日記 2023.6.30 00:33


自分の発する言葉に囚われるようになりました。失言なんて、今まで二十年間ほとんど使わなかった言葉を、この半年で何度も口にしました。

言うべきでないことを、うっかり言ってしまうこと。それは絶対に取り戻せない失敗で、誰かとの縁をぷっつり切ってしまいかねない、残酷な過ちだと思います。

失言をしたシーンが蘇ると、そのときの何とも形容しがたい空気感と、悔しさと虚しさが一緒くたになって襲ってきます。失言にはいつもあとから気づいて、忘れた頃にまた、その瞬間の自分に成り代わったみたく鮮明な感覚が戻ってきます。

自分の発する何もかもが、また誰かを傷つけるんじゃないか、また失敗するんじゃないかと思うと、どんどん怖くなっていきました。初めは、話し方が原因だと思っていました。頭で考える前に、口から話すから失敗するんでしょう、と。だったら、必ず頭で考えてから話す癖をつけようと考えました。ところが、失言は減るどころかその量を増していきました。今までは一言だった失言の一文が、頭で考えているからこそ長くなっていってしまいました。そしてやっぱり、その悪質さにはいつもあとから気づいて、ただ悔やむことしかできません。

そこでやっと、そもそも考え方が間違っているのかもしれないと思うようになりました。この頃の私は、自分のやりたいことを突き詰めて考えるべき時期に差し当たっておきながら、朝何を着たいか、昼何が食べたいかも分からないような人になっていました。何もピンとこないから、全部テキトーに決める。ただ今日が終われば、と何ヶ月も空っぽの自分を積み重ねて、だからこそもっと分からなくなっていました。やらなければならない、してはいけないなんて在るはずもないルールに従うばかりで、自分には少しも目をくれなかった。その結果、自分を推し量る感覚を、ひどく鈍らせてしまいました。けれど、今この瞬間にやりたいことが分からないとき、今よりもっと先の未来にやりたいことなんて、分かるわけもないのは確かです。

人は真っ直ぐな人間が好きなのだな、と私は思います。私は、一本筋が通った、木のような人が好きです。分かりやすいからです。葉の一枚一枚がその人の溢す言葉だとすれば、その一枚一枚を辿って枝を見つけ、幹に辿り着くのが容易だからです。真っ直ぐな幹がどんなものか分かることは、その人が何を大事に考えているのかを分かることです。例え、僅かな枝が自分に突き刺さったとしても、他の多くが、一番太い幹が自分を攻撃する可能性がないと分かれば、安心して側にいられるものだと思います。

私はある時期、とんでもなく真っ直ぐだったと思います。目の前のチャンスに向かって猪突猛進、潔く走った先で、すっかり燃え尽きました。燃え尽きたことで、他の道を模索する必要性が生まれました。そこで初めて、自分が何をやりたいのかが分からない、ということに気づいたのです。

着るもの一つ、食べるもの一つ、言葉の一つに拘って、自分なりの木を育ててみようと試みました。けれど真面目にやっていたのは最初のうちだけだったのかもしれません。木を育てるのには、きっと時間と根気が必要なのだと思います。しかし、真っ直ぐな木で人を魅了すべきチャンスは、次から次へと訪れ、過ぎていきます。いつまで経っても解らない真っ直ぐな木のありかに迷っているうち、私はいつからか、真っ直ぐなふりが上手になりました。

そのときの会話相手に好まれそうな木を思い浮かべて、無意識に、それに見合った葉を想像して取り繕っていました。けれどそれは、完全なる空想の木であって、幹の中身は空っぽでした。その真っ直ぐそうな木は、人にどう写るんでしょう。人は恐らくその空虚さに気づくのだと、私は思います。想像で見繕った葉は、時折そのバラバラな枝の向きを示してしまいます。すると、この幹では真っ直ぐに立てないことを、この木は存在し得ないことを暗に証明してしまうのです。聞いている人は不安になって、きっと疑うと思います。

話を戻すと、この脆弱な幹を指し示してしまった一枚の葉が、失言だったのかなと思うのです。そして、失言を生んだそもそもの原因は、私が小さな拘りをやめてしまったことです。幹を探すことをやめたのに、自分が真っ直ぐな幹を持たないことに焦って、さも素敵な木があるかのように背伸びをしてしまう。そのときどき、場合に合わせて、在るべき自分の芯を作り上げてしまう。するとあるとき、言うべきでないことが口から零れてしまった。その言葉を言うべきなのか、言わぬべきなのか、それを判断する基準すら曖昧なままなのだから、当然のことです。失言をするまでは、言ってしまってから相手の顔を見るまでは、気をつけたところで、それが失言だとは到底解るはずもなかったんです。

まずは小さな拘りを持つこと、そしてなぜそれに拘るのかを解ること、拘りの理由を探っていけば、いずれ幹にぶつかる。幹の形が、向きが解れば、自分がどう在りたいかが解るでしょう。そうすれば、また言葉や服や、食べるものの一つ一つに拘りが増していくと思います。そうして人は真っ直ぐな芯を形作っていくのだと思います。人を惹きつけるほどに真っ直ぐな人は、きっと小さな拘りを積み重ねた人ではないですか。

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