★四半世紀ほどゴジラを見て生きてきたけれど「シン・ゴジラ」は本当にゴジラ史上最高で、だけど「シン・ゴジラは最高」で停止していいものでは決して無く、そして今までのゴジラ映画は何故「シン・ゴジラ」になれなかったのかを振り返り(with僕視点)つつ、僕は「完璧な平成ゴジラ」的作品を観てみたいんだよねと言う話。

*恐怖=魅力である(のだが)

 僕が産まれたのは「ゴジラ(1984)」が公開された3年後。物心付く頃には「ゴジラVSビオランテ(1989)」や「ゴジラVSキングギドラ(1991)」,「ゴジラVSモスラ(1992)」といった、いわゆる【平成ゴジラシリーズ】の展開が固まっていて、ゴジラが「居て当然」の幼少期だった。

 初めて見たゴジラ映画は「モスラ対ゴジラ(1964)」だったと思う。「ゴジラVSモスラ」の公開時期、地方局でTV放映されたものだ。当時5歳。「台風でモスラの卵が日本に漂着し、興行家に買い取られ、小美人が誘拐され……」といったストーリーラインを把握する事すら出来ていなかったが、しかしプリミティブなゴジラのキャラクター性――【巨大で凶悪でカッコいい】事はよく解った。

 それからずっと、ゴジラの虜だ。地上波放送で「ゴジラVSキングギドラ」や「ゴジラVSモスラ」、レンタルVHSで「ゴジラ対ヘドラ」や「ゴジラ対メカゴジラ」等を観た。初めて劇場で観たゴジラ映画は「ゴジラVSメカゴジラ」だった気がする。コロコロコミックに掲載されていたコミカライズ版の話を、劇場で出会った見ず知らずの男児としていた覚えがある(「キングギドラの魂がメカゴジラを乗っ取るんだよ」等……恐らく上映中にだ! 連れて行ったのは親だか祖母だか忘れたが、映画の上映中に喋る子供なんて殴るか殺すかすべきだろう。すべき)。

 ゴジラは市街を破壊し自衛隊を薙ぎ倒す悪獣だが、ウルトラマンの怪獣や仮面ライダーの怪人と違って、男児にとっては憧憬の対象となる。一切に拘束されず、奔放を尽くしてあらゆる障害を打倒するゴジラには、ピカレスク・ロマンのダークヒーロー的な魅力があるからだ。例えるなら、絶大な腕力を持った「クレヨンしんちゃん」の野原しんのすけみたいなものだ。男児が憧れない訳がない。

 男児は、ゴジラが恐ろしいからこそ「カッコいい」と思い、敬愛する。モンスターは恐ろしい力を持つからこそ魅力的であり、エイリアン、プレデター、ダース・ベイダー、ヒューマンガス、レクター博士、貞子などが恐怖や畏怖と同時に愛されるのも、似たような理由だ。

 エフェクトの派手さを重視する川北紘一氏の特撮と、薩摩剣八郎氏が凶暴さを重視して演じたゴジラは、【恐ろしいゴジラ】を大いに演出していた。ゴジラは、子供たちにとって最高峰のダークヒーローだった。

 だが、大人たちはあまりそう見ていなかったようだ。


*大人達の「上から目線」

 「ゴジラ(1954)」~「メカゴジラの逆襲(1975)」の、いわゆる【昭和ゴジラシリーズ】で、本格的なモンスターパニックであった、ないし本格的なモンスターパニックを目指していたと言えるのは、精々「ゴジラ(1954)」と「ゴジラの逆襲(1955)」程度だろう。「ゴジラの逆襲」から7年後、日米ドリームバトル企画として再始動した「キングコング対ゴジラ(1962)」からは大衆娯楽路線。キングギドラ初登場の「三大怪獣 地球最大の決戦(1964)」を堺に、シェーで有名な「怪獣大戦争」からは子供向け路線。最終作と予定されていた「怪獣総進撃(1968)」を堺に、「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃(1969)」からは子供向けかつ低予算路線。ゴジラは「キングコング対ゴジラ」の1962年~「メカゴジラの逆襲」の1975年まで、口当たりの軽いスナックであり続けた。

