「ファークライ4」と「ファークライ3」

★「ファークライ4」と「ファークライ3」における最大の相違点と、それが示す共通点。そして、その理由。

●「ファークライ4」は素晴らしいゲームだけど、特にある1点を褒めたかったから。

 美しいグラフィックス。優れた操作性。冒険しがいのあるマップ。多彩なフィーチャー。シューターとしての優れた出来栄え。これらが詰め込まれた「ファークライ3」について、傑作という評価に異論を持つ人はまずいないだろう。いるとしたら、虫も殺せないレベルの人道主義者か、そもそもゲームが好きではない人だ。

 その後継作である「ファークライ4」も、また素晴らしいゲームだ。ストーリーの描写不足やシステムの新鮮味に欠ける事、ランダム発生ミッションの面倒臭さなどは各所でレビューされている通りだが、それでも全体的なクオリティが損なわれる程では無い。

 ただ、個人的には「狂気」に関する描き方が大きく変化した事、そして「その変化ゆえに前作の芯にある部分を強く継承した」事を感じたので、思考整理の意味も含めてそれを書き出してみる。なお、以下は全て個人的主観からの見解・憶測であり、誤謬を含む可能性が高い事、そしてネタバレが多大に含まれる事は断っておく。

●内的な物だった「ジェイソンの狂気」

 「ファークライ3」の根底に流れるテーマは、簡単に言い表せば「周囲が狂っているように見えて、主人公・ジェイソン(=プレイヤー)も充分に異常だ」という事にあった。ジェイソンの物語は、「パッとしない青年が逆境で成長する」ような展開と見せかけて、「一般人から殺戮者への変貌」へとシフトしていく。その変貌は、外見的にも表現されている。

 「ファークライ3」におけるジェイソンのスキルは、神秘のタトゥとして表現されていた。シナリオの進行や敵の殺害によって得たポイントでスキルを修得していくたび、ジェイソンの腕のタトゥは増えていく。

 ジェイソンの変化は外見的な物だけでなく、シナリオ上の言動にも現れる。言動は粗暴になり、戦いを好むように変わり、ガールフレンドのリザなど帰国を望む仲間たちとの折り合いは悪くなっていく。また、終盤では左手の薬指を切り落とされて「欠落」という身体特徴も付与される。

 「左手の薬指が断たれる」事は、「リザとの関係を傷つけられる」事であるのは明白だが、同社・同スタジオ(モントリオール)製「アサシンクリード」シリーズとの関係を考える説もある。「アサシンクリード」を象徴する武器である「アサシンブレード」の使用者は、ブレードの飛び出しを妨げないよう左薬指を切り落としており、その切断には「一流の暗殺者として認められるための儀式」という意味合いがある。関係有無についての真偽は不明だが、「アサシンクリード」と「ファークライ」の開発チームは「人員の交流を盛んに行っていた」との弁がある他、「ファークライ3」には「アサシンクリード」との関係性を示唆する施設(プロトタイプラボ)が登場するので、真である可能性は低くないだろう。

 リザは物語上のヒロインである他、「現実」のメタファーとして作中に存在している。シナリオを通して、戦い=ゲームをやめてアメリカに帰るようジェイソンを説得する他、エンディング直前の精神世界では魔物の顔で出現して殺戮=ゲームへの没頭を批難し、ジェイソンのタトゥ=ゲームの実績を灼き潰す。

 キャンペーンシナリオの最期、ジェイソンは「リザを殺す」か「リザを救う」かの選択を迫られる。リザを救った=現実を選んだ場合、もう1人のヒロインである神秘的な現地の美女・シトラ=「ゲーム」のメタファーは凶刃に襲われて命を落とす。ジェイソンはルークアイランドで得た全てを失い、「大勢の人を殺してしまった。もう…俺は、ただの化けものでしかない…。怒りに支配されてるのを感じるんだ…。だけど、人間の心はまだ持っているはずだ、きっと…あるはずだ」と語る。

