雪の日のこと。

 それは、冬のある日、雪がしんしんと積もり、音がかき消されるような、静かな夕暮れ時であった。
 静かで、優しい冬の日であった。

―――横須賀――――

「利根。こっちの書類は全部見終わっている。とりあえずこれに封をしておいてくれ。」
「うむ。任せよ。時に提督よ、今日の防空射撃演習と海上護衛の遠征の書類に不備があったぞ。」
「えっ!?マジでか……何回か確認したはずなんだけどなあ……そんで、今その書類、どこにある?」
「うむ!心配はいらぬぞ。吾輩がちょちょっと書き換えておいたからのう!」
「おお、それはありがとな……って!そんなんダメに決まってんだろーが!規程違反だぞ、それ!?」
「細かいことを気にするでない。あんなものは結局出撃許可が出ていたと後になってお上が判断できればそれでいいのじゃ。まったく、そんな細かいことばかり気にしているから、等量に分けたはずの書類処理を、吾輩がとうに終えた書類処理を、おぬしはそんなにも残しておるのであろう。少しは楽をすることを覚えよ。」
「ぐう……っだが!規程は規定だ!ばれたら爺さんにどやされるのは俺なんだぞ!?」
「構わん。吾輩には痛くもかゆくもない。」
「くうっ……次からは処罰の対象だからな!」
「その言葉、100万回目じゃ。聞き飽きたにも、程があるぞ?」

 冬の横須賀。雪の鎮守府。今日も今日とて、深海棲艦―――突如現れた、人類に敵対する、謎の存在のことである―――との戦いは続いている。
 その深海棲艦に唯一対抗できる存在、艦娘―――先の大戦での艦艇の魂を持つ少女たち―――の一人である、この利根は、日々の戦いを指揮する提督の補佐を務める存在である。このような役割の艦娘を、「秘書艦」とも呼ぶ。秘書艦の務めは、艦隊行動全体の統率役や、次々に舞い込む事務処理の補佐が主なものである。
 
 秘書艦といっても、一概に提督と特段に深い仲にあるわけではない。数ある鎮守府の中では、多くの艦娘が持ち回りで秘書官を務めたり、気の向いた艦が気まぐれに務めたりする鎮守府もあるという。
 だが、この横須賀第七二八番鎮守府では、少し様子が異なる。最初期の秘書艦こそ、駆逐艦娘の五月雨が務めていたが、この利根が鎮守府に着任して以来、秘書艦は利根が務めていた。
 その間、提督は愚痴をこぼしながらも、悪態をつきながらも、文句を言いながらも、利根以外の艦娘を秘書艦には決して選ばなかった。
 当の利根も愚痴をこぼしながらも、悪態をつきながらも、文句を言いながらも、秘書艦の座を明け渡すことを決して良しとしなかった。

 俗な言葉でいえば、お互いに、惚れていたのである。
 俗な言葉でいえば、お互いに、惚気ていたのである。

だが周りをやきもきさせることに、お互いの好意に薄々は気付いていても、最後の一歩を踏み出せない。最後の一手が決まらない。

 ほとんど恋仲のようでありながら、決して、恋仲とは違う関係。この提督とこの艦娘は、「触れればくっつく」という微妙な関係を、触れることなく艦隊の責任者と秘書艦として過ごしてきたのである。

 一見すると幼い少女のようにも見える利根であるが、その戦闘能力は高く、砲雷撃戦、夜戦には抜群の働きを見せ、巡洋艦であるにもかかわらず、水上機を用いた航空戦にも参加でき、索敵に関しては鎮守府内に右に出る者もいないほどの力を有していた。
 さらに利根は実務能力にもたけており、特に書類などにおける不備を見つけて修正する術にたけていた。
「これは吾輩の索敵能力の高さの表れなのじゃ!」
 などと利根自身もその能力の高さには自信を持っていた。
 利根の事務処理速度は提督のそれを大きく超えていたので、一日の最後に書類整理をともに行うときは、必ず利根の方が先に終わり、提督の終わりを待つ。