 スナックを食べ続けた大人達は、ゴジラに対しての「恐ろしさ」を忘れ去っていたのだと思う。もし「恐ろしさ」を覚えていたら、「ゴジラ(1984)」はあんなにふざけた――大した影響のない原発破壊やゴジラに啖呵を切る武田鉄矢など――映画にはなっていなかっただろう。平成ゴジラシリーズに携わっていた大人達は、ゴジラに対する「どうせ子供向けだ」という【上から目線】を持っていた。

 流石に「ゴジラ(1984)」のような酷い軽視ぶりはそれ一作で鳴りを潜めたが、それでも続いた【上から目線】がある。それは、【破茶目茶なシナリオを良しとする姿勢】と、ゴジラを【可哀想】と見る傾向だ。

 ゴジラの恐怖を忘れた大人達は、ゴジラをむしろ【可哀想】な存在と見なしていた。「ゴジラ(1984)」では三原山火口へ消えるゴジラに総理大臣が涙を流し、「ゴジラVSキングギドラ(1991)」ではゴジラの正体は悲劇的な運命を背負った恐竜であるとされ、「ゴジラVSメカゴジラ(1993)」では唯一の同胞を追い求める孤独な獣と描かれ、「ゴジラVSスペースゴジラ(1994)」では同胞を解放するため戦う存在と位置づけられた。そして「VSデストロイア(1995)」では【体内の炉心が暴走している】という設定で、死を免れない哀れな存在として描写される。

 これらの【可哀想】な描写は「不要だった」とまでは言わない(自身としても悲劇作品として楽しんでいた部分はある)が、ゴジラを陳腐な物とした側面は否めない。

 それでも【巨大なモンスターたちがビームを撃ち合って戦う】というビジュアルは強烈で、平成ゴジラシリーズは大きな人気を博した。今でも「ゴジラ」と言ってイメージされるのは、平成ゴジラの姿だ。平成ゴジラシリーズの10年間は、いわばゴジラの黄金期だった。

 そんな平成ゴジラシリーズは、ハリウッドによるゴジラ映画制作が決定するに伴い、「ゴジラVSデストロイア」で一旦の収束を迎えて、平成モスラシリーズ(1996~1998)へとバトンを渡した。

 しかし平成モスラシリーズの時代、怪獣の世界で2つの【事件】が起こる。


*「オタクの襲撃」と「ハリウッドのパワー」

 【事件】の1つは、大映による平成ガメラシリーズの出現だ。平成ゴジラシリーズは、大河原孝夫氏や川北紘一氏など大作映画の畑で育ったスタッフが主要となっているが、平成ガメラシリーズのスタッフは、押井守氏の後輩にしてロマンポルノ畑の金子修介氏、根から特撮畑の樋口真嗣氏、アニメ畑の伊藤和典氏といったスタッフが主要となっている。言ってしまえば【オタク寄り】だ。その【オタク寄り】のセンスは、平成ガメラシリーズの主題の1つ、「少女」にも現れている。

 オタクをオタクたらしめる性質は何かと言うと、「踏み込んでいく探究心」にある。平成ガメラシリーズは最初の「ガメラ 大怪獣空中決戦(1995)」こそミニチュアや合成の甘さが目立つものの、「ギャオスの未消化物にたかるフナムシ」や「夕日を背負って東京タワーに営巣するギャオス」など、綿密な設計の元に産み出された印象的なシーンが多い。

 続く「ガメラ2 レギオン襲来」では、恐らく怪獣映画初であろう「詳細なライフサイクルを設定された怪獣」の登場や、「横滑りしながら火球を連射するガメラ」という合成映像の制作が非常に困難なシーンなど、オタクだからこそ為し得た表現が、多くの人に強い印象を残した。前作よりも多額の予算が積まれたゆえにミニチュアや合成のクオリティも大幅に向上している。