 一方、リザを殺した=ゲームを選んだ場合は「最後のタトゥ」を刻まれ、シトラとのセックスで子を成した挙句に殺害される。この殺害についての解釈は人によって意見が若干ぶれるところだが、何にしろ「ジェイソンは狂気に呑まれてしまった」という事は同様だ。

 シトラはビジュアルが非常にエスニック&言動が非常にエニグマチックなので、純粋に女性的な意味で選択される事は少ないだろうが、彼女の存在意義はアダルトゲームの「終ノ空」や「さよならを教えて」などにある「現実以上に魅力的な持つ架空の女性がいたら? 架空の世界があったら?」というテーマに共通している。こう考えると、「さよならを教えて」と「ファークライ3」の日本版キャッチコピー「狂気の意味を教えてやるぜ」が相対しているようにも思えなくもない。してないけど。

 言ってみれば、「ファークライ3」を通して発された問いかけは、富野の「アニメなんて観ているんじゃない!」とか、庵野の「エヴァファン死ね!」とか、「遺作」のエンディングとかみたいな話だ。「狂気」はジェイソン=プレイヤーの内面にある物として定義されていた。後には狂気だけが残った。

●外的な物だった「エイジェイの狂気」

 一方、「ファークライ4」の根底に流れるテーマは、「狂気は偏在している」という事にあった。主人公・エイジェイのバックボーンは、基本的に「母親の納骨のためキラットを訪ねたアメリカ人」以上の物が語られない。これはシナリオにディープさを求める層からは不満点として挙げられるが(自分も不満に思う)、描写が少ないため「フラットな人物像」としてプレイヤーに受け止められると。それは、「仕事や人間関係に悩むジェイソン」の印象とはかなり異なる。

 「ファークライ4」におけるスキルは、「なんだか身に付くもの」として存在している。特にタトゥのようなビジュアルやシナリオに関連する要素は無い。これも不満点として挙げられているが、同じくフラットな人物像を描くための物だろう。また「ファークライ3」には肉食動物から襲われなくなるスキルがあったものの、「ファークライ4」にはそれがない(シリンジ使用時の効果としてチューンダウンされている)。エイジェイにとって、神秘を秘めた自然界はどこまでも敵だ。

 厳密に検証した訳ではない&ここまで意図した物かは解らないが、「ファークライ3」では狙撃武器が強かったところ、「ファークライ4」では弱体化されており、逆に「3」で目立たなかった弓矢が強化されていると感じられた。なので、(自分のプレイでは)ジェイソンは「ハンドキャノンとアサルトライフル、ロケットランチャー、対物ライフルを抱えて野山を駆けまわる」という超人的な姿になりやすかったが、エイジェイは「SMGとアサルトライフル、ロケットランチャー、弓矢でステルスプレイを行う」というまだ幾らか人間的な姿になりやすかった(まあ、シグネチャウェポンの対物ライフルが超強いから最終的にはそれを担いだけど)。

 「ファークライ4」の登場人物たちは、ピンクのスーツでキメたパガン・ミンを始めとして「ファークライ3」に勝る狂人揃いだ。主人公が協力関係を結ぶ組織・ゴールデンパスは、伝統的宗教価値観を盲信するカルトなサバル派と、麻薬売買による資金調達を厭わないインモラルなアミータ派で内部衝突が発生している。その他の面子はマリファナ中毒の詐欺師コンビに、脳に損傷を受けて聖書と求道に目覚めた元ダーティダイヤモンド・メーカー。「3」から引き続き登場するCIAエージェントは不要になったアンダーカバー(キラット王国軍への潜入工作員)の暗殺をエイジェイに担わせる。後半で明かされる事だが、主人公の父親はサバルが信奉する程の極右主義者だ。主人公の母親はパガンと蜜月関係になった末、故あって夫を殺害したもののまだマトモな方にある。ゲイっぽいファッションデザイナーは数少ない良心ですらある。

 そしてキラットへの案内人すら殺されてしまったエイジェイには、ジェイソンにとってのリザのような心の拠り所がない。ジェイソンは狂気に呑まれても「仲間を守る」という根底の行動理由があったが、エイジェイは(ゴールデンパスに協力する理由はあれども)人々の狂気の流れに翻弄されるばかりだ。

