「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」は昭和から平成に贈られたチャッキー人形レベルの“いやげもの”であり、「劇場版仮面ライダージオウOver Quartzer」のアナザーバージョンだったのだ概論

■安くなかったら観ない

 9月1日、日曜日。映画館の値引き日。
 というわけで、興行成績への影響を最小限に収められるだろうと思い、野次馬気分で「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」(以下・ドラクエYS)を観てみた。

 端的に言えば実写「デビルマン」並である。
 あの「デビルマン」を公開初日にフルプライスで観に行って、前売り特典のDVDが500円で売られていたのを見て、劇場を出て「ひどいものをみた」と独りごちて、後年にサンストリート亀戸を訪れて「ここデビルマンじゃん!」とニヤついた、そんなリアル・デビルマン・エクスペリエンスを持つ自分から言わせてもらうに、「デビルマン」並である。
 アニメ映画で言えば、「画の動く虚無」と言える中身の無さだった「ポッピンQ」よりは僅かに上回るが、「しょうもないSF」だった「ベクシル 2077日本鎖国」には劣る。なお、個人的なアニメ映画の最駄作は「ガンドレス」(作画の件ばかり話題に上がるが、シナリオやコンテのレベルから死んでいた。作画の酷さはゾンビにトドメを刺したようなものに過ぎない)であり、これに肩を並べられるものは流石に観たことがない。

 閑話休題。「ドラクエYS」の批評としては、いわゆる「原作レイプ」を槍玉に上げたものが多いが、根本的に映像作品として単純に出来が悪い。

 まず1カットごとが無駄に長い。これが緊張感を持たせるための長回しならまだ分かるが、そういう演出でも無く、ダラッと映像を垂れ流しているだけだ(「GODZILLA 決戦機動増殖都市」よりはマシなレベルだが)。また、その無駄な尺をカバーしようとしたのかセリフも長い。それは説明的というわけでもなく、無意味な引き伸ばしに終始している。そんなわけでテンポがひたすら悪い。

 余談だが、「ドラクエYS」からハシゴで「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」も観た。こちらは2時間40分という長尺であり、「アベンジャーズ/エンドゲーム」(3時間2分)のように多数のキャラクターが出るわけでもないのに、セリフは簡潔、カットは緊張感があり、全体的にキビキビと展開されていき、中弛みと言えるシーンが存在しない。“タランティーノ節”が炸裂している映画なので人を選ぶ作品だが、観た後「久しぶりに映画らしい映画を観たな」と思える出来だ。「ドラクエYS」を観るのに使えるカネとヒマがあったら、こっちを観た方がお得だ。

 「ドラクエYS」にも良いところはある。画作りは頑張っている様子で、背景キャラクターをコピペで増やさず、覆面マッチョやチビハゲヒゲデブなどまで作っている点は評価したい(デビルマンのCGがよく出来ていたのと同程度に)。ただ、背景の色使いがビビッドなうえ、大してボカさず撮っているので、観客の視点を散乱させている。「せっかく描いたので見せたい」という気持ちは分かるが、これはいただけない。また、ルドマンのモーションなど皺寄せが行っている部分は顕著だ。主人公の娘が登場しなかったのも、モデリングの時間やコスト的な問題だろう。

 最大の問題点は、監督・脚本である山崎貴氏と「ドラゴンクエスト」ファン層との意識の乖離、それによって生み出された出来損ないのシナリオである。

 「ドラクエYS」のベースは「ドラゴンクエストV 天空の花嫁」だ。オリジナルであるスーパーファミコン版が発売されたのは平成4年(1992年)。当時の思い出を持っている人は、アラフォー以上が大半だろう。普通に考えれば、その世代に向けたエッセンスは必要となる。

