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キリストの死を察知した一人の女

『世界の福音の説かれるどこでもこの女のしたことは記念として語られる』
                      マタイ26:13


◆小さき村からの大いなる印
エルサレムの価値はシオンの小高い山の上に在って要害を成しているところにある。周囲にも幾つかの峰があって、市街の東にはキデロンの谷が刻まれており、その先は再び上り坂となってエルサレムを見下ろせるほどのオリーヴ山が更に高く峰を連ねる。

更にその山の尾根を越えて行くと下り坂となり、エルサレムは尾根の向こう側に見えなくなる。さらに裾野を行くと、今日の「エル・エイザリエ」つまり「ラザロの地所」とアラブ人に呼ばれた村がある。これが死んで葬られ四日目にイエスによって生き返されたラザロ、即ちヘブライ人エレアザルがイエスに呼ばれて墓から自力で出てきたという場所とされている。

今ではこの村がイエスがエルサレムに上る毎に宿をとっていたベタニヤ村とされ、ラザロ復活の現場としても教会が建てられた観光名所となっている。当地のアラブ人伝承が正しければ、エルサレムの端から3kmに満たない距離のこの村にラザロの家が在ったことになる。確かにヨハネはベタニヤはエルサレムから15スタディオンの距離にあるとその通りに記している。

イエスの一行がヨルダンの向こう側に居るときに、ベタニヤのラザロが重い病気に罹っているとの知らせが入った。ラザロの二人の姉が『あなたの愛する者が病気です』と伝えてきたのである。

イエスはエルサレムに上るとこのベタニヤ村に投宿されたことは福音書が揃って語るところであり、ラザロの家と一行とはかなり親しくしていたことが窺える。それは思ったままを口にし易い使徒トマスの『我々も行って一緒に死のう!』との感情ほとばしる発言そのままに記したヨハネ福音からも窺い知れる。使徒たちにとってもラザロの家族には深い親愛の情があったのだ。(ヨハネ11:16)

しかし、イエスは『この病気は死に至るほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子が栄光を受けるためのものだ』と言われ、なお二日の間その場に留まられていた。(ヨハネ11:6)

その後、ユダヤに行くことを弟子らに告げると、『先生、ユダヤ人らがつい先頃にもあなたを石打ちで殺そうとしていましたのに、またそこにおいでになるのですか』との反応が返ってきた。

確かに、その同じ冬の再献納の祭り(ハヌカー)で一行がエルサレムに上った時には、またしてもイエスと論争となった宗教家らは、いよいよ怒り狂ってイエスを石打ちにしようと集団で手を出そうとしたところを、からくも逃げ延びていたのである。(ヨハネ10:22-39)

その言葉に対して『一日には十二時間あるではないか。人は昼間に歩けば躓くことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜に歩けば躓く。その人のうちに光がないからだ』とイエスは答えられる。

この『昼』が何を意味するかについて福音書は何度か言及しており、『誰も働くことのできない夜』という時期が到来しようとしていること、また、ユダ・イスカリオテが裏切って大祭司カイヤファの前に立たれたときには『あなたがたと日々共に神殿に居た時にあなたがたはわたしに手をかけなかった。だが、今はあなたたちの闇の支配の時なのだ』と言われる。(ヨハネ9:4/ルカ22:53)

これは即ち、『わたしたちは、わたしを遣わされた方の業を昼の間にしなければならない』と言われたように、キリストとして神から与えられた期間の間は、それを妨げなく行えることが定められているが、その光ある期間もいつかは閉じられ、悪魔の勢力が取って代わり闇が優勢となることを指している。

この肌寒く雨がちな時期、キリストとしての受難まで未だ三ヵ月ほどを残す真冬ではあったが、活動できる期間ではあったということを弟子らに言われたのであろう。しかも、このユダヤ行きはキリストとして神の栄光を表す大きな業となると言われる。

そうしてユダヤに入り、ベタニヤ村に近づいたのはラザロの死から四日目となっていた。
その墓は村の外側にあり、一行が近づくとラザロの姉のマルタがそこに居て出迎えることになった。

このマルタは、この以前の場面でルカ福音の中にも登場しており、イエス一行をもてなそうと一心に馳走する健気な姿が描かれていた。

エルサレムに近いこの村は、近隣の村々と共に祭りの時期には多くの来客を迎えていたことであろう。イエスはこのマルタとラザロ、そしてもう一人の姉妹であるマリアの居る家に投宿する度に親しい仲となっていたに違いなく、『あなたの愛する者が病気です』との知らせにもそれはよく表れている。

死者をも生かす奇跡を行う人イエスの到着が遅れたことはマルタに『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう』と無念さを滲ませる。

その言葉にイエスは『あなたの兄弟は生き返る』と言われる。するとマルタは『終りの日の時生き返ることは、存じております』とユダヤ教徒として認識を表すが、その言葉には諦めの響きも感じ取れる。

しかし、イエスは念を押すかのように『わたしは復活であり命である。わたしを信じる者はたとえ死のうとも生きる。また、生きていてわたしを信じる者はいつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』と言われるのであった。(ヨハネ11:25-26)

