振り返り、振りかぶり、振り下ろせ。

珍しく、過去を振り返ってみようと思う。2020年を。やってたことは大きく分けて3つ。ダイエットと勉強、そして整理整頓。

先ずはダイエット。結論から言うと1年で20kg前後落とした。元が元なのでまだまだ太っているし満足もしてない。ただ、昨年の3月から始めて夏が終わる頃には今の体重になっていたので、分布としては最後の1/3程は何もしておらず、体重も変わっていない。あと20kg落としてもまだ常人なので、今年こそだ。

次は勉強。プログラムでなんか作ってみたりした。大して成果は上がっていない。自身のLPを作ってみたいのでLaravelと悩んだけど結局PythonやりたくてDjangoをいじくり回していた。最近のテキストエディタは便利だ、もはや軽量なIDEだ。今後も適宜情報収集しつつ、のんびり作ろうと思う。
そして克服すべきは読字だ。恐らく統合失調症の症状のひとつで、今現在長文を読むことが困難なのだ(ちなみに本記事も書き始めて1週間は過ぎている)。そして今年はひとつも本を読み切れなかった。うまく言葉にできないが、端的に言えば本を開こうとも視界に入る文字のひとつひとつが中心になり、結果的には文章の意図を読み取れなくなる。仮に電車の中で本を開き「朝、鳥が鳴いた。」という文があったとする。その場合の具体的な思考パターンの一例を文字列にしてみると以下のようになる。

朝とはそもそも何なのか、時間の違うシフトでもおはようございますと挨拶をするケースもあるし、日の出を朝とするなら時間は毎日違うし…それにしても鳥とは、朝に鳴く鳥の種類は何なのだろう。何のために鳴くのだろう…。然して鳴くとはいえ、声帯があるのだろうか?句読点が書いてあるが、どちらが句点でどちらが読点だったか…、おや、電車が揺れた。次の駅は御茶ノ水、あの中古ギターは売れてしまっただろうか…

といった塩梅である。極端に酷い場合は朝目覚めた瞬間、起爆剤無しにこのような思考が発生し、2時間、3時間、酷ければもっと長い時間思考のコントロールが不可能になる。目が覚めてからそのまま思考が堂々巡りすることで、その他の行動はできない。このような状態が発生するようになってから、ゆうに3年を超える時が流れた。専門的な言葉もあるがここでは表記をよしておくことにする(コントロール不能を避けるため)。

最後は整理整頓、これはチマチマやればなんの問題もない。出したらしまう。しまう場所が決まっていればOK!

なんだかんだと書いたが、要は何もできてないから進捗を書いてあたかも前進したかのように見せたいのだろうと思う。なのでこれは甘えだ。他人に理解できない状況を説明しても、それは曖昧模糊の極まるところである。無論定期的に通院しているが、その医師だって専門知識こそあれ私の体験を同様に観測することはできない。私にしかわからないものは、他人に説明しても推し量っていただいた上で情けを乞う、ひとつの要素にしかならない。お情けを食み生きることをただただ申し訳なく思う。無論許してくれる方もたくさんいるが、この甘えに怒り狂う方も決して少なくはない。その人々を悪者にすることは私にはできない。

いずれにせよまだまだ統合失調症なるものとの戦いの日々だ。ある意味何もしていないが、だからこそ己の内で何かをしていたようにも思える。所謂「寛解」は、特効薬でもできない限りは恐らく不可能のように思える。ただそれは悪い意味ではなく、何も見えぬ状態でもない。確信をするにあたり手札は揃った、といったところだろうか。確信する内容は「この病を治すことはできず、飼い慣らす、あるいは懐柔するしかない。」ことだ。既にこれは私と同化しており、切り取ることはできないのだ。ナルトで言うと人柱力だ。

ポジティブとかネガティブとかというのはあくまで方向の話であって、問題は程度だ。極度なネガティブで避けられる諍いもあるし、ポジティブゆえに激しく争わなければいけないこともある。どちらが良いかというものでもない。激情にとらわれたって、悲しみに打ちひしがれたって、そんなことはどうでもいいのだ。やるかやらないかを選ぶことしかできはしない。自分の美学など、ある程度歳を重ねれば大概はもう形成されている。ただひたすらに美しいことだけを選べばいい。何も難しいことはない。何も難しいことはないのだ。

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