある。しかも、たいていは、予期せぬ時に、ふいに起こる。

 このたびも、繰り返し響いている低いうなり音の言い知れぬ音の正体を気にかけていた或る時、突然、自分の中で或ることが明確化するかのように言葉となって溢れ出てきたのである。
 
 それは、こんな風に起こった。 (実際に小生の中で起きた事だが、これから記述することは、しかし、「私見」であるに過ぎない。)

 所謂、暗在系と明在系の接点にある「あらゆる存在の核心」を象徴するものが明確に示されている。
 暗在系とは遍在性、すなわち中心のない遍満性なるが故に決して観測し得ない系をいう。神学的には神の国や天国。仏教的に極楽浄土、蓮華蔵世界、曼荼羅界など神話や象徴によって表現を試みるが、表現し得ない先験性、すなわ阿字本不生を指すものと思われる。

 明在系はビックバンからビッグクランチにいたるすべての存在系であり、素粒子からマクロ大宇宙に至る森羅万象の生死流転の現象世界を指すものだろう。
 暗在系は明在系に浸透しその背景に遍満する中心のない、見えざるもの。これはしかし。これは把握出来ないだけで、空虚なものではない。時間と空間を超えて、絶えず、現象に先立つ先験として、全く新しいエネルギーのような独自の存在の系であると思われる。
 明在系は中心を持つものに向かう性質があり、常に全く新しく局所的に顕現する世界であり、観測、計測可能な系で、宇宙の始まりから終わりまで、この明在系に創造され顕現宇宙であると思われる。

 ここで明確になったことは、簡単に言うならば、「明在系における局所性や中心性は、単なる断片化された個々の物質の集合と離散の相互依存性にあるのではなく、個々は完全なる独自性を有するが故に自他の独自性を含み越える全く新しい存在の独自性を生み出しうるものである。」ということであると思われる。
 すなわち、「自己確立しているが故に、含み越えられ、統合しうる」という新たな独自性と創造性が暗在系の遍在・遍満性によって支えられているということであろう。

 明在系は時間や空間や次元の枠や条件付けに縛られるが、その背後に、この時間や空間や次元の枠に条件づけられていない暗在系が時々刻々に先験的に作動しているということであろうか。
 しかも、最も我々にとって重要なことは、「個々がより大きな個に含み越えられる場合、全体が個を支配するということではなく、完全に自立した個が適切に統合されて、初めて、より大きな全く新しい統合体を創造するという「創発性」にある。」と思われる。(これは未熟な個が全体を統合しようとした場合、未熟なる個は全体に含み超えられないばかりか、全体を食い物にして断片化し、最終的には全体を破壊するが、自己確立している個は、個でありながら全体を全く新たな物として創発せしめる自己変革を起こしているという事でもあろう。)
 それが、明在系に進化を起こすものの「本質」であり、その背景に「統合の本質をささえる暗在系すなわち先験性がある。」ということと思量する。

 先験的暗在系は明在系の次元を越えたところにあり、常に先験としての本質から、明在系の次元に経過し、顕現化し、消失するが故に、常に新たなるものが、刻々と生み出されているということであろう。

 (閑話休題)
 ここでいう次元については、文系の学生向け物理学の参考書の古い記事に理解しやすいものがあって、いまだに心に残っているものがある。

 仮に一次元は「点」でその動きは「前・後」の直進性のみの
次元のこと。たとえば、一本の橋を渡る時に、一次元の人間同士が向こうとこちらからやってきて場合、橋の真ん中でぶつかる。譲るスペースはこの次元にはないので、一方が進むとすればもう一方は後戻りするしかない。相手を押し出さない限り前にすすめないようなもの。
 二次元というのは、一次元の「前・後」に、「左・右」の次元が加わった「面」の世界である。ここで、直進しかできない一次元の人間と前後左右の平面を移動できる二次元の人間が出会ったとき、一次元の人間は前に進むか、後ろに下がるかのどちらかしか選択肢はないが、二次元の人間は、ちょっと脇道にどけて、一次元の人間をかわして進むことが可能だ。そのとき、一次元の人間は、右左は目に入らないから、目の前から二次元の人間が忽然と、目の前から姿を消したかと思ったら、忽然として後ろに現れ去ってしまったようにしか見えない。
 同様に、二次元は面の移動しかできないので、前に壁が立ちはだかれば引き返すか、あるいは壁を壊して直進するしかない。だが、三次元の人間は「上・下」の次元が加わるので、壁を飛び越えれば先に進める。三次元の人間がジャンプしたとき、二次元の人間には、三次元の人間が忽然と消えて、忽然として壁の向こうに現れたと思う。
 同様に、三次元の人間は、四方八方上下の縦横高さとも囲われてしまえば身動きがとれないが、四次元の人間は平気でその囲みを幽霊のように通過できるのであるというような面白い話であった。

 論理の飛躍を恐れずにいうならば、我々は、五官六根で感受できる三次元の世界を見ているが、暗在系という四次元以降多次元からやってくる先験性によって顕現化された明在系を見ているだけである。このように次元とは一つの仕切り板すなわちスリットのようなものであるのだが、その次元におけるスリットの穴を通して暗在系と明在系が交差していることが今回の重要なメッセージであると考えている。

 その暗在系と明在系の交差する中心性が万生万物、あらゆるものの自立性、自存性であり、ミクロからマクロにいたるまで同一の中心性すなわち「一者」、密教的には「大日如来」、神学的には「キリスト」といった象徴で表現される「二のない一」である。
 これらは次元におけるスリットの上では「大円」で映し出されるが、それは仮想であり、実相はあらゆる次元を突破した暗在系と明在系が中心でねじれており、もともと裏も表もなく、暗在系と明在系を統合させる宇宙の重力磁場が作用した時々刻々の全く新しい創造の源であり、その中心が自身であることを自覚しなければならないということに思えてならない。

 このように、ずっと響いていた不可思議な響きの正体は、小生の未熟な意識が顕在化しただけのものお粗末なものだが、更に、これらを象徴するものに弘法大師空海が右手に斜めに持つ「五股金剛杵」のようにも見え、それが無限の大宇宙において、スパイラル上に回転し進展しているダイナミックな本不生の動きのようにも見えるのである。

 個々の万生万物が内在させている本不生の仏心。それが明在系と暗在系の中心にあり、それが、すべてのもののかけがえのない生命の本来の姿、本質であり、それを脅かすいかなる驚異が立ちはだかろうとも、暗在系の金剛不壊心(いかなるものも破壊し得ない堅固なもの)であることを、ひとりびとりが今ここに自覚することを促しているものであることをあの不可思議な響きは示していると明確に感じたのである。

 これまで、この時のような内示のようなものがあるときは、必ず、決まって地球上に大変動が起こる。考えすぎだとは思っているが、こうしたまえぶれは「何事か不測の事態に遭遇しても、自心に本不生心(五股金剛杵)を観ぜよ」という大宇宙からの慈愛メッセージのなせる人地の及ばないところのものであったのかもしれない。
 まるでその事を裏付けるかのように、その後のいま、われわれは、気候変動による大災害や大地震。新型ウイルス感染症によるパンデミック。まるで存在の基盤である大地が崩れさる危機にあるのも忘れ、一歩間違えば全てが破壊され得る核兵器を嵩にきて、飽くなき暴力の応酬に踊らされるものの罠にさらされている。

 この時すでに世界は、ことそれほどに重大な局面にあり、われわれは、そこに立たされていた事を思い知って、多少読みにくいものながら、今、あえて投稿させていただいている。

 

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