 それは、今日も変わらない。

「のう、提督?」
「なんだ、利根。」
 すでに業務を終わらせた利根は、提督の仕事が終わるのを、執務室のソファで待っている。あいにく、執務室には娯楽品の類は持ち込んでいなかった。
「うむ、率直に言うと、吾輩だけ仕事が終わり、暇なのじゃ。少々戯れに付き合えい。」
 提督が仕事中であることは分かってはいるが、何かとこの提督は張りつめすぎるところがある。
 
 利根は、そのことを知っている。
「ん。なんだ。」
「少しおぬしに聞きたいことがあってのう。聞いてもよいか?」
「ん、ああ、別にかまわんが?」
「おぬしは、明日世界が終るとしたら、何を思うのじゃ?」

「は?」

 あまりにも虚を突かれた質問に、提督はただただ驚くばかりで、まともに反応することができない。

「む?聞こえんかったか?おぬしは明日世界が終るとしたら……」
「それは聞こえたさ!あまりにも突飛な問いだったもんで、少し戸惑っただけだ。」
「ふむ。なら良い。それで、おぬしは何をしたいのじゃ?」
「待て待て待て、落ち着け。なんだって急にそんな話題が出てくるんだ。なんなの?お前の精神状態が心配だよ。」
「だから戯れといったであろう。暇だから吾輩がおぬしに構ってやっているのじゃ。吾輩に礼こそすれ、罵倒の言葉を浴びせるなど、真、失礼な奴じゃのう。いいから答えよ。」

 この質問は、昨日の午前中、他鎮守府との合同演習を終えた休憩時間に、相手艦隊の旗艦から利根が受けた質問である。
「少し前に、私の指揮する水雷戦隊に、他の鎮守府から新しく駆逐艦の子が配属になったんです……」

 話に聞くところでは、「新しく配属された」とは言うけども、その実は少し異なるようだった。その艦娘が所属する駆逐隊がことごとく深海棲艦に襲われ、その艦娘を除いて、すべての艦娘が深手を負い、艦隊行動がとれなくなった。その鎮守府で「死神」扱いを受けていたところを、演習相手の鎮守府が引き抜いた、ということらしい。

「やはり、いかに艦娘とは言っても、小さい子であることには変わりありませんから……私も気にかけていて、たまに声をかけるのですが、この前話しかけたら、あの子からこの質問をされまして……」
「ほう。それで、おぬしは何と答えたのじゃ?」
「私は、上手く答えられなかったんです。ただ、どんなことがあっても私や、この駆逐隊や、私たちの提督はずっと味方なんだ、とは言いましたが……」
「それで、その駆逐の子は何と?」
「少し笑って、『ありがとうございます』と。そのあと、泣きながら、私に抱き着いてきて……」
「うむ……つらかったのであろうな。今日の演習を見るに、おぬしの指揮する水雷戦隊は全水雷戦隊の中でも屈指の練度であると思う。……おぬしたちがその子を守り、その子が、本当に心から笑える日が来るとよいな。」
「はい、そのために、もっと訓練を積まなければいけませんね…….。何かを守るためには、何かを壊すより、もっと大変な労苦を伴いますから。」
「う、うむ。吾輩が言っておいてなんじゃが、駆逐艦たちへの訓練、あまり厳しくせんようにな?」

 なぜだろう。演習が終わった後も、この会話は、利根の心に深く刻まれた。

「あん?ええと……、今日世界が終るとしたら、だっけか?うーん……なんだろうなあ……うーん……」
「なんじゃ、煮え切らん奴じゃのう。うじうじせずに、男らしくバシッと答えるがよい。」
「そんなこと言われてもなあ……普段そんなこと考えて生きていないから、急に言われても戸惑うのは仕方のないことだろう。」
「情けない。提督よ、嗚呼情けない。われら艦娘は常在戦場、常に極限状態なのじゃ。いつ、自分が轟沈するとも限らんわけじゃ。じゃから……」
「させないさ。」
 間髪入れずに提督が言う。
「む?」
「そんなこと、俺はさせない。俺の仲間の一人でも、この海に置いてけぼりにしてやるもんか。俺とお前たちの運命は一蓮托生、絶対に揺らぐことはない。今までもそうだったし、今もそうだし、これからだってずっとそうだ。俺とお前たちは、ずっと、ずっと一緒に生きていくんだ。」
 提督の目は言葉が進むごとに強い輝きを放って行った。

