千葉雅也/三浦瑠璃/東浩紀のゲンロン・プロレス鼎談を見た。

異色の対談だった。

左から順に、千葉雅也氏、三浦瑠璃氏、東浩紀氏。この席順も、誰が決めたのか絶妙だった。たまたまかもしれないけれど。

というのもあらかじめ、千葉氏と東氏とのツイッター上でのやり取りを傍観していた身としては、ついに東氏の『観光客の哲学』に対する千葉氏の「家族」という概念批判が展開されるに違いないと踏んでいたからである。千葉氏の事前のツイートは、いわばプロレスの試合が行われる前の挑発的スピーチとさえ思われた。

けれども、表向きは、三浦氏の『21世紀の戦争と平和』と千葉氏が関わった『欲望会議』刊行記念イベントであり、二人の対談という体裁を取っている。

どういう喩えがふさわしいかわからないけれども、互いは、少なくとも千葉氏は、三浦氏の意見に対して退屈しきっている感じがした。三浦氏がひたすら具体的な話を続けてそもそも徴兵制を肯定するその根拠を説明するのに言葉を割かないのに対し、千葉氏はどうして三浦氏がそこまで徴兵制にこだわりを見せるのか、それじたいを知りたがっている感じがした。この疑問は、東氏もまた共有していたように思うのだが、けれども、千葉氏の事前の挑発的スピーチがあったがゆえに、三者のバランスが変化した。もしもそれがなければ、東氏と千葉氏がもしかして、三浦氏を追及するような構図にもなりえたかもしれない。じっさい、そのような場面も見られた(例えば、カントの解釈をめぐって。あるいは、三浦氏がひたすら具体的な話に逃げるのに対し、その根拠を相対化しようとする二人の意図)。

しかし万華鏡の図柄が一挙に変化するように、三浦氏は、千葉氏と東氏とのクッションのような存在に成りかわる。頭の良い三浦氏だから、その役割を引き受け始めた流れの変化もはっきりとわかった。

ここから千葉氏と東氏との対立が明確になる(それで三浦氏も安心したところがあるのかも)。かねてから、東氏の『観光客の哲学』の一部をなしている家族の哲学の「家族」という言葉に対して、千葉氏は違和感を覚えていたようで、新たな公共の哲学を打ち立てようとしている東氏に対して噛み付くことになる。
なぜあえて「家族」でなければならないのか。それに対し千葉氏は「独身者の哲学」をあくまで擁護しようとする。家族という言葉が押し付けてくる規範性にどうしても我慢がならないらしいのだ。なにしろ千葉氏は、おなじゲイどうしに対してさえ、いわばマッチョなゲイを嫌っており、ゲイ社会にさえそうした規範性が存在していることを批判している。そうした意味での規範性とは、性を超えるものであって、その点を批判しているようにも思われる。

一方、東氏は「家族」という従来の狭い概念を拡張したいと望みつつ、「フィリアシオン(系譜)」を重視し、またそれゆえ時間性というものを考慮にいれているらしい。だが千葉氏は系譜という点から見て、時間性は個人の寿命という範囲内に制限されざるをえないがため(か?)、やはり家族という言葉の選択には組みしない。個(子)という形で何となく世代を繋ぐ、そうした時間性に断固抵抗したかったのだろうか。

東氏は、哲学的な観点から見て、ヘーゲルやカント的な公共の哲学をアップデートし、哲学の意義を更新することこそが自分の使命のように語り、千葉氏の主張は哲学的に間違っていると主張する。その根拠は、これまで人類が生殖をしながら「じっさいに」存続してきたのだから、その事実を前提とするような哲学を樹立しなければ哲学の存在意義はなくなってしまうと懸念しているようだ。

だが、カンタン・メイヤスー が言うように、ある時、偶然的に世界の物理法則が一変してしまうとしたらどうか。東氏はそれを、SF小説じゃないんだからと言うかもしれない。そんな極端な話じゃなくてもいい。いま、もし、人類が、滅亡に向かって疾走しているとしたらどうか。だとしたら、その滅びを「最期に」哲学化するのも、もしかしたら哲学者の役割なのかもしれない。

東氏の語る哲学は、SF小説の、一つの世界観を創造しようとしているように見えて仕方がない。その意味で、三浦氏に近づいている。彼女は、すでにもう、一つの閉ざされた世界観を作り、その中でのみ議論を展開しているように見える。それに対して千葉氏は、できるだけそこから離れようと志向している。現実とSF小説、いったいどこまで分けられるの?と常に問い続けている。
これって、ほんとうに、子供っぽい所作だろうか。20世紀の現代思想は、ほんとうに子供っぽかったのだろうか。事実としてはそちらに暴走したかもしれない。けれども、東氏がそうした哲学から離れようとしているのなら、同時に、それに反発する哲学が、滅びの哲学が生まれてきてもいいんじゃなかろうか。その対立の先に、何かよくわからないもやもやとしたものが生まれてきて、もうしばらく人類が続いていくことになれば、面白いんじゃないか。首を傾げて、あいかわらずなんで人類なんて存在してるんだろうと自問する誰かが存在すれば面白いんじゃないか。

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