 「ファークライ4」の日本版キャッチコピーは、「キラットへようこそ。ここは狂気の最高峰」。前述「狂気の意味を教えてやるぜ」では「プレイヤーが狂気を教え込まれる」事が示唆されているのに対し、「ここは狂気の最高峰」では「周囲環境が狂気に満ちている」事が示唆されている。このコピーは日本UBIが決めた物だと思われるので開発元の意図を汲んでいるのかは定かでは無いが、なかなか絶妙だ。

 また、シナリオの重大な局面において、エイジェイは直接的な殺害を行わない(行わなくてもいい)。敵幹部A・デプルールはエイジェイに拉致された後、サバルから拷問を受けて死亡。敵幹部B・ヌーアは追い詰められて自殺(プレイヤーによる殺害も可能)。敵幹部C・ユマは麻薬を嗅いだエイジェイが精神世界の超人と戦った末、「気付いたらユマを殺していた」という形で死亡する。なお、精神世界の超人・カリナグについてもサイドミッション「シャングリラ」において戦いに取り憑かれていく様子が描かれるので、「ファークライ」的な狂気に蝕まれたエイジェイを取り巻く人物の1人だと言える。

 サバル、アミータ、パガンについても「殺してもいいし、殺さなくてもいい」という状況が発生する。また、パガンに従えば「一人も殺さずにキャンペーンシナリオをクリアする」事すら可能だ。

 エイジェイは「ファークライ」の主人公としてジェイソンとほぼ同等の化け物ではあるが、姿形やメンタルはゲームスタート時から変わらない。エイジェイに与えられているのは、ある程度に凡庸な「狂気の傍観者」としてのスタンスであり、自身で狂気の物語を綴る事は(特定のルートへ行かない限り)無い。しかし家族や友人など、帰る場所も無い。「ファークライ3」には「海賊を殲滅した」という結果が生まれるが、「ファークライ4」では「圧政は別の形で続く」という結果が語られる。戦った意味もさして無い。

 帰る場所の無いエイジェイは、シナリオの完全終了後「ゲーム」の中に独りで取り残される。ある意味では、ジェイソンに負けず劣らず過酷な結末と言える。これは、「ゲームなんかやっても何にもならないんだよ」という製作者のメッセージなのかも知れない。

 狂気=キャンペーンシナリオが終わってしまった後、エイジェイ=プレイヤーは丸裸になってしまう。「ファークライ4」における狂気は、プレイヤー自身の外にあるもの(外皮に密着したもの)として定義されていた。後には狂気すら残らなかった。

●「4」に登場するジェイソンと同様の狂気を持つ者

 余談だが、「ファークライ4」におけるキャンペーンシナリオのクリア直後、エイジェイの前に現れるのはマリファナ中毒の詐欺師コンビであるヨギー&レジーだ。彼らは「これからどうする?」という話題を振り、「棚にしまわれて埃を被るかも」というメタ的な意味合いが含まれた発言をする。メインシナリオに殆ど関係していない彼らが、何故ここで登場し、こんな事を言うのか?

 ヨギー&レジーへのコンタクトで始められるサイドミッションにおいて、エイジェイは新作カクテルの被験体にされる。このサイドミッションは、巨石が宙に浮いたり、空からジープが降ってきたり、天地があやふやになったり、虚実が曖昧なトリップ状態で繰り広げられる。そして、それはヨギー&レジーの住む世界でもある。

 麻薬で「通常ありえない光景をゲーム内に作り出す」ヨギー&レジーは、MOD製作者と似ている。キラットという自由な土地で、作中設定では「客人」として扱われ、日々マリファナを吹かして=MODを作って過ごすヨギー&レジー。彼らは仮想世界の快楽に身を委ねるゲーマーのカリカチュアライズだと考えられる。エイジェイより、彼らの方がジェイソンに近い。