 この映画の出来の良さは、20年が過ぎた今でも語り草だ。そして金子監督は、(後述するが)後にゴジラへの援軍として東宝に呼び寄せられる。東宝に与えたガメラのインパクトが察せられるところだ。

 ただ、「踏み込んでいく探究心」とは、逆に言えば「のめり込み過ぎる視野狭窄」でもある。そんな逆側が存分に発揮された「ガメラ3 邪神覚醒(1999)」は、非オタク層にはさほど響かず、平成ガメラシリーズはそこで収束する。

 もう1つの【事件】は、トライスター・ピクチャーズによるハリウッド版の「GODZILLA(1998)」だ。「GODZILLA」の評判は、当時から今日まで芳しくない。当時は大抵「これはゴジラじゃない」と言われたし、「ありきたりなストーリーだ」とか「ジュラシック・パークみたいだ」とかこき下ろされた。

 しかし、ゴジラ関係者に与えた衝撃は、決して小さくなかったように思える。

 ゴジラは吐息を浴びせるほど人間の近くまで来た事があったか。
 ゴジラにヘリコプターを噛み砕くダイナミックさがあったか。
 ゴジラでリアルな恐怖を演出できた事があったか。

 単純に「映像の出来」について言えば、ハリウッドの予算とアイディアで作られた「GODZILLA」は、今までの特撮映画を軽く飛び越えるほどのクオリティだった。僕は、「GODZILLA」に対する反対意見の多くが、悔しさから出た負け惜しみだと思っている。

 ゴジラ(1984)では、実物大のゴジラの足や新幹線のセット、油圧で動くロボット(サイボット)などが制作された。それらは確かに「意欲的であった」と言えるが、それらを用いて撮影したシーンの迫力は、「GODZILLA」の【ゴジラが頭上を跨いで通り過ぎる】シーンに対して圧倒的に劣る。良く言っても「力の入れ場所がズレていた」とするのが関の山だ。歳月や資金力の差を考慮するとしても、根本的に映画作りに対するスタンスが違うのだ。

 クチでどれだけ「あんなのはゴジラじゃない」と、「ストーリーがチープ」だと否定しようが、「GODZILLA」は完成度が高い映画であり、ゴジラ関係者に与えた衝撃は大きかった。「GODZILLA」に影響されて始動した「ゴジラ2000 ミレニアム(1999)」にはそれが如実だ。

 そして、それは地獄の季節の始まりだった。


*「的外れ」を投げ続ける東宝とゴジラの凋落

 「ゴジラ2000 ミレニアム」には、雪辱の意志が節々に見える。如実なのが「トンネルへ逃げ込んだ車に執着するゴジラ」のシーンで、これは実質的に【特撮によるGODZILLAクライマックスのリメイク】だ。また、敵怪獣のオルガは「GODILLA」版ゴジラに寄せたデザインであり、ゴジラがこれに勝つのは「日本のゴジラがアメリカのゴジラを倒す」という意図が込められていたという。

 「ゴジラ2000 ミレニアム」では、従来のゴジラを度外視した「GODZILLA」に対抗するかのように、「ゴジラの刷新」が目指された。デザインの刷新、伊福部マーチの卒業(平成ゴジラシリーズで失敗したのに!)、リアリティの重視によるメーサー兵器の撤廃、熱線の仕様の変更。ただ、それが功を奏したとは思えない。ファンという生き物は、「前を超えるもの」は歓迎するが、「前と違うもの」には興味もない。

 【以前よりも小さい】体高55メートルの、あまり放射熱戦を吐かないゴジラが、薩摩ゴジラのような凶暴性を見せず、ゆったりと侵攻する。平成ゴジラシリーズを観ていた者にとっては、「矮小になった」としか感じられなかった。「ゴジラ2000 ミレニアム」のゴジラは「まだ成長しきっていないやんちゃな個体」のイメージで表現されたとのことで、それ自体は面白いアイディアだと思うが、しかし【矮小なゴジラ】のイメージを加速させる役にしか立っていない。

