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syudouが今乗り上げている暗礁について

 ここではボカロP/シンガーソングライターのsyudouについて書きたいと思う。初期の「ビターチョコデコレーション」「邪魔」「馬鹿」、中期の「キュートなカノジョ」「カレシのジュード」をはじめとしたボカロ曲群、近年の「爆笑」「インザバックルーム」に至るまでを射程に入れたい。
 最初に言っておくが、僕は2022年以降ー「インザバックルーム」あたりからのsyudouの楽曲をそれほど評価していない。「邪魔」から「爆笑」にかけての彼の作品は傑作だと思うが、「笑うな!」「ギンギラギン」などの近作は独善性が前に出すぎていて、彼の創作者としての貧しさを露呈してしまっていると思う。しかし、ここでは彼の近作を駄作だと一蹴するのではなく、彼が具体的にどういう点において転向したのか、そして彼が今乗り上げている暗礁から脱出するためにどうしたらいいのか、ということについて考えてみたい。
 syudouの音楽は二期に分けることができる。2021年の「爆笑」を境に、「ビターチョコデコレーション」に代表される前期作品と、「インザバックルーム」に代表される後期作品とだ。
 最初に述べたように僕は前期作品を評価し、後期作品を批判する立場にあるが、その評価軸が何かと言うと、「客観性」だ。
 もっとも、ボカロにおける客観性の徹底という点ならピノキオピーに敵う者はいないのだが、syudouの特性は、単なる客観性ではなく「主観的な客観性」いや、「客観的な主観性」を生み出している点にある。
 僕が何を言いたいのか分からないと思うので、「邪魔」と「ビターチョコデコレーション」を例に考えてみよう。この二曲は明言こそされていないが、それぞれ対になる作品だ。簡単に言うと、「邪魔」では優等生的な人物への憎悪がひたすらに歌われるのが、「ビターチョコデコレーション」ではその人物の優等生を演じなければならない苦しみが歌われる、という相互補完的な構成になっている。
 「邪魔」を貫くスタンスは、「お前に欠点はないがお前が正義なんて絶対認めないぞ(自分の正しさなんか知るか)」というものである。そこにある憎悪は難癖をつけるというレベルですらなく、理由がない(故に止めようがない)憎しみだ。おそらくは(僕のような)多くの陰キャが周囲の人気者に対して感じていることであり、youtubeのコメント欄には本音を代弁してくれるサプリメント的な曲という趣旨の賛辞がずらりと並んでいる。この作品単体でその共感性を賞賛する言説が多いようだ。
 それ自体に異論はない。だがもう一つ、真に「邪魔」を傑作たらしめているのは、作品単体の共感性とか言葉選びの巧緻さとかではなく、対となるもう一つの楽曲「ビターチョコデコレーション」の存在である。
 さっきも言ったように「ビターチョコデコレーション」は優等生の愚痴であり、それは「邪魔」で歌われる優等生への憎しみに対するレスポンスに他ならない。歌詞で代弁されている社会の息苦しさに対しては、(再生回数から見ても)「邪魔」以上の共感が集まっているようだが、この曲の本質は共感ではなくむしろ反共感の方にある。
 簡単に言えば、「邪魔」と「ビターチョコデコレーション」は互いに批判し合う関係にある。「邪魔」で歌われる優等生的な人物への憎悪は、「ビターチョコデコレーション」の視点からすればただの独りよがりな感情でしかない。「ビターチョコデコレーション」での優等生の苦しみは、「邪魔」の視点では八方美人のちっぽけな悩みになる。二曲ではなく一組のペアとして見ると、共感を互いに打ち消し合う関係がここに生まれるのだ。
 この構造がsyudouの最大の武器を体現している。もちろん、多くのリスナーが感情移入している社会批判のメッセージの鋭さも、syudouの作家としての中核を大きく占めているだろうが、それだけでは他のボカロPではなく彼だけが持っている唯一無二性にはなり得ない。やはり彼の音楽の魅力を形作る最大の要素は「客観性」にある。
 ピノキオピーはこの客観性を、「神の視点」を巧みに用いることでスマートに表現する。一方syudouは、主観的な視点を二つ組み合わせることで(「邪魔」と「ビターチョコデコレーション」の関係のように)客観性を構成する。この泥臭さを残しつつ客観的な視点を形作るという創作姿勢は、誰にも真似できないものだ。
 前期〜中期のsyudouの楽曲はこの「客観的な主観性」に支えられている。例えば2021年の「キュートなカノジョ」と「カレシのジュード」には、「邪魔」と「ビターチョコデコレーション」と同じ共感を打ち消し合う相互関係を確認できる。2020年にAdoに楽曲提供して社会現象を巻き起こした「うっせぇわ」も例外ではない。この作品は単に狭苦しい社会への異議申し立てとして理解されて流行した節があるが、「アタシも大概だけど」という歌詞が象徴するように、冷静に考えれば幼稚なものでしかない「うっせぇわ」のロジックを支えているのは開き直りの姿勢だ。客観性のエキスを垂らすことで、甘ったれた世迷言に過ぎない異議申し立てを露悪的に強化しているのが「うっせぇわ」の本質だ。
 これらのsyudouの客観性は、彼の「自信のなさ」によって生まれたものかもしれない。盟友のAyaseは、YOASOBIとしての活動中に、「自分に自信がない奴の話を聞こうと思って」syudouに電話したことがある、と語っている(1)。個人的には、彼の自信のなさは、自分の視点の正しさを常に疑うという創作姿勢に深く結びついているように思える。
 裏を返せば、syudouの特性である客観性は彼が創作者として自信をつけていくと共に解消されてしまう、ということでもある。実際、syudouの世間的な知名度が上がり始めた2020年頃から、「ジャックポットサッドガール」をはじめとしてそのような背景を想像できる楽曲が増えてきている。そして大きな転機となったのが2021年の「爆笑」だ。
 この作品はsyudouが追求してきた「客観的な主観性」の最終形態と言っていい。syudou自身が公言する通り(2)、芸人・マヂカルラブリーの遍歴を題材にした作品として一般的に解釈されている「爆笑」だが、大衆に「見られる」立場である芸人を主人公にし、「ウケる」ことをめぐるマゾをテーマに設定しているところに、僕は現時点でのsyudouの最高到達点を見る。「見られる」ことを過剰なまでに意識することで、この曲で歌われている「伸るか反るかで生きていく、という覚悟」が最大限に強化されている。syudouの得意とする「自己反省や開き直り、視点の重層化によって主観性を強化する」という図式からできうる限り夾雑物を取り除いた「爆笑」は、間違いなく彼の最高傑作だ。
 しかし、同時にこの楽曲には、はっきりと後期syudouに繋がる独善性の萌芽を見ることができる。
「これが答えだ文句あるか」
 この歌詞は、2021年時点で優れた評価を勝ち取っていたsyudouの創作者としての宣言に他ならない。しかしそれは先ほども言ったように、「自身のなさ」によって支えられているsyudouの客観性の喪失をも意味する。「爆笑」は、(少なくとも以後の作品を考慮に入れれば)「この結果が全てなのだからもう外野の声は気にしない」という、客観性を捨ててしまうという宣言でもあるのだ。

