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自分はプロバスケプレイヤーになるものだと思っていた

W杯のバスケ、ものすごく盛り上がりましたよねー!
歴史的瞬間は体調を崩しておりTVなどで全く追うことができませんでした。。。とほほ

現在、研究職としてメーカーで働いている私は、実は生まれた瞬間からバスケの英才教育を受けており、幼稚園から小学生のころまで、自分はプロになると信じて疑っていませんでした笑

なのになぜか現在は週5で満員電車に揺られながら出勤し、フルタイムで働いている…
そもそも数年前まで、自分が東京に住むようになることも、この業界で働いていることも全然想像つかなかった。
けど、まったく後悔していないし、むしろこれが一番いい選択だったと思う。

こうやって、今の自分の人生がなんだかんだ一番いいものだと思えているのは、いろんな選択を自分自身の意思で選んできたからだと思う。

バスケとの別れ。

生まれた時からのバスケの英才教育は、年の離れた兄と姉がいたことが大きかった。
私が生まれた時には兄も姉もミニバスに所属していたため、立つことができるようになる前からボールを触り、歩けるようになったら兄姉のシュート練のボールを追いかけていた。毎週末、試合や練習試合に親と一緒について行き、体育館に転がっているボールを拾ってドリブルからのレイアップシュートを決めるようなバケモノ幼稚園児だったらしい。笑
兄も小学生の時に全国大会に行っていたし、姉も県の選抜に選ばれていた。
姉とは入れ替わりで小学校に入ったが、あらゆる大会の試合の合間にシュートを決める幼稚園児だったし、姉も地元ではそこそこ有名だったため、「〇〇(姉)の妹」とずっと言われていた。

小学校に入学してすぐ、珍しく1年生の春の段階からミニバスの練習に参加していた。たくさんけがもしたし怒られた。少し厳しめのコーチだったからか、ちょっと身体を動かすためにバスケをしたい!というような同級生たちにとっては苦しかったのかもしれない。
3年生の夏休みが終わるころには、ミニバスのメンバーは私だけになってしまっていた。

小学生は1チームに10人いなければ大会に出場することができない。
一人だけなんてパスを出す相手もパスをしてくれる味方も、ディフェンスをしてくれる人もいない。
バスケのことは本当に好きだったけれど、子供ながらにこれ以上続けることはできないんだな…と悟っていた。
「もうバスケなんてやりたくない!!」なんて、思ってもないのに泣きながら母親に訴えた。

テニスとの出会い

ただ、途端に退屈になってしまった。そんな私と両親を見かねた整骨院の先生が硬式テニスを勧めてくれた。
ルールの理解と道具をそろえることから始め、バスケはできないからと打ち込んだレッスン。次の年には週4の強化コースに入っていた。通うの送り迎え必須だったし、両親はこんなに私がガチになるとは思っていなかったらしい。
地元での小学生の競技人口は少なかったこともあり、小学校6年生時点で高校のほうから声がかかっていたらしい。(これを知ったのは割と最近のこと…)

陸上競技との出会い

何となく想像つくかもしれないけれど、小さい頃からずっと走り回っていた私は周りと比べると群を抜いて足が速かった。幼稚園の時から小学校までずっと男女を含めた中でかけっこは一番だった。
体育の先生に勧められて県大会に出てみたら、割といい記録を残すことができたため「陸上おもしろい!!」と私の興味はテニスから陸上競技にシフトした。中学校は陸上をやるために、地元の中学校の一つとなりのところに通うことになった。

陸上競技で得られた経験は特に今の私を形成するのに役に立っていると思う。
中学校3年間と高校3年間の6年間、陸上競技に打ち込んだ。けがや受験勉強のブランクに苦しんだし、進学校を選択したことで私立の強豪校に進んだ中学時代のライバルと広がっていってしまう差もつらかった。
でも、めげずに地道にトレーニングをして、高3の引退試合では満足いく結果を残すことができた。陸上人生に悔いなし!となり、大学入学以降は陸上を続けない選択をしました。

大事なのは自分の選択に責任をもつこと。

大人になった今、たくさんの経験を積ませてくれた両親・家族には感謝している。
あのままバスケを続けていても、中学入学前に陸上競技に出会うことなくテニスを続けたとしても、高校もしくは大学を推薦で選んでいたとしても、学部卒で就職していたとしても。
どの選択をしても得られなかった経験があるし、今の自分のようには絶なっていなかった。
自分が強く心惹かれるものを選択して、その場所で頑張り続けてきた結果が、今の自分につながっているんだなあとしみじみ思います。

だからこそ、これからの人生も何事にも全力で。
これからも現状に満足せず、挑戦する選択をしていこうと思います。

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