マルタは『はい、主よ。あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております』と答え、妹のマリアを呼びにやる。

マルタの家には多くの弔問客が詰め掛けており、マルタからのイエス到着の小声の知らせを聞いてマリアもすぐ出て行くと、訪れていた皆もマリアが墓に行きラザロの近くで泣くのであろうとついてゆく。そうして人々はイエスの周囲に集められていった。

マリアもイエスを見ると足下にひれ伏して、やはり『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう』と言うのであった。イエスは、辺りの人々の嘆き悲しみに心を動かされ、『彼をどこに安置したのか』と尋ねられ、その場に案内されると、イエスも人々と共に他ならぬ友人の死にむせび泣かれるのであった。

聖書は人の死を『敵』と描写し、その痛撃がどれほどのものか、メシアはそれを友人の死として感じ入ったことであろう。それは翌春にはご自身に及ぶものでもあった。

イエスの涙を見た人々は、『おお、なんと彼を愛しておられたことだろうか』、また『盲人の目を開いたほどの方がラザロの死を防げられなかったのだろうか』と静かに話し合っている。

イエスは、マルタが死後四日の遺体が腐っているとの言葉に『信じるなら神の栄光を見ると言わなかったろうか』と答え、墓の入口に立てかけた岩を取りのけるように命じる。

それから天に向かって『父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します』また『わたしがこう言いますのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らに信じさせるためです』と祈ると『ラザロよ、出てきなさい』と墓に向かって命じられる。すると、ラザロは埋葬されたときのままに頭も手足も布に巻かれた姿で現れた。人々が驚嘆する中でイエスはラザロの布を解くようにと言われる。

然もあろう、多くの弔い客がイエスに信仰を持ったとヨハネは記している。これはキリストとしての宣教の三年が経過した公生涯の終わり近くに示された際立った神の御業の印であり、奇跡を行う人ナザレ人イエスの集大成となる業となった。
そのため、三ヵ月ほど後にイエスが最後にエルサレムに上ったときには、多くの人々がイエスばかりでなく生き返ったラザロをも見ようとベテニヤに押し寄せたこともヨハネは記す。

その際には、ベタニヤの近くの村から未だ誰も乗ったことのない驢馬を引いて来させ、ソロモン王の古式に則り、イエスは王としてのエルサレム入場を果たされたのだが、ラザロの生き返りに居合わせた人々もその証を人々の間で続けたので、過ぎ越しに上って来た群衆はイエスを歓呼して迎え、その行く手には自分たちの外衣を敷き詰め、棕櫚の葉を手に手に振って讃えたのであった。子らは『救い給まえ、ダヴィドの子を!』と叫んでいた。宗教家らはこれに不平を鳴らし、『見よ!、どうしようもない。世をあげてあの男について行ってしまった』と言い合うのであった。(ヨハネ12:19)

しかし、これほどの偉業が成し遂げられたというのにラザロの生き返りについては福音書の中でヨハネだけが記している。

これほどの奇跡についてヨハネ以外の福音書が揃って沈黙している不自然さがあるのだが、その理由が何であったかについてヨハネが示唆してこう記す。
『祭司長たちはラザロをも殺そうと相談した。それは、ラザロのことで多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである』。(ヨハネ12:10-11)
以後、ベタニヤ村の三姉弟にはこうして危険が付きまとったことを示唆しているのである。

使徒ヨハネの福音書は書かれた時期が最も遅く、黙示録をパトモスで著した後、エフェソスに戻ってからの著作であるとの伝承もあり、ヨハネは、先に書かれていた共観福音書を見て、「これらにはバプテスマのヨハネの投獄以前の事が書かれていない」と言ったとも伝えられている。確かにカナの婚宴やパリサイ派議員ニコデモスの来訪、サマリアのシェカルの件などを記すのはヨハネだけである。

そしてヨハネ福音書には、もう一つ共観福音書からずっと後に書かれたゆえの内容を含んでいると言えるところがあり、それがラザロの生き返りとマリアについての香油の件である。

それはエルサレムの荒廃の後、使徒たちの最後まで生き残ったヨハネであるからこそ記述できたことであり、それ以前の福音書の登場人物が書かれた当時には存命であったり、未だユダヤ教が強勢であったりして、その名や動静を伝えることが憚られたのに対し、既にエルサレム神殿も過去のものとなり、帝国内ではユダヤ人であるだけで税まで課せられユダヤ教は勢いを失っていたヨハネの時代、それもパレスチナから遠く離れたエフェソスで時代を一つ違えていたからこそ、極秘文書の機密解除のようなことが可能であったろう。


◆遂に知らされたマリアの名
ヨハネ福音書はベタニヤの三姉弟について憚ることなく明かしており、特にマルタの妹マリアについてこう明かす。
『このマリアが、あの主に香油を注ぎ、主の足を自分の髪の毛で拭った女である。その兄弟ラザロが病気であったのだ』。(ヨハネ12:2)