 また、Gフォースやメーサー兵器といったファンタジーの要素を撤廃してリアリティラインを無駄に押し上げた為、宇宙人や金属弾頭ミサイルなどが【浮いて】しまっている。ゴジラに対してロケット花火のようなスピードで飛んでいくミサイルや、ゴジラを八方からミサイルで攻撃して腹を合わせて90度上昇していくF-15群(これもゆっくり飛ぶ)なんて失笑の極みだ。宇宙人がFlashムービーのような映像で人類へのメッセージを布告する様子なんて、これで良しと思える神経がどうかしている。

 個人的には根室上陸や新宿破壊の特撮シーンに関しては褒めたいが、描写の機微に欠け、シナリオの質も単純に低い「ゴジラ2000 ミレニアム」は、何もかもが「期待はずれ」だった。実際、「ゴジラ2000 ミレニアム」の興行収入は、平成ゴジラの半分程度に留まっている。

 ミレニアムシリーズは「ゴジラの復活」を模索しつつ、失敗を積み重ねる。特に子供向けに走った「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦(2000)」は悲惨としか言いようが無い。「大阪への首都移転」という全く無意味な設定(本作の主な舞台は東京)。粗雑極まりない「マイクロブラックホール砲」や「古生代からのタイムスリップ」のSF設定。玩具スポンサーの要望で、デザイナー・西川伸司氏の手を離れて【爬虫類のような口】でフィニッシュされた昆虫怪獣メガギラス。尻尾を回してトンボ取りをするゴジラ。バグフィックスをするCGキャラクターのキリコちゃん。ブラックホール砲で消滅したはずが、土中から出てくる(偶然にも主人公である少年の目の前に)ゴジラ。

 当時13歳の僕は思った。
 ふざけるのも大概にしろ。

 水没した渋谷など特撮シーンの一部に関しては褒めたいが、同様に子供向けに走ってゴジラシリーズ異端の作品となった「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」と底を張り合うレベルの【程度の低さ】だ。実際、「×メガギラス」は「ゴジラ2000 ミレニアム」よりもさらに低い興行成績を記録している。

 まあ、常に暇を持て余して娯楽を求めている子供という生物をターゲットにしたビジネスは、当たると大きい。実際、2016年における映画の国内ランキングをざっと見ると、1位はドラえもん、暗殺教室、名探偵コナン、ズートピア、ファインディング・ドリー、ワンピース……子供をターゲットにした(および子供もターゲットに入った)映画がおおよそ半分を占めている。それを考えると、「ゴジラ2000 ミレニアム」が振るわなかった後、東宝が子供向けへと舵を取ったのも理解できる。

 しかし、子供というのは多くが非常に保守的な傾向を持っている。新しい物よりも馴染んだ物を好み、異質な物に対して許容より排除を選ぶ。また、子供は世代交代が早い。それにおいて、変化したゴジラのデザインと日本製ゴジラの休眠期間は、完璧な悪手を付いていた。結果として産まれたのは、大人も子供もオタクも興味の無いゴジラだ。余談だが、角川の「小さき勇者たち GAMERA(2006)」がコケたのも同様の理由だろう。

 東宝は更に焦ったのだろう。「ゴジラ2000」と「ゴジラ×メガギラス」で使用した【新時代のゴジラ】を早々に放棄してまで、かつて脅威を感じた「特撮で実績のある監督」を、ゴジラの援軍として呼び寄せた。平成ガメラシリーズを手掛けた、金子監督だ。

 金子監督は「悪意に満ちた凶悪なゴジラ」の登場する「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃(長いので以下、GMK)」を制作し、それはミレニアムシリーズ最大の興行成績を記録している。「GMK」は「ハム太郎との併映で集客が良かったのであり、作品自体の評価ではない」とよく言われるが、続く2作品もハム太郎併営に関わらず数字を落としたのを鑑みると、「GMK」は純粋に高評価を得ていた――凶悪なゴジラの登場するゴジラ映画こそが正解だったと言えるのではないだろうか。

