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「時間は存在しない」件について、「忘却」の謎について

ぼくは頭が良くないので、実感からしかものを考えることができない。

「時間は存在しない」という実感にここ10年くらい、とらわれ続けている。1年が経てば1歳としをとるけれど、そんなの嘘だと思っている。あえて年齢という視点で見れば、老いというのは規則的に進むものではなくて、ある時突然きて、そのまま2週間もしないうちに死んでしまう、というケースをいくつも見てきた。そしてそれは、環境の変化という負荷によるものだった。

それで、ますますこの実感を言葉にしたいという欲望が増す一方。死は、突如やってくる。定期的に検査などをして、寿命を計画的に伸ばすことができるふうな情報が行き交っているけれど、もう一度言いたい、死は、あくまで、突如やってくるもの。諦めが肝心。それはさておき。

時間ではなく、変化しかない。変化というと、状況の変化と時刻の経過は実は、区別できない。これが、誰がなんと言おうと、大元にある直感。

たぶん、自分が怠け者だからそう感じたのだと思う。「三年寝太郎」という昔話が、ほんとうに嫌い。三年、という時間をカウントするのは、働き者の村人たち。寝太郎にとっては、別に何年だろうが問題ではない。しかしけっきょく寝太郎は不測の事態において村人たちの役に立ちましたよ、という結論にはほんとに怒りすらおぼえる。むしろ五十年寝太郎とかだったらよかったのに。。。

ぐだぐだ新聞を読んでいたら、ある日、カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』という本の新聞広告に出会った。著者は物理学者。どうも売れているらしい。これは読まねばと思い、手に取った。ぜひとも科学的に説得されたいと思った。とはいえ十分には理解できなかったので、吉田伸夫著『時間はどこから来て、なぜ流れるのか 最新物理学が解く時空・宇宙・意識の謎』という本も読んでみた。

その結果つかんだ数少ない理解。ひとつは、ビッグ・バン以来、エントロピーが増大し続けている(つまり無秩序に向かっている)がゆえに、時間の方向があるように感じられるということ。*しかしエントロピーが過剰に増大する過程で、それよりも規模が小さい、エントロピーの減少という現象が生じたことによって生命が誕生したという事実は決して無視できない!

もうひとつは、人間の意識が時間のダイナミズムを作り出しているということ。本稿でいちばん言いたいことは、むしろここからだ。

そもそも、時間は存在せずに変化だけがあると実感したのは、植物の世話を通してからだった。だって、季節ごとに、植物によってはいったん仮死状態になって、また花を咲かせたり、実を実らせたりする。賢明なみなさんはきっと、輪廻転生を連想されるかと思います。例えば仏教においては、この輪廻転生をわりとネガティヴにとらえる。いやいや、むしろ、ここには理想的な循環があるような気がする。

動物さえ存在しなければ。

生き死にを明確に区別しないのが植物であるとすれば、生存ということを明確に目的化したのがいわゆる動物だと思う。その理由のひとつには、巨大化が挙げられる。まだ微小であった時期には、動物的/植物的という区別もあいまいだった。

では、植物から動物へと、小さな飛躍が遂げられたとしよう。

これがかつての進化であった時。動物は記憶を獲得した。とくに人類にあっては。
批評家の東浩紀の著書『動物化するポストモダン』に倣えば、現代人はむしろ動物への一途をたどっているのかもしれないとはいえ、ここはひとまず動物化を一つの功績とみなしたい。

例えば牛。牛は、単純に、そこに生えている安全な草を本能的に選んで食む。何かを同定するプロセスというのが、要するに進化のプロセスだともいえる。

そのうえで人間が得た最大の能力というのはおそらく、「忘却」だった。というのは、多くの情報を抽象化し、無駄を捨象することで得られた財産だった。それを理性と呼んでもよい。「忘却」とはほとんど、科学と同義といってもいいように思う。似たものを探すというのは、細部を忘却するということだから。

科学的なアプローチによる時間論を何冊か読んだけれど、そのどれも、意識が「ある」ことが時間を形作っていると言っている。こんなことを言って傲慢かもしれないけれど、それは違うと思う。

むしろ時間を形成するのは「忘却」だと思う。これはぼくが生きてきた人生を賭けて言いたいことだ。

忘却こそが、物語を作る原動力になる(そこにまぶされる嘘の塩梅が「倫理」であり、「歴史」の定義だと思う。)記憶するための技術として物語があるという考えには、完全に同意しない。ぼくたちがいかに物事を忘れてきたかという尺度として、時間があるのだと思う。忘れっぽいがゆえに、時間を認識してしまう。このパラドクス。

このような考えを、少なくともぼくは読んだことがない。だからといって自慢したいわけでもない。だってこれが常識だと思っているから。でもぼくなんかが考えたからにはきっともっと、このことをうまく言っている哲学者などがいるはずだ。少なくともマルセル・プルーストは『失われた時を求めて』の中でそれを描いてはいる。

だからぜひ、ぼくと似た考えをもった哲学者などの著作があれば教えてください。「忘却」をむしろポジティブに捉えているような著作を。ふつう、忘却は倫理に反するから。

【付記】
書き忘れたこと。ハイデガーが『存在と時間』で死を先駆的に意識しろ的なことを言っているけれど、これも批判したいことのひとつだった。ハイデガーが仮にナチスに加担していなかったとしても、だ。これって要するに、企業がよく言う、自分の仕事を逆算して考えろ的な主張とまったく変わらないと思う。だって、逆算したって、その過程でいつぽっくり逝くかもわからないのにね。

いかにあらゆることを意識するかじゃないんだよ。むしろ、いかに忘れるかが切実な倫理なんだよ!!!東浩紀の言葉を借りれば、むしろ動物化するうえでの倫理が問題なんだと思う。

このお粗末な主張を、批判するなら大いにしてください。でもきっと、誰かの感情と理性には響くものと信じています。


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