ここでヨハネがルカ福音に現れるパリサイ人シモンの家に現れて、涙でイエスの足を洗い、また香油を注いで自らの髪で拭ったとされる『罪深い女』のことを明かしているのではないかとの議論もあるのだが、ルカはイエスが最後にエルサレムの上った際に香油を注がれたことの記述そのものを省いているので余計にそう思われるかも知れない。まして、ベタニヤでイエスが香油を注がれた家もまた『シモンの家』ではある。

そこでヨハネ福音書の中でラザロの生き返りとマリアが香油を注いだ女としての紹介の前後が逆になるからと、ヨハネで『埋葬を見越した』という油注ぎを、わざわざルカ書のパリサイ人の家の場面まで遡らせる必要はない。
これら二つの香油注ぎが異なるのは、ルカはパリサイ人シモンのところが『街』と記し、一方でマルタの場所は『村』としており、それに福音書中の時の経過を見ると、双方の記述は一年程ずれているところにある。

より重要な点は、マルコとマタイの福音書が揃って『その女』というばかりで、ベタニヤのマリアの名を知らせていないにしては『この福音が宣べ伝えられる所では世界のどこであれ、この女の行った事も記念として語られるだろう』とのイエスの言葉は不吊り合いであり、なぜ個人名を出さなかったかついてはこれら初期の福音書に特有の事情が窺える。

マルコとマタイでは、ベタニヤ村で特にイエスに親しい人物の名を出すことを避け、生き返ったラザロについては、そのエピソードすべてを除外する徹底ぶりがそこにある。

そこで聖霊の働きも恐れぬユダヤの体制からの危険が当時の三姉弟に及んでいたので、ラザロに関しての情報、その個人名を挙げてマルタとマリアにも危害が向かないための配慮がマルコとマタイの福音書にはこのように込められていたであろう。
既に、危険は考えられる段階に達しており、ラザロの生き返りでベタニヤを知る人々は数多く、体制派がその家を突き止めるのは容易いことに違いない。

伝承によれば、殺害の危険に在ったラザロは移住を助けられ、あのバルナバによって彼の故郷キプロスに逃れたともされる。他の伝承からもバルナバの故郷がサラミスであり、福音書著者となった甥のマルコによってその地にバルナバが埋葬されたとも伝えられる。
真偽はともあれ、このラザロの後日談は、あの『慰めの子』という通名に相応しく、地所を売って困窮者のための資金を与え、またパウロのために異国の各地を探し回わるほどに世話を惜しまなかったバルナバらしい逸話であろう。
しかし、他の二人の姉妹のその後についてはどうなのか。

使徒ヨハネが、他の使徒らと共にベタニヤの三姉弟に親密であったことは福音書の内容から見て間違いない。それは単に祭りの度に一行が宿をとったというばかりの顧客との親しさ以上であったろう。
当然ながら、福音書筆者らもその親密に敬意を払えばこそ、これら三人に不利益になるような記録はしないに違いなく、ユダヤの荒廃の前に書かれた福音書の時期はヨハネが福音書を著した頃とは時の経過により事情が異なっていたので、むしろヨハネはベタニヤの親しい人々、分けてもイエスの御身に大きな善を施したマリアへの賛辞を込め、その名を憚ることなく記したであろう。こうして今日の我々には使徒ヨハネの長命を通してベタニヤのマリアに関して真相を知る機会が開かれたのである。


◆一心に聴いたマリア
使徒ヨハネは、ベタニヤについてはラザロの生き返りとマリアの香油注ぎに記述を集中させているのだが、ルカ福音書はその以前、おそらくは西暦32年の秋の祭りの頃に『一行がある村に入る』と『マルタという名のある女が迎えた』と書き始め、聖句としては僅か五節を伝えている。(ルカ10:38-42)
しかし僅か五節とはいえその中でマリアも登場し、我々は香油を注いだ彼女の心を推し量るよう強く促されるのである。

この頃、イエスの宣教は実を結びつつあり、人々の中からイエスへの敬愛を懐く人々が増える中で、このマルタもイエスに信仰を働かせ是非にも歓待したく思ったのであろう。マルタは懸命にもてなしに奔走を始めるが、妹のマリアの方はというと、イエスの前に腰を下ろしたままでその話に聴き入っている。

その余りの違いに姉はとうとう手伝わないマリアとそれを放置したままのイエスにこう言い立てる。

『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください』。

一般的な考えからすれば、これはもっともな意見ではあるのだが、五千人に奇跡で食事を与えたのは32年の過ぎ越しの時期であったなら、このときマルタもその奇跡を聞き及んでいた可能性はある。どちらにしても、客はメシアであり山上の垂訓でも平地の垂訓でも、人々はその話を聴くことに大いに価値を感じていたに違いない。彼らが目撃した奇跡の数々はイエスが神からの人であることを示しているので、その話される内容が難解であったとしても、人々はそれが傾聴に値する価値ある言葉と信じたのであろう。そうでなければ、三日もその許に留まって話を聴き続けることがあるだろうか。そこには群衆を引き留めるだけの何かが有ったであろう。

ベタニヤのマリアもイエスの言葉に引き寄せられるところが有り、そのとき何が語られていたのかは書かれていないが、イエスの言葉が彼女をマルタの手伝いに立ち上がらせるのを阻んでいたのであろう。