 「GMK」は、ゴジラの再襲来を予感される形でエンディングを迎える。ハム太郎に惑わされず、本作の続編が作られていたら、歴史は違っていたかもしれない。

 続く「ゴジラ×メカゴジラ(2002)」および「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS(2003)」は、機龍のデザインと「モスラ」や「サンダ対ガイラ」など旧作を取り込んだ背景設定こそ評価は高いが、シナリオは酷いものだ。例えば「ゴジラの塩基配列を元にしたDNAコンピュータが本物のゴジラの鳴き声に反応したため暴走したけれど修飾塩基に変更したから大丈夫。かと思ったらやっぱり暴走」なんて、どの角度からツッコミを入れればいいのか解らない。はみ出し者の主人公を笑顔で受け入れる仲間の隊員たち(カメラPANで薄ら笑いを浮かべる男たちを映す)なんて、寒いにも程がある。興行成績は、再度「ゴジラ2000 ミレニアム」未満へと落ち込む。(ただ釈由美子の乳が揺れるランニングシーンはいいと思う)

 機龍にはファンが多く、海外でもIDWのコミックではデストロイアを斃し(ジェットジャガーの操縦で!)、SF小説「Ready Player One」では敵のボスの乗機となるなど、人気のある様子が伺える。それなのに、粗雑なSF設定と「暗い過去のある女性自衛隊員が幼い少女や仲間との触れ合いを通して前向きになりゴジラを退ける」といった陳腐なシナリオのせいで台無しになっている。非常に残念極まりない。(ただ釈由美子の乳が揺れるランニングシーンはいいと思う)

 子供向け路線は失敗し、恐怖路線は諦め、旧作オマージュも不評。八方塞がりになった(と思い込んだ)東宝は、ゴジラシリーズの休眠を決定する。その最後を飾るためにメガホンを持たされたのが、派手なアクション映画に定評のある北村龍平監督だ。

 そして作られた「ゴジラ ファイナルウォーズ(2004)」は、ゴジラと10怪獣の戦いあり、超人によるアクションシーンあり、空中戦艦あり、北村一輝の怪演あり、ドン・フライのボクシングありと、【超豪華なゴジラ対メガロ】といった雰囲気のボンクラ映画で個人的には大好きなのだが(マイケル・ベイの「トランスフォーマー」とか「バトルシップ」とか「パシフィック・リム」とかボンクラ映画が好きな奴はこれも好きだろ? なあ?)、「ゴジラ対メガロ」が駄作の枠に入る事を鑑みると、【山盛りの糞】であるという一面も否めない。と言うか、特撮ファンの大半である保守層には【山盛りの糞】な面の方が大きく見えるだろう。

 個人的には、「ゴジラ ファイナルウォーズ」を貶す輩は頚椎が折れるまで殴り回したり内臓がジュースになるまで蹴り回したいくらい好きなのだが。まあ。


*「完璧な敗北」が拓いた道

 かくして、ゴジラというコンテンツは壊滅した。「怪獣映画は時代遅れ」という声は多く、自分も当時はそう思っていたが、振り返ってみると、読み違えとヌルい作品作りを繰り返した東宝による単なる自爆である。ゴジラ映画も、【前評判や出演者の名前で客を寄せるのが第一でシナリオなんか知ったこっちゃない】下らない邦画の一角でしかなかった。

 ゴジラが首を引っ込めた日本とは対照的に、ハリウッドではちょっとした「怪獣ブーム」が起こり始める。「クローバーフィールド(2008)」、「パシフィック・リム(2013)」。そして2014年。二度目のハリウッド制作ゴジラ、「GODZILLA -ゴジラ-」が登場する。