 しかし、「ドラクエYS」は「トムとジェリー」や「ルーニー・テューンズ」のような過剰にコミカルなモーションが散見されるように、ベースラインが“子供向け”にある。終盤のコンピュータウイルスが出てくるシーンは原作レイプとして非難されているが、それ以前に「私はウイルスだ」「ワクチンの剣でやっつけろ」という展開からして、小学1・2年生向けのデザインだ。

 恐らく山崎氏には、ビデオゲームというものに対して「子供のピコピコ」という認識しか無いのだろう。1億ドル以上の開発費をかけたタイトルがざらにあり、老人がビデオゲームの歴史を語り、40絡みのプロゲーマーが大会で声援を浴びる、この時代に。


■昭和の価値観とビデオゲーム

 山崎氏は、言ってみれば“昭和の人間”である(個人的には元号という非定期スパンで区切るのは好まないが、この表現が便宜的には一番適切だろう)。「ドラクエYS」と並行して公開された昭和8年の日本海軍を描いた同監督による「アルキメデスの大戦」や、昭和33年の下町を描いた「ALWAYS 三丁目の夕日」は評判がいい(別の言い方すれば、この2作だけはどうにか安定した評価を得ている)。依頼されるのも、昭和49年刊行の単行本に収録された「さようなら、ドラえもん」や昭和52年刊行の単行本に収録された「のび太の結婚式?!」を再編したものや、昭和49年に放映された「宇宙戦艦ヤマト」を再編したものだ。

 “昭和の人間”の価値観とは、具体的には「狭いコミュニティをゆるい整合性で保つことが是である」であると言えるだろう。「サマーウォーズ」で肯定的に、「来る。」で否定的に描かれた、“田舎の実家”のイメージがひとつの象徴だと言えば分かりやすいと思う。良く言えば浪花節の世界、悪く言えば集団的・閉鎖的・独善的な世界だ。

 ビデオゲームは、それとは逆に個人主義で、個人間の友情や愛情が尊ばれ、製作者の価値観や用意された不都合と交渉していくような世界であり、その世界は「狭く、保つもの」でなく「広く、壊す(冒険する)もの」だ。お定まりの浪花節よりも、抑圧が逆転したときのカタルシスが好まれる。端的に言って、“昭和の人間”にビデオゲームの世界は理解できない。

 “昭和の人間”の理解が最も遠いのが、RPGプレイヤーの視点だ。RPGのプレイヤーは“神の視点”から主人公たちの戦いを眺めつつ、感情移入した主人公の視点でナラティブを感じ、さらに自分自身の「ゲームをプレイする」という体験も得る。第三者の視点、主人公の視点、自分自身の体験が入り混じった、複雑な状態となっている。

 また、ビデオゲームは“ユーザーがプレイヤーになる”という点も独特だ。音楽ならユーザーはリスナー、プレイヤーは再生デッキ。スポーツならユーザーはオーディエンス、プレイヤーは選手。しかしビデオゲームではユーザーがプレイヤー。RPGのストーリーは、ビデオゲームの上で進行するのと同時に、ユーザーの中でも進行する。

 この視点がどういうものか、ゲームを題材にした映画はどう作るべきかというのは、それこそゲーマーでないと分からないだろう。押井守氏の「アヴァロン」や「アサルトガールズ」は、まあ何と言うかゴリゴリの“押井作品”だが、それを横に置けば「ガチのゲーマーな監督によるゲームを題材とした映画はこういうもの」といったケースとしては典型的なところにある。そして「ドラクエYS」は、その域に指先すら引っかかっていない。

 例えば、ファミコン時代を描いた漫画などにおいて、母親が「ゲームなんかやめて、早くご飯食べちゃいなさい」と子供に言うのはテンプレート的なシチュエーションだ。なぜ“昭和の人間”である母親は「ゲームは簡単にやめられる」と思い、子供は「ゲームはすぐにはやめられない」と思うのか。母親にとっては「ピコピコ遊びに夢中になってるだけ」という認識だが、子供にとっては「自分自身に課せられた戦い」という認識だからだ。