イエスのマルタへの返答はそのようなマリアを擁護するもので『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み心を乱している。
だが、必要なことはただ一つだけである。マリアはその良い方を選んだ。それは彼女から取り去ってはならないものなのだ』と言われた。

イエスの話の意味をより深く教えられた使徒らの一行をもてなす宿がこの三姉弟の家であったなら、この家の人々もその教えに与ったと見てよいであろう。それはイエスの友としてラザロが生き返りを経験したところにも表れている。
人々を教えるために遣わされたメシアをもてなすのに必要なことを一つ挙げれば、それはその話に耳を傾けることであろう。

マリアが姉の手伝いを敢えてしなかったのではなく、イエスの語られる言葉に重い価値を感じて動けなくなったということもあるかも知れないが、結果として彼女は『良い方を選んだ』と評価されている。
これはマリアの価値観が働いてこその選択であり、メシアを崇敬する最善の仕方であろう。

この時期の前に、イエスの一行はヘルモン山麓に位置するカエサレイア・フィリッポ方面に旅しており、そこで自らの受難と死を使徒たちに話し始めている。
もし、マリアにもメシアに関わるこれほどの内容が話されていたとすれば、確かに語られている前から中座することはまず不可能である。
やはり、話の内容のゆえにマリアが動けなかったという事は有り得ないことではなさそうだ。マリアが一心に耳を傾け、砂が水を吸うようにイエスの言葉を心に収めていったであろうことは、イエスが最後にエルサレムに上ったときにその結果を示したように見える。


◆ラザロの奇跡がもたらした反響
ヨハネによればラザロの奇跡の後、イエスは『エフライム』と呼ばれる荒野に近い街に退いていた。
それは、祭司長派がラザロの生き返りの奇跡にいよいよ危機感を強め、イエスを殺害する決意を固めたためであった。

ラザロの奇跡に応じた祭司長派の会議についてヨハネはこう暴露している。
『あの者が多くの印を行っているのだが、我々はどうすればよいか。
このままにしておけば皆があの者を信じるようになる。そうすればローマ人が来て我々の土地も国民も奪ってしまうだろう』。(ヨハネ11:47-48)

この言葉の意味は、もし民衆があのナザレ人イエスをユダヤの王に担ぎ出すことにでもなれば、現にユダヤを支配しているローマが黙って見ていないだろうということである。即ち、ソロモンが王位を得た際の驢馬騎乗のイエスが民衆の支持を得て王となる現実性を感じていたのは使徒のような弟子ばかりでなく、体制派の宗教家らまでもがイエスのエルサレム入城に強い恐れを感じたのである。

そこで、この時代の大祭司であったカイヤファがついに『ひとりの人が民に代って死んで、全国民が滅びないようになる方がわたしたちにとって得だということをあなたがたは考えないのか』とイエス殺害の策を大胆に言い放った。

だが、著者ヨハネは大祭司のこの一言に驚くべき認識を込めた注解を次のように述べている。
『これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言い、国民のためばかりでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである』。(ヨハネ11:51-52)

これは神に犠牲を屠って捧げる祭司の長である大祭司の職にあるカイヤファが、その務めを全うして『神の子羊』を屠り、そうして血肉によらない『神のイスラエル』の十二部族を集め出すメシアの業を完遂させるための悪役を引き受けたことを、本人も意識せずに認めたということになる。
そうしてモーセ以来の律法体制は、繰り返される必要のない完全な犠牲を捧げて、自らの役割を果たし終える道に入っていった。しかし、その役割を担う彼らにその意識はない。ここが神の経綸の真に恐るべきところである。

西暦33年の春、ユダヤの暦も新年となって正月過ぎ越しの六日前にイエスの一行はベタニヤに到着したとヨハネは記す。おそらくそれはニサンの月の九日、週の初めの日であったろう。

それから後、イエスは三姉弟の家ではなく『癩病人シモンの家』で歓待を受けていた。このシモンの癩病は既に治癒していたに違いなく、イエスが癒した数々の病人の一人であったのではなかろうか。

他方で律法の癩病に関する規定には厳しいものがあり、病の本人の隔離だけでなくその家についても祭司の検査が入るよう取り決められていた。
一旦癩病に罹患すると一般の生活圏から遠ざけられ、場合によっては近づかないようにと石を投げられることもあったという。
そのため、この家に留まっていることで身に汚れを受けることを神経質に恐れる祭司長派を遠ざける効果があり、それもあって治癒した人の住まいをわざわざ『癩病人シモンの家』と呼んでいたことも考えられる。

このシモンの家でイエスの一行がもてなしを受けており、奇跡の生き返りに与ったラザロもその宴席を共にしていたことをヨハネは伝えている。このラザロの参加を知らせることはヨハネが福音書を書く時代に在って可能なことであり、生き返ったラザロとその姉妹マルタやマリアを共に記録することは、その以前の他の福音書が努めて避けてきたことである。そこにイエスを処刑した祭司長派からのラザロへの殺意も有り、その姉たちに危害が及ぶことも警戒されねばならない。その相手はあの不正を尽くしてメシアを殺めた祭司長派なのである。