 2021年以後のsyudouの楽曲には、この「爆笑」で歌われている独善的な生き方「のみ」が前面に押し出されていくようになる。「ギャンブル」、「孤独毒毒」、「いらないよ」、「インザバックルーム」、「笑うな」、「ギンギラギン」、「恥さらし」など、彼の近作の多くが同じようなモチーフを繰り返し辿っている。
 例えばアニメ「チェンソーマン」のEDテーマとして制作された「インザバックルーム」には、「ジャンクで汚れたこの声で うるせぇ外野を黙らせる」という歌詞がある。はっきり言ってしまえば、上記の楽曲群はどれも、この歌詞の引き伸ばし・変奏でしかない。「爆笑」以降のsyudouの作品には客観的な視点が存在せず、独りよがりに「自分らしく生きる」覚悟ばかりを叫ぶ、淡白で空疎な世界観に支配されてしまっている。もちろん、その(根拠のなさによってもたらされる)力強さがより多くのリスナーの共感を得ていることは間違いないだろうが、安易にそういったものに飛びつかせる作品はあまり建設的なものではないように僕には思えてしまう。
 皮肉なことだが、syudouは音楽家としての「自信」を獲得したことで逆に、「自信のなさ」によってもたらされていた客観性を喪失し、語るべきことを見失ってしまっている。その結果、自分のミュージシャンとしての成果報告と米津玄師へのリスペクトを反復するだけの平板な作品ばかりを量産するようになってしまっているように思えるのだ。これが僕の思う、2023年現在のsyudouが乗り上げている暗礁の正体だ。

 では、syudouがこの暗礁から脱出するためにはどうすればいいのだろうか。
 もちろん、syudouはハングリー精神を取り戻すべきだ、なんていう安易な言説では解決できるとは夢にも思わない。syudouの曲の柔軟性が、彼が自信を獲得していくことで失われてしまったということは確かだが、だからと言って自信のなさを再獲得するなどという方法は冷静に考えて現実的ではない。。
 2023年の彼は「自分らしく生きる覚悟」を新たに掲げている。それ自体は批判することではない。問題は、その覚悟が独りよがりな思い込みによって支えられている、非常に空疎なものだということだ。そして、前期syudouを支えていた「自信のなさから生まれる客観性」を取り戻すのではなく、現在のsyudouに合った「自信があることから生まれる客観性」を新たに追究していくのが解決策となるのではないだろうか。
 具体的にどういうことかというと、syudouがここ数年モチーフとして擦り続けている「一人で生きていく人」を第三者の視点から眺めるような曲が必要だ。主人公(syudou自身)の最強さを他人の目線から再確認するような、一種ナルシズム的な作品か、あるいは第三者から見た彼の滑稽さを描く(そしてその反動でさらに「自分らしく生きる覚悟」を強化する)作品を作るしか、今のsyudouが暗礁を抜け出す方法はないように思えるのだ。見方を変えれば、2022年以降の彼の低調期は同時に躍進への可能性を秘めたものだと言うこともできるかもしれない。

(1) 『ROCKIN'ON JAPAN』2023年11月号、rockin’on
(2) https://realsound.jp/tech/2022/04/post-1002965.html


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