塾歴社会の先

中学受験シーズンも先週で終了した。

少子化と叫ばれるようになって久しいが、中学受験の現場はまだまだ熱い。

僕のプロデュースするお子さんの中に、今年の中学受験をした子が1人いた。奈良の西大和中学と神奈川の聖光学園に合格した。開成と筑駒は不合格。西大和に通うなら入寮しなければならないので、最終的には聖光学園に行くことになった。まずは良かった。

で、受験に対する僕の持論。

受験勉強の良いところは、子供の脳が飛躍的に開発されることだ。学校の授業だけでは、そこまでにはならない。残念ながら。

だから試験の結果は気にしなくてもいい。受かろうが落ちようが、開発された子供の能力には変化はないからだ。サッカーの練習を積み重ねれば上手くなるのと同じで、試合に負けたからといって個人の能力が落ちるわけではない。

また、第1志望校ではない学校に行くことになっても、あるいは全て不合格で地元の公立校に行くことになっても、そこがベストだと心から思う気持ち。これが1番大事なことだと言いたい。

このメンタルを創ることは実体験の中でしか出来ない。希望が叶わなかったときこそがチャンスだ。試験に落ちるのも良い経験だと思う。
人は迷って初めてその道を知るのだから。

そもそも中学受験における、子供の価値観はほぼ偏差値だ。サピックスや日能研がだした偏差値表をみて、上にある学校が良い学校だと信じているに過ぎない。その程度の判断で決めた志望校の合否に涙を流すほど悲しむ必要などない。飼っていたペットが亡くなったときの悲しみに比べたら、悲しみなど無いに等しい。

自分が落ちたのは、単に自分よりできた子がいただけ。受かった子達をリスペクトし、自らの向上の余地にワクワクしよう。次の機会に勝てばいい。また負けたら、その次に勝てばいい。そうしているうちに能力はどんどん向上する。落ちようが、負けようが獲得した能力は消えてはなくならない。

さて、視点を変えてみよう。

では何故、開成中学の偏差値は高いのだろうか?

ご存知のように偏差値は受験市場の需給バランスによって決まる。つまり、成績の良い子供が入学を希望すればするほど、当該学校の偏差値は上がっていく。相対的に高い開成の偏差値は、今年の小学6年生の成績上位の子供達が、開成中学を第1志望校にした結果に過ぎない。つまり生徒によって作られる学校の価値なのだ。

ところで、この偏差値。貨幣経済の仕組みと少し似ている。紙幣は、本来、印刷物に過ぎない紙切れをみんなが1万円だと信じているから価値が保たれている。担保は日本国の信用だ。株券しかり。こちらは会社の信用だ。

では開成中学の担保は何か?

先生の質?学校の設備?授業の内容?
いえいえ、違います。

担保は、高校3年生の先輩達が去年勝ち取った、185名という東大の合格者数だ。もちろん日本一。この数字が将来的な担保として機能しているので、今なお人気が高い。

うがった見方をすれば、開成中学の価値は在籍する生徒の地頭の良さと、在籍期間中の絶え間ない努力によって保たれているとも言える。冷静に考えて結構脆くないだろうか?

とは言え。この開成中学。西の灘中学と共に、中学受験におけるヒエラルキーの頂点に君臨して久しい。
両校とも超進学校ながら、他の進学校に比べ、伸び伸びした校風と、生徒の自主性を売りにしているのが特徴だ。

中学受験を終えたばかりの親子にとって、「伸び伸び」や「生徒の自主性」という言葉は非常に訴求力がある。

では開成や灘の生徒は、スクールライフをエンジョイしながら、簡単に東大の試験をパスしているのだろうか?

じつはこれにはカラクリがある。

確かに開成や灘の学生は、楽しく学校生活を過ごしているように見える。部活動も盛んだ。

反面、こちらはあまり知られてはいないが、開成や灘から東大に合格する生徒の多くは塾通いしている。事実だ。中学1年からという生徒も珍しくない。学校の宿題などの負荷が比較的少ない分、学校の外で補っているのだろう。注目すべきは彼らが通う先にある。彼らの通い先は『鉄緑会』という塾に集中している。

この鉄緑会。東大進学専門塾というのがコンセプト。指定校制度があるのが極めて特徴的だ。指定校に認定された超進学校の生徒でなければ入塾すらままならないエリート塾なのだ。

これだけ強気に生徒を募集できるのには訳がある。 東大合格者の6割を輩出する実績だ。さらに衝撃的なのが大学受験の最高峰である東大理III(医学部)の合格者における鉄緑会の割合だ。

開成14名中13名。
筑駒 9名中8名 。
桜蔭 9名中8名 。
灘 15名中13名。

つまり、東大医学部のクラスメイトは、中学校(多くは小学校)時代からの塾仲間なのだ。時代はいつの間にか、学歴社会から塾歴社会に移行していたらしい。

この事実を近頃提起した本が『塾歴社会』(おおたとしまさ著 幻冬社)だ。

繰り返すが、進学校の教師の力だけで生徒を東大に合格させることはできていない現実がある。進学塾が存在する理由だ。では鉄緑会などの進学塾が大学受験シーンの主役なのだろうか?

それも違う。
進学校にせよ有名塾にせよ、どちらも優秀な学生を集めるためのノウハウ・歴史を創り上げてきたに過ぎない。また、学校が塾に劣っているわけでも無い。受験という特定のテーマに関して言えば、ビジネスモデル的に学校より塾に優位性があるのは当たり前のこと。それだけのことだ。

いつの時代も主役は子供の地頭だ。このことを大人は忘れてはいけない。

さて、そろそろ断言しよう。

近い将来、塾歴社会すら過去の話として隅に追いやられる日がくるだろう。日本の教育システムそのものの常識が覆るからだ。

ひとつの学校の出現によって。

N高等学校だ。

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