しかし、祭司長派優勢の状況はいつまでもは続かなかった。イエスの受難から37年後に、エルサレムはローマ軍による徹底的な破壊を受け、神殿もそこで行われていた祭祀制度諸共に失うことになったのである。これがバプテストの警告していたユダヤの裁き『火のバプテスマ』となって、『籾殻は焼かれる』に至った。それがメシア殺害の後果である。
ユダヤで生き残った人々は各地に奴隷や鉱山労働、また見世物の犠牲にされ、居留する各地で反ユダヤ運動が起こり、帝国内でユダヤ人税が課されるという大きな変化が起きていた。

一方で「ナザレ派」と呼ばれたイエスの帰依者らは、エルサレムが何度か軍勢に取り囲まれるのを見て、エルサレム脱出を始めていたらしく、北東デカポリスの一つであったペッラに逃れていたとの史料が残されている。それこそはイエス自身が『エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたと悟れ。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、田舎にいる者は市内に入ってはいけない』との預言の言葉に従う機会であった。(ルカ21:20-21)

これは西暦七十年に実際に起こることになった。攻めるローマ軍は満を持して四つの軍団を各地から集め、そのほかにもヘロデ・アグリッパスの軍やアラビアの勢力などが加わり、おおよそ六万の軍勢でエルサレムを囲い、エルサレムは篭の鳥となってしまった。この時代に何度か軍隊の攻囲を受けながらも事無きを得ていたのであるが、それはキリストの警告の言葉に従う機会であったのだが、この度はいよいよエルサレム滅亡の危機である。ベタニヤの三姉弟もこの時までにはユダヤから去っていたに違いない。

エルサレムの危機によって宗教家らのイエスに関する論議はまったく無意味となり、むしろ、彼らの宗教の優越感と勝気な独立志向がローマの属領であることに終止符を打とうとしたのだが、却ってモーセの律法祭儀とユダヤの滅びの原因となってしまった。

この西暦七十年にユダヤに臨んだ災いにより、神殿を中心とした律法体制は終焉を迎え、以後、今日まで回復していない。まさしく、パウロが律法体制は『近く消えて行く』と予告した通りであった。

祭司長派が心配した『ローマ人が来て我々の土地も国民も奪ってしまう』という事態は、イエスの業の結果としてではなく、まさしくパリサイ派を中心とした国粋主義と独立志向の高まりからの度重なるテロが原因であり、イエスについてはピラトゥスが認めたように、宗教家らが訴えるような民を誤導して騒擾を起こすような罪状は何一つなかったのである。

他方、ユダヤの土地や人々を奪う結末をもたらしたのは、ほかならぬ宗教指導者らであったのだ。この大きな変化により、ユダヤ宗教体制の力は一度地に落ち、攻囲の厳しいエルサレムから棺桶に入って死人を装い脱出したラビ、ヨハナン ベン ザッカイなる老人がパリサイ派を立て直しに奔走するその後の当分の間、宗教家はローマ当局の厳しい監視により勢力を失っている。

この動乱の最中にユダヤとその周辺の先見の明ある人々はイエス帰依者のように疎開や移住を行い、使徒ヨハネは主の母マリアを伴って小アジアのエフェソスに居を構える。そしてエルサレムの滅びを生き延びたヨハネは六十年も前、かつてベタニヤのマリアが行ったことを何に憚ることなく描き出すのであった。



◆埋葬を見越したマリア
さて、ユダヤの滅びの37年前のキリスト最後の過ぎ越しを前にして、ベタニヤの癩病人シモンの家でもてなしを受けていたイエスに、マリアは容器に入れたとっておきの香油を携えて近づく。

それはインド産の本物のナルドで、三百グラムほどでも三百デナリウスとされるほどの値の非常に高価なものであった。今日であればセダンの新車が買えるほどの金額である。

ヨハネの福音では、マリアはイエスの足に香油を注ぎ、それを自分の髪で拭き取っている。だが、マルコとマタイによれば、マリアはイエスの頭にも香油を注ぎ、ヨハネはその場は馥郁たる香りでいっぱいになったと、その場に居合わせた者らしい描写を加えた。その香りはその後もイエスに残ったことであろう。最上級の香料の香りとはどのようなものであっただろうか。使徒ヨハネにとって六十年も以前のことであったとしても忘れがたいものであったことが伝わってくるようである。それは、あのマリアによってこそ得られたものであったのだ。

マリアがこれをどう入手したのか、彼女の家がユダヤの祭りの度に宿屋も営んでいた収益を貯めていたのか、それは語られていないが、それを見た使徒らには非常に意外なことであったらしく、『どうしてこんな無駄遣いをしたのか!これほどの香油なら三百デナリオンで売れたろうから、その大金で貧しい者らに施すことができたのに』と言いつつ、マリアに不快感を示したとマルコとマタイ福音書は記している。(マタイ26:8/マルコ14:4)

他方、ヨハネ福音書は、この一年ほど前からユダ・イスカリオテの変節に注目して書かれており、ベタニヤのこの場面で香油を注いだマリアを責めた首謀者として暴露している。

『彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていてその中身をごまかしていたからであった』。(ヨハネ12:6)

