祖母の死を受けて思った事

 先日、祖母が死んだ。八十九歳だった。
 ここ数年立て続けだ。祖父が死に、別の祖父が死に、また祖母が死に、とうとう残ったのは父方の祖母ただひとりだけになってしまった。
 あと十年・十五年もすればその祖母もいなくなっている事だろう、と思うと、ずいぶん寂しい気がする。

 基本的に、僕はお葬式で泣いたことがない。
 彼らの事が嫌いだったわけではないし、仲が悪かったわけでもない。むしろ祖父母のことは好きだったし、思い出もそれなりに沢山ある。高校生を過ぎたあたりからはやや疎遠になっていたけれど、それでも年に一度は会っていたし、平均的な、どこにでもいる『祖父母と孫』として付き合ってきたように思える。
 だから、なぜ彼らが死んだ時に涙が出なかったのか、どうにも不思議だった。

 ただ、よくよく考えると不思議でもなんでもなかった。僕は死を悲しい事ではなく、ある種のゴール、めでたき事と考えているからだ。

 死を救いと捉えるのは、キリスト教徒的な考え方だと思う。
 僕は別にキリスト教徒ではない。今は無宗教だし、幼少期は親の影響で仏教徒だったことを考慮すれば、こういう死生観を抱くに至ったのは、ちょっと不思議な事に思える。

 もちろん、死そのものが喜ばしいというわけではない。
 たとえば、親より先に子が死ぬというのは論外だろう。また、前途有望な人が若くして死んだら、それは可能性の損失であり、大いにもったいない。ただただ悲しいと思う。

 しかし、齢七十・八十を過ぎるまで生き、伴侶を見つけ、子供を作り、その子供が孫を作り、自分の子孫たちに惜しまれながら死ぬ……というのは、どうだろう。
 これは悲しみとは無縁の、最高に幸せな死に方ではないだろうか?

 ストレートに言ってしまえば、かなり幸せな死に方で、羨ましい。少なくとも、僕が彼らと同じ年齢になった時、こんな幸せな死に方が出来るかどうかは分からない。むしろできない可能性のほうが高いと思う。
 彼らはそんな難しい、そんな幸せな死に方を成し遂げたのだ。だったらここは悲しむところではなく、笑って『良い人生だったね、お疲れ様』と送り出すところだろう……と思う。

 もちろん、故人の人生がどれだけ幸せであろうと、二度と会えない事に変わりはない。
 そういう意味では大いに悲しいし、だからこそ人は涙するのだろうと思う。

 あとはもう一つ。僕が泣けない理由は、老人につきものの闘病・入院生活だ。
 人間の身体には耐用年数があり、歳を取ればどうしても身体のあちこちにガタがくる。今回死んだ祖母もまた、ここ十年近くは入退院を繰り返し、最後には意識不明の昏睡状態がずっと続いていた。

身体のあちこちにビニールの管を突っ込まれ、呼吸器でかろうじて命を保っている祖母を見た時、僕は『はやく死なせてやってほしいなあ』と思った。『人生は苦しみで満ちている』……なんてお釈迦様みたいな事は言わないが、ただ生かされているだけの人生というのは、やはり苦しみが大きいものだろう。

『ただ生かされるだけの人生は苦しい』というのは僕の考えだ。昏睡状態の祖母が、そんな自分をどう思っているかはわからない。いや、祖母はそもそもボケてしまっていたから、意識が戻ったところで本人の意志を確認することは難しかっただろう。
 仮に、奇跡的に祖母の意識が戻り、かつ会話可能な状態になったとして。
 『おばあちゃん、これ以上の延命措置は要る? 要らない?』と聞いても、「あなたは誰? 私のペットのカエル(のオモチャ)はどこ?」と言うだけだっただろう。そしてすぐに昏睡状態に入り、多分もう二度と会話はできない。何ヶ月も生きているか死んでいるか分からない昏睡状態で生かされ続けた後、ようやく死ねるのだ。

 それを考えると、やはり、老いた末の死というのは恐ろしいものではなく、涙で見送るものでもない。
 すべての苦しみから解き放たれる、祝福すべきゴールだと思うのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?