 そんな“昭和の人間”の例に漏れず、山崎氏はドラゴンクエストに対して「子供が夢中になるピコピコ遊び」という認識を持ち、それを元に映像化した。実際のファン層や、ファンが望むものを全く考えずに。ファン層の世代なら家族持ちである可能性は高く、それを対象とした「ファミリー向け」なら分からなくもないが、それですらない「子供向け」として。

 原作に対する本質的な理解を放棄した制作法は、シナリオのデザインにも影響を及ぼしている。その主題は「ゲームは単なるピコピコだけど、自分にとっては大事な思い出」というものであり、ファンが抱えているであろう「ドラクエは現実的なエクスペリエンスとして人生の一部となっている」といった気持ちとはかけ離れている。構成は、原作の上辺をおっかなびっくり撫でるような大筋で、ラストに用意されたサプライズは、「原作のif」などではなく雑な子供向けアニメから引っ張ってきたような擬人化されたコンピュータウイルスという、チープなメタネタだ。


■作品が勝利した世界と、敗北した世界

 さて、メタネタと言えば、記事タイトルで大振りしていた「劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer」(以下・ジオウOQ)である。

 「ジオウOQ」は、平成の否定と、平成による自己救済のストーリーだった。同作で“平成のアンチテーゼ”として登場した常磐SOUGOは、平成ライダーのシリーズを「石ころだらけのデコボコな道」と評し、メタな視点から「お前たちの平成って醜くないか?」と宣い、平成の時代を再構築しようとする。

 「ドラゴンクエスト」シリーズも、あまりシリーズでの整合性は無い。ロト三部作や天空三部作といった大まかな枠組みはあるが、平成ライダーにも似たデコボコの道だ。その中で「ドラゴンクエストV」とは何なのか? 「ドラクエYS」では、それに「ゲームだから」と答えている。「だからドラクエでお馴染みのロトの剣も登場しますよ」と。

 「ジオウOQ」では、「そういう作品だから」という部分を“シリアスな笑い”のシーンとして軟着陸させ、平成を再構築せんとする巨悪を「作品の力」で克服した。この勝利は「独立自治権の獲得」に例えられるだろう。

 「ドラクエYS」も、例えば「大乱闘スマッシュブラザーズSP」におけるドラクエ主人公が集結したミナデインのような形でケリを付けたら、それはメタネタにせよ“ゲームによるゲームの肯定”として、観客を納得させられただろう。しかし、コンピュータウイルスというメタネタは、ワクチンプログラムという“強いメタネタ”で克服される。ビデオゲームと無関係な“強いメタネタ”による勝利は、すなわちビデオゲームの否定だ。ビデオゲームでないものでビデオゲームを肯定する方法は「特定人種居住区の認可」、アパルトヘイトみたいなものである。

 「ドラクエYS」の世界には、メタ的に認められたドラゴンクエストや、定番スタイルのフィクションだけが存在する。常磐SOUGOがジオウに勝利していたら、きっとこういう世界になっていただろう。一見、むしろ問題が減っているようにも見えるが、しかし表現の自由さも励起させる感情の振り幅も限られた、生温い世界だ。

 コンテンツに過剰なパワーがあってはならない。冒険的な表現は無駄。シリーズの中で強い個性を見せるタイトルは不要、アニメはアニメらしい姿、ビデオゲームはビデオゲームらしい姿、エンタテインメントにはエンタテインメントらしい姿であればいい。コンテンツ制作の界隈では企業務めのサラリーマン系アーティストが陥りがちな解釈だ。この、物事を型に嵌めて自身も型に嵌まるような思想は、“昭和の人間”なら正しい。