これらの言葉から使徒ら、またユダ・イスカリオテそれぞれの内心に見えるものがある。

使徒らにはイエスがこの旅で受難の最期を遂げることが意識になかった。
それは、ソロモンのようなエルサレム入場を果たした自分たちの主には無数の群衆の支持があり、この度の道中でもイエスが決然と彼らの先頭に立って進むほどにエルサレムを目指していたことによる。実際彼らはそのイエスの姿に驚いていたのである。(マルコ10:32)

もう半年以上前からイエスは使徒らに、祭司長派、長老ら、書士らによる自らの受難と死を教えてきたのだが、使徒らはそれが信じられなかった。(ルカ9:22)

むしろ、イエスが王となることでのダヴィドの王国の再来が近いと思い込み、仲間内で誰が偉いかで言い争うような状態にあった。特にゼベダイの子らは、母親がイエスの母マリアの姉妹であることを利用してイエスに取り入り、王の左右の座に就くという具体的な要求を母を通して訴えたのだが、これは他の使徒らからすれば血縁を利用した卑怯な抜け駆けであり、大いに怒りを買うのであった。(マタイ20:21-24)

このように使徒らの心には王国設立の時期が来ているとのバイアスが心にかかっており、すでに自分の処遇の方に思いが進んでしまっていたので、マリアの高価な香油の件がまるで理解できなかった。そこで使徒らとマリアの意識の違いが表れることになった。

そこで彼らはマリアを責めては彼女を困らせていたのだが、イエスはそれを制してこう言われる。

『なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
この女がわたしの体にこの香油を注いだのは、わたしの埋葬の用意をするためである。まさしく、福音が宣べ伝えられる所では全世界のどこででも、この女のした事も記念として語られることになる』。(マタイ26:10-13)

このイエスのマリアへの弁護の言葉の中に窺えるもの、それはまずイエスの孤独であろう。

親しく接し、深く教えを授けて来た十二人はイエスが臨もうとしている危難について余りにも無理解であった。それがマリアへの批判を始めたイスカリオテのユダに同調して彼らも共に苦言を呈したところに見えている。彼らは最後の晩餐の席ですら、自分たちの順位を言い争い、イエスは彼らの足を洗って行いを以って教える必要があった。

彼らは王となるべきイエスを高める余りに、却って、自分たちの主が一度は重罪人として処刑され、最も低い地位にまで卑しめられることを意識しなかった。その晩餐の席でも使徒らはイエスが別れてゆくことをなかなか理解できず、ペテロさえ『どちらに行かれるのですか、主よ』とのよく知られた言葉を残している。

だが、その思い違いがあってこそ、ユダの裏切りも成し遂げられたのであり、もし、それに使徒らが気づいてしまったなら、イエスを捕縛しようとして近づく一隊に決死の覚悟で剣を振るったペテロなどは決してその目論見を許さなかったに違いない。そこで彼らの心にはヴェールが掛けられていたのであろう。神の目的が成し遂げられるため、ユダ・イスカリオテに意志の自由を与えなくてはならない。

一方のマリアは、この香油に込めた相当な思いがあったであろう。弟ラザロの埋葬のために買ったとすれば死後四日目になるまで塗っていなかったようであり、彼女が入手したのはその後かも知れない。イエスの言葉では『彼女はそれを取って置いた』とあり、あるいはラザロのためであったのかも知れないが、いずれにしても、彼女はその貴重な品をイエスのために用いることを心に決めた。ラザロの生還を味わったマリアは、メシアの受難の死を解するばかりでなく、その復活をも疑わず、あるいは天への旅立ちまでも予期していたかも知れない。

このようにイエスの受難を察知し、それに寄り添う仕方で最高級の香油をイエスに注いだマリアには、その時にまさしくイエスの理解者であったと言える。あるいは唯一の理解者であったかも知れない。

彼女はイエスの言葉をその通りに聴いたからこそ、その香油を注ぐ理由があったのであり、男たちのようにイエスの王権の栄光の樹立を目の当たりにしつつあるとの確信あるバイアスも彼女には掛ってはいなかった。
おそらく、メシアへの香油の注ぎが使徒らに『無駄遣い』と咎められたことがマリアには意外で、戸惑いもしたであろう。

それはルカ福音書で、イエスの許で一心にその話に聴き入ったあのマリアの姿を思い起こさせる。

ここに我々は教訓を学ばされるほかない。弟を死者の中から受けるという大事は、彼女の内面に大きな変化を起こしたに違いない。それは信仰の大きな深化であり、信仰とは単なる理解を超えるものであり、神との関わりで成長するものである。
最高級の香油を注いだ時のマリアの想いは、ただ主を離別で失うという意識を超えたものでなければできまい。神の経綸を味わい知ったとも言えよう。

そこでマリアが香油を注いだときほどの信仰に到達し、それも行動に移した者は聖書中ほかに登場しなかった。そのとき彼女だけはイエスの想いを理解していたのである。しかも、その機会はいつでも開かれているわけではなかった。

このような思いを持てるか否かは神の言葉に対する各人の聴き方、また心の状態に左右されるということであろう。この度の使徒らの思い違いは神から出たことであっても、いずれは彼らもマリアの真意に気づいたに違いなく、そこでマリアはゲッセマネに遣わされたたった一人の天使のようにその時のイエスに寄り添う一人となったのである。

もし、彼女がそうしなかったなら人間は誰一人とて受難の死に向かう以前のキリストに寄り添えなかったのである。

では、我々はどうであろうか?