 ただ、「ゲームにマジになった」ジェイソンが殺されるのに対して、「ゲームをエンジョイしている」ヨギー&レジーは殺せない(イベントカットでしか登場しないので攻撃できない)。ここにも少し、製作者の意図が見える。

●異なる狂気、等しいテーマ。

 このように、「ファークライ3」と「ファークライ4」における「狂気」の描き方は大きく異なる。それは、「ゲームに没頭する危うさ」という根底の懸念を別角度から眺めたためだ。1つの概念を立体的に浮き立たせるため、2作には異なる視点が持たされた(「3」における皮肉の書き方への反省もあるらしいが:Web上の伝聞なのでソース不明)。

 この「ゲーム否定」であるメタ的な意図には批判意見も少なくない。ただ、これが単純なゲーム否定かと言えばそうでも無いだろう。例えそうだとしたら、そもそも「ファークライ」などという大虐殺が楽しいゲームは作らないだろうし、「ファークライ3」のスピンアウト作品である「ファークライ3 Blood Dragon」には以下の様なセリフも存在する。

「Video games are a proven coping mechanism, like any hobby. They've been shown to improve hand-eye coordination, problem-solving, social interaction and self-confidence. And no studies have managed to prove a correlation between video games and violence. Frankly, anyone who thinks games are bad for you is a F.U.C.K.(failing to understand our capacity for kindness)ing idiot.」

「ゲームは【問題に対処するメカニズム】だと証明されているわ、他のどんな趣味とも同じようにね。ゲームは手と目の協調関係の向上、問題解決、社会的交流、自信を持つことにも繋がるの。そして、ゲームと暴力の関連性を証明する研究は未だ存在しないわ。はっきり言って、ゲームをプレイするのが悪いことだなんて思ってる人達はF.U.C.K.(持ちうる優しさを理解しない)な馬鹿よ」

 「ファークライ」が否定している「ゲーム」は、多分もっとくだらない物だろう。「たけしの挑戦状」で「こんな げーむに まじに なっちゃって どうするの」と言われる類の物。一所懸命になったところで、何の得も無いどころか自分の理性や他人の財産を摩耗させるだけの物。

 それは例えばゲームハード論争だったり、それは例えばAnita Sarkeesianのフェミニズム論だったり、例えばそれの逆位置にあるGamersGateでの女性蔑視問題であったり、例えば艦これワンドロ騒動だったりするだろう。非難されるべきは、例えば「煙草を吸う事」ではなく「禁煙席で煙草を吸う事」であり、つまり「ゲームをプレイする事」ではなく「ゲームばかりプレイしている事」だ。高橋名人だって「ファミコンしか遊びを知らない、そんなつまらない大人にならないでください」と言っていた。

 ゲームは麻薬で、宗教で、暴力で、これに没頭するのは非常に危険である。だけど、だからこそ逃れられる物ではない。どれだけ危険でも麻薬・宗教・暴力は今日まで撲滅されていないし、それにゲームほど安全で害の少ない麻薬・宗教・暴力は無いのだから。なので、そこへ「ブレーキをかけたい」と思うのは当然だ。

 単純なエンタテインメントとしてゲームが先鋭化された場合、そこに残るのは、ただスナック的な快楽を味わうためのチープなタスクと、ゾンビみたいなプレイヤーだ(チープな物もそれはそれで必要だが)。「マッチョなアメリカ海兵隊が悪いロシア人を撃ち殺すFPSしか置いてない」みたいな家電量販店のゲーム売り場なんて地獄としか言えない。「金を払ってボタンを押すと美少女のイラストと声優のボイスが出てくる」だけじゃ話にならない。

 そして、ブレーキは何のために必要か――安全な運転だ。
 安全な運転は何のために必要か――ドライブを長く続けるためだ。
 「ファークライ」が持つ「ゲーム否定」の文脈は何のためにあるのか――それは、「ファークライというゲーム」を続けていくためじゃないだろうか。

 「ファミコンしか遊びを知らない、そんなつまらない大人にならないでください」と言いつつファミコンソフトを売る。この行動は無意味な矛盾ではなく、1つのベストな解答だろう。

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