 だが、今はそういう時代でもない。趣味だけでなく性や思想の自由が叫ばれ、価値観は多様化し、新旧さまざまなスタイルのコンテンツがすぐ手の届く場所に置かれている。家族関係は希薄になり、田舎の親戚よりも地球の裏側に住む人の方がコミュニケーションを取りやすい。仮面ライダーは王道ヒーロー路線に、アマゾンズのようなハード路線、ゴライダーのようなスチャラカ路線、漫画クウガのようなカオス路線もある。ドラゴンクエストは、王道JRPGとして知られる一方、最新作はオンラインゲームで、ポケモン的なノリのタイトルや、サンドボックス系のタイトルもある。物事の本質を見失うような世情とも言えるが、歴史的にはこの上なく自由の時代だ。

 そんな世の中を見渡すことすらせずに、「ピコピコをストレートな子供向けアニメにして、定番のサプライズを入れればウケるだろ!」と“昭和の大人”が作り、「ドラゴンクエストV」をプレイした平成時代の人々に贈ったのが、「ドラクエYS」だった。まるでリメイク版「チャイルドプレイ」のチャッキー人形だ。みうらじゅん氏が言うところの「いやげもの」だ。

 令和の現在、“大人”に求められるものとは、型に嵌まってありきたりなものに収まる姿勢ではなく、自己の確立と他者には自分と異なる価値観があると理解することだろう。唯々諾々と「ドラクエYS」のようなコンテンツを作ってしまう・作らせてしまうような大人たちが“大人”になってくれるよう祈るばかりだ。

 余談だが、まだ山崎氏が挑戦的な映画を作っていた頃、「ジュブナイル」では主人公の少年が搭乗するガングリオンというロボットの操作方法がPS2のDualshock 2だった。ビデオゲームやアニメ、漫画といったものは山崎氏にとって少年の象徴のようなものなのだと察せられる。すなわち大人になったら棄てるべき「おもしろ」に過ぎず、だから漫画・アニメ原作の「寄生獣」や「宇宙戦艦ヤマト」はああなったのだろう。この辺について、クソ映画を何本も観て深堀りする気力は流石に無いが。


■おまけ

・「これはゲームの世界です」としているのに、「フローラが占いオババに化けていた」など主人公から見えないシーンを描くのは、単純に山崎氏の記憶機能や判断能力が疑わしい。病院での診察をおすすめしたい。
・未来世界なのにSFC版に思い出があると言っている主人公は何歳なのだろう。ここもシナリオ的な整合性が欠けている。ちゃんと病院で診察を受けるべき。
・スティーヴン・スピルバーグ氏の「レディ・プレイヤー・ワン」は、よく出来た映画ながら「オアシスに定休日を設ける」という、原作とは異なる「ゲームは所詮ゲームという」結末で終わる。老人にビデオゲームと人生の関係を理解することが難しいのは日本に限った話ではない。
・RPGはプレイヤー各々にナラティブがあるので、いちいち「ユア・ストーリー」だのと言って、「これはゲームを体験した人の話なんです」とする必要はなく、ビデオゲームのシナリオを映画なりにアレンジするだけで、観客は自身のナラティブを投影、あるいは比較して、それだけで「自分の物語はこうだ」というものを得られるだろう。「ドラクエYS」のような手法は壮大な無駄、というか「ビアンカとフローラで悩んで、結局ビアンカ選んじゃうんですよねw」という主人公を据えて「これが君の物語」と言ってる時点でフローラ派やデボラ派を切り捨てている。コンセプトの時点から、「ドラクエYS」は「ユア・ストーリー」でなく「奴のストーリー」になることが半分は確約されていた。
・腐った邦画界の象徴。ゴキブリすらひっくり返って死ぬような腐敗した糞の山。
・ゲマ役・吉田鋼太郎氏の演技はとにかく素晴らしい。恐ろしさと艶やかさのある演技は、言い方としては難があるかもしれないが、本職声優が見せる型に嵌まった演技よりも魅力的なほどだ。ここに素晴らしい「型を超えることの美しさ」があったのに、「ドラクエYS」自体は誰も望んでいない型の中で自殺してしまった。

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