―――輝きこそ、意志である―――

「……ッ提督よ、き、貴様、よくそんな歯の浮く台詞を並べてへらへらしていることができるのう。貴様のその精神力にはこの利根、驚嘆の念を示すことしかできんわい。」
「あ、照れてる。」
「照れてなどおらぬ!貴様!吾輩をおちょくるのも大概にせい!」

 提督の呼び方が「貴様」に変わったときは、利根が照れているときである。 ―――もっとも、これを知っているのは、提督と、利根の姉妹艦の筑摩だけである―――

「意外と、自分のことってわかんないもんなんだなー」
「何を言っておるのじゃ……いいから、早く吾輩の問いに答えよ。」
「ああ、忘れてた。明日世界が終わったらか……えーと、それならそれでもいいかな。」

「むう?」
 素っ頓狂な声が聞こえた。
『それならそれでいい』、じゃと?」
 それは利根の声であった。

「うん、だってさ、明日世界が終るってことは、俺だけじゃなくて、お前も、筑摩も、そのほかのみんなも、みんな消えちゃうんだろ?さっきも言ったろ。俺とお前たちは、ずっと、ずっと一緒に生きていくんだ。」

 ―――ずっと一緒に生きるということは

「だったら、死ぬ時も一緒だ。」

 ―――死ぬ時も一緒であるということか。

「そんで、一緒に死ねるんだ。だったら、俺が特別そこで泣きわめくでも、絶望するでも、お前らのことを見捨てるでもない。ただそこに与えられた残りの時間を、お前らと有意義に過ごすだけだ。だから、お前の問いへの答えはこうだ。『明日世界が終るとしても、それならそれでいい』。」
 
 ―――嗚呼、わかった。

「……ふむ。おぬしはもう少し熱い男だと思っておったがのう。もっと『俺はそんな運命を認めない!』とか、『そんな運命と闘う!』などと気概のある言葉を吐くものじゃとばかり思っておったが……」

 ―――この男は莫迦じゃ―――

「自分に嘘をついてもいいことはないさ。」

―――この男は阿呆じゃ―――

「俺はな、さっきは『俺はお前たちを沈めさせない』とかカッコいいこと言ったけどさ、正直、戦いの指揮なんてとりたくはないさ。」

 ―――この男は臆病者じゃ―――

「当たり前だろ。誰だって戦争は好きじゃない。あんなもの喜ぶのは武器商人とか、それこそ心のひん曲がった、性悪者だけさ。俺に戦いは向いてない。」

 ―――じゃから―――

「ふむ。おぬしがそのような弱音を吐く姿を始めてみるのう。」
「む……そうだったか?まあ、雪のせいかな。」
「雪のせい、か。」
「うん。雪のせいだ。」

 ―――じゃから吾輩は―――

「でもな、それでも、俺は戦いの指揮を執るよ。俺が指揮をとらなければ、お前らと一緒にいられないかもしれないんだろ?だったら、俺は頑張れる。俺はこんな果てしない世界を守ろうとか、そんなこと考えちゃいない。目に見える、ちっぽけな世界を守りたい。いつかお前らと平和な海を見られることを願って。それだけで、俺が闘う理由は十分だ。それでも、俺には大きすぎる理由なんだけどな。」

 ―――この男に惚れたのであろう―――

「ふ、ふむ……き、貴様、さっきから歯の浮く台詞を……なんじゃ?それも雪のせいか?」
「ああ、きっと、たぶん、絶対、雪のせいだ。」
 提督自身も弱冠しゃべりすぎたと思ったのか、自らの言動を省みて頬を赤く染めている。
「雪も自分がそんな悪者であるかのように扱われて驚いておるであろうの。」
「ふっ、そうかもな。さて、俺は仕事に戻りますよっと。あと少しなんでな。」
「そ、そうか……と、時に提督よ、貴様にまだ話したいことが残っておった。顔を上げい。」
「なんだあ?あと少しだから終わってからに……」

 それは、冬のある日、雪がしんしんと積もり、音がかき消されるような、静かな夕暮れ時であった。

「と、利根……お前……」
「な、なんじゃ……」

「ゆ、雪のせい、か……?」

「違う。吾輩の意志じゃ。」

 静かで、優しい冬の日であった。


 」さあ、100万年の愛を誓おう。

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