◆ユダ・イスカリオテの最期
使徒らの中でマリアへの反論の口火を切ったであろうユダ・イスカリオテについては、その内心にまた違った思いがあったのであり、それも最後に書かれたヨハネ福音書に暴露されている。

この使徒が目論んだ事は、一行の預かり金が自分の扱うところであり、そこからくすねて自分の利得にすることであったのだ。

彼にとって異常なまでに高価な香油を費やすマリアの行いは、ユダの心を他の使徒以上に激しく苛立たせたらしい。

マルコとマタイは、この出来事の直後にユダは祭司長派のところに行き、自分の主を引き渡すことで銀三十枚の報酬の約束を得たとしている。やはりマルコとマタイによれば、それは過ぎ越しの二日前であったとしている。そうであればユダヤの習慣からするとニサン13日に入った夜ということになり、彼はマリアの香油の件のすぐ後でエルサレムの祭司長派を訪ねたであろう。
夜の間に行動した彼は、明けてニサン13日の昼間、イエスがベタニヤからエルサレムに出ず、珍しく夕刻まで留まったことに焦りを感じたのではないだろうか。祭司長派はイエスを逮捕するのは民衆の反対を恐れて白昼堂々とはできず、しかも、清さを求める無酵母パンの祭りが『聖なる日』を以って始まってしまってからでは、殺害するには余りにも都合が悪い。

そうなると、残されるのはニサン14日を置いてほかにない。体制派に属する彼らの過ぎ越しは15日であり、モーセの律法の指示からずれた伝統となっている。彼らにとってその前日の14日は『準備の日』であり、祭りを控えて俗事を済ませてしまうべき日とされていた。そして、彼らの「俗事」の中にはナザレ人イエスの処刑も含まれることになる。

イスカリオテのユダは、これがイエス最後の過ぎ越しになるとは思いもよらず、イエスはいつものように、つまり『昼の十二時間』が続いているように、難なく迫害をすり抜けて無事に過ごし、自分は逮捕の手助けとして祭司長派から銀三十枚を受け取って、マリアから受け取りそびれた三百デナリオンのせめてもの慰めにするつもりであったろう。マリアの深い信仰の籠った善意の行動はユダの邪悪さを焙り出すことになっている。これも恐るべきことである。

だが、事は彼の思うように事は進まず、イエスは一向に自由にならず、むしろ不正な裁きに身を委ねてゆかれるところで、やっと受難がイエスの意志であることを察知するに至ったのであろう。
『わたしは義の血を売り渡してしまった』と祭司長派に言うのだが、もとよりそれが狙いの相手に何の意味も無い。『我々の知ったことか』がその返答であった。

ユダは受け取った銀子のすべてを神殿に投げ込んで、首を吊ろうとして出て行ったのだが、その綱は切れてしまい、断崖から落ちてその身は切り裂かれてしまった。

その代償となった銀子三十枚は、人の命の代価であるので神殿側からも受け入れられず、見知らぬ者らのための墓所として一つの畑が買い上げられ、そこは『血の地所』と呼ばれたという。

さて、人はこうもそれぞれ異なるものである。
ユダ・イスカリオテ、祭司長派、使徒ら、ベタニヤのマリア。
それぞれにイエスを巡って想い、行動しているのであるが、我々はそれぞれどうなのであろうか?

ベタニヤのマリアが傑出して一心にイエスに聴いたように、言葉が心に真っ直ぐに届くか否か、それは各個人の大きな問題であろう。

人の心に様々な曇りがあるのは避け難い、我々にはそれぞれ思惑があり、それぞれにバイアスが掛るものである。自分の都合を神の言葉に優先することは如何にも簡単なことになってしまう。
自分の救いや願うことの成就に想いがすっかり向かっていれば、どうして神の意志に注意を集中できようか。自分が「天国」なる安楽な死後を受けられるかなどと自己中心で居て神の意志を知るには無理がある。
だからこそ、それぞれ自らの内心の曇りに不断の注意を向け神の真意を探るべきではないか。
イエスは『どのように聴くかに注意せよ』と言われる。なぜなら『あなたがたが量り出しているその升であなたがたも量り出されるからである』。その違いは如何にも大きなものとなった。

ベタニヤ村のマリアという寡黙な一女性が、後の使徒ヨハネを動かして福音書にその晩の一事を書かせたことの価値は、一心に聴いて主の語られた言葉の真意を悟ったところにあろう。