 「GODZILLA -ゴジラ-」も難が無い訳では無いが、それでもこれまでのゴジラ映画を蹴散らす程に優れた出来の映画だった。【人間の攻撃が殆ど通じないゴジラ】や【100mサイズの怪獣同士が激突する】というコンセプトは、ゴジラにとって一つの黄金期であった平成ゴジラシリーズのオマージュと考えていいだろう。それが、ハリウッドの技術力で描かれたのだ。面白くない訳がない。

 出来が良く、興行成績も良く、評判も良い。「GODZILLA -ゴジラ-」に対して敵いうる和製ゴジラは、もう存在しない。何をやったってこれを覆せない。「GODZILLA -ゴジラ-」は、それ自体が和製ゴジラの完全敗北を意味していた。

 だから東宝は、こう考えたのだろう。
「もう【普通のゴジラ】は俺達が作るべきではない」

 だが、これは明らかな屈辱だ。
「ゴジラは、東宝のものなのに」

 では何を作るか?
「普通じゃないゴジラだ」

 不幸中の幸いと言うべきか、「ゴジラはこういう姿でなくてはならない」という固定観念は、ミレニアムゴジラシリーズの混乱期で破壊されていた。だから東宝は選べたのだろう。

「庵野秀明らしいゴジラを作らせよう」

 そして登場した「シン・ゴジラ(2016)」は、今更僕がどうこう言う物でも無いが、素晴らしかった。「GODZILLA -ゴジラ-」は【キャラクターとしてのゴジラ】をこれまでに無いほど演出したが、「シン・ゴジラ」は「ゴジラという存在のコンセプト」をエキサイティングな映画として昇華させた。

 庵野秀明氏は、オタクだ。オタクにして、自分で「わしを大人扱いするな!」とのたまうほど子供の心を持つ人物だ(「監督不行届」を読むと、その性質がよく解る)。だから、密に入った設定のもと、【可哀想】でも【矮小】でもない【巨大で凶悪でカッコいい】ゴジラを描けたのだろう。

 その結果として子供向けとは言い難くなったが(子供心を握ったままの人間が手がけて子供向けでなくなったというのは面白い話である。なるほど、子供が好むのは、おおよそ子供向けでない親が眉をしかめるような物だ)、【地獄の季節】が続いたゆえ【巨大で凶悪でカッコいい】ゴジラを知らなかった世代に、初体験の衝撃を与えた。幸運にして必然の帰結だ。

 ただ「シン・ゴジラ」成功の要因は、【普通じゃない】方法を選んだ事にある。「マトモに設計されないのが普通」なゴジラ映画を、【普通じゃない】方法で作ったため、「マトモに設計された」ゴジラ映画になったのだ。「シン・ゴジラ」自体は、「オタクのオタクによるオタクのためのゴジラ」に過ぎない。オタク的な感性や知識を持たない者には理解出来ないシーンも多い。

 そんな「シン・ゴジラ」は、あくまで【新ゴジラ】の第一歩であると考えるべきだろう。「特撮はこういう表現が常識」とか「子供向けでないといけない」とか、そういう固定観念から脱却した第一歩。「自衛隊の装備は精密砲撃が可能」とか「ゴジラの放出する放射線は人体に有害」とか、そういうリアリティを取り入れた第一歩。「マトモに設計された」ゴジラシリーズを作っていく第一歩。

 予定されている虚淵玄氏のゴジラも成功するだろうが、それもまた【普通じゃない】道だ。いつか、ストレートに「そう、これがゴジラなんだ」と言える作品を観られる日に期待したい。僕としての理想を言えば、ひとつの【時代】を築ける程の「パーフェクトな平成ゴジラ」だ。「シン・ゴジラ」人気は、1つのムーブメントに過ぎず、まだ【時代】とは言えない。

 果たして東宝は、ちゃんと【先のゴジラ】を見据えているだろうか。それとも、「シン・ゴジラ」を【まぐれ当たり】で終わらせるだろうか。

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