ルカは福音書最後の場面でイエスの帰天がベタニヤで起こり、この村が弟子たちの最後にイエスを見る場所となったことを記している。あるいはメシアとの別れをベタニヤのマリアを含めた人々も見た可能性を残しており、復活後のイエスは、一度に五百人もの人々に目撃されたとも伝えられているが、マリアもその一人であったなら、天に上る主の姿に信仰を込めた万感の思いをもって見たことであろう。

それまでイエスは地に在って多くの人々との邂逅をし、また様々な反応を得、そして自ら人としての生と死を経て、メシアは公生涯を見事に締めくくられた。
今や、慣れ親しんだベテニヤ村の一帯から上へ上へと昇られるイエスの視界には何が映り、どのような想いを懐いていらしたのだろうか。



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さて、本年のパスカはユダヤ歴が閏年に当たるため、4月21日(日)と遅く到来する。

過ぎ越し(ペサハ)は初期キリスト教で『主の晩餐』またパスカと呼ばれた


年毎にユダヤ教徒の祭礼に合わせ『主の晩餐』を行うのは、ニケーア会議で否定されてキリスト教界が独自の道を歩み出したところとは別に、メシアと祭司長派との時の確執の中に、女の裔と蛇の裔とのせめぎ合いを見るからであり、イエス一行のニサン14日とユダヤ体制派の15日とのセデルの日付の異なりは、おそらく終末にも意味を持つことであろう。

もちろん、律法契約はキリストに成就して過ぎ去ったものの破棄されたわけではなく、その文言のすべてはキリストに在って不滅とされている。
そこでニサン14日に『主の晩餐』を守ることは、律法を尊ぶことでもあり、同時にメシアの犠牲の記念となっている。

神の意志を探求し続けようと願う方々には、イエス自ら命じられた唯一の定期儀礼である無酵母パンと赤葡萄酒による『主の晩餐』を本年4月21日の夜に行われることをお勧めしたい。

それは律法契約に代わる『新しい契約』によって、律法契約が達成できなかった真実のイスラエルが終末に生み出されることを待望するものであり、アブラハム以来悠久の年月に亘る神の経綸『神の王国』が数年の後に実現することを期するものである。

生きるために生きるという隷属の『この世』の空虚はいまや尽きつつあり、今後、世界は終末に向かっていよいよ変化を始めることであろう。

その中に在って、神の意志だけが光明であり、その言葉は今日までひどく誤解されてきたものである。
その原因は、人々の利己心にあり貪欲にある。人々は神を尊崇してすら自分本位に神を決めつけてきたものである。

しかし、この記事の筆者やその仲間が無謬であるわけもないのだが、それでも求め続け、叩き続けることはできるのであり、一つの解釈や集団に浸ることなど人の満足に過ぎず、それも詰まるところ、自分だけは救われたいとの我欲で神の正義を決めつけているに過ぎない。

人というものは、自分に目先の実利の無いものにはまず反応しない。
そのような大半の人間が『この世』を形造っており、『この世』と『神の王国』とが対立関係にある以上、神の知識を得てさえも俗世を愛し、現状に留まろうとする人々がそうでない人よりも圧倒的に多いことはユダヤの体制がキリストに示したところにも示されている。
それだけ人は自分を愛して大切にしながら、自らの命運を神に逆らう方向に進めるものである。
真に大切なものを投げ出しておいて、自分を大切にしていると思うのだろうか。

アダムの罪を逃れる者など誰もいないというのに自分は関係ないとでも思うとすれば、それはキリストの犠牲の否定であり、聖霊の働きも価値も認めないに等しいことになる。

その態度はこの世のあらゆるところに蔓延しており、宗教、特にキリスト教に於いてはまったく自己保身のつもりで自らを危険に曝すばかりではないか?
本当にそれで良いのだろうか?
無反応を決め込めば、神もまた無反応を返すであろう。その人にはそれですべてが終わるのではないだろうか。いや、神の経綸の中では多くの人々がそれを選んでしまう事も、永遠にわたる悪い例として必要なのかも知れない。やはりアダムの罪とは世の大勢を占めるものであろう。

だが、神の意志を探ろうと思うなら、人の解釈や決めつけに留まっていてはならず、各個人の良心に価値観が働くところを指針とするべきであるに違いない。

そう同意なさる方々には、本年4月21日の夜を互いに清い時間として取り分け、キリストの唯一命じる儀礼は果たすことで、その信仰を共にできれば幸いである。これがイエスの命じた聖徒のための唯一の定期儀礼であり、我々は聖徒の到来、即ちキリストの再臨の印を待ち望んでいることをそこに示す。
それは主人の到着を待つ奴隷としての本分であり、用意のできていることを示し、地上に相応しい信仰があることを表す意義を持っている。

その信仰とは、神への信仰だけでは足りず、キリストへの信仰を加えてもなお足りず、聖霊への信仰を重ねてこそ成就するものであり、聖霊への信仰がすべてを裁き、また救うものとなる。聖霊の奇跡の言葉無くして救いをもたらす信仰もない。

各人のその信仰が、聖霊の再降下と聖徒の再出現という、人事を超えた神の次なる一歩を求める各人の信仰の表明となることを願いつつ。


2024年 4月 21日 夜に迎えるニサン14日
東京での開催について含む記事


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