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「1Q84読解」「村上春樹 変奏曲」による「1Q84」 最終読解


 
「彼らは私を必要としているんじゃない。
必要としているのは、私のお腹の中にいるものだと思う。彼らはどこかの時点でそれを知ったのよ」
「ほうほう」とはやし役のリトルピープルがどこかで声を上げる。
「彼らは声を聴くものを必要としている。つまり、あんたのお腹の中にいる子供が、その<声を聴くもの>ということになるのか?」
「ほうほう」と残りの六人のリトルピープルがどこかで声を合わせる。


ここまで長い時間をかけて「村上春樹 変奏曲」にお付き合いいただいたみなさんに対する礼儀として、結論から、言おう。

1Q84のQは、「処女懐胎」に収斂する。


しかし、それが青豆のお腹の中に宿った「小さなもの」だけをあらわしていないから、1Q84の謎はなかなか解けない「Q」になるのだ。 実は、この物語は2重に仕組まれた「処女懐胎」の物語なのだ。


だから、この2重リングの謎を解くには、まずは目の前にある青豆の「処女懐胎」から解明しなければならない。そのために我々は、変奏曲の解釈に従って、小説「1Q84」の四人の主要人物を再配置するところから始める必要がある。
小説「1Q84」の四人の主要人物とは、天吾、青豆、ふかえり、教団のリーダーである。


読解のポイントは、「村上春樹 変奏曲」第1楽章の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と、第2楽章の「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」の読解を応用して、最終的にこの四人の組み合わせが「1Q84なる世界の、どの部分に、どんな影響を及ぼしたのか」という構造を解明する事にある。

その上で、第3楽章の「羊をめぐる冒険」と第4楽章の「ねじまき鳥クロニクル」の読解を使って、「この物語の真の主人公とその行動の意味」を解明する。それらすべてを使って、小説「1Q84」に仕掛けられた村上春樹の企みを読解するのだ。


では、中心人物の組み合わせの検証からはじめよう。「1Q84なる世界」において、天吾と青豆は「世界の終わり」の主役カップルであり、ふかえりとリーダーは「ハードボイルド・ワンダーランド」の主要なカップルである。しかし、四人はこの正規のカップリングとは別の共同作業グループを形成する。それぞれの組み合わせの意味を読解のピンセットでひとつずつめくりながら分析していこう。

この組み合わせのなかで、主にストーリーを展開するのは、ふかえりと天吾、青豆とリーダーという、ふたつの組み合わせだ。
ふかえりと天吾は共同作業として、小説「空気さなぎ」を世に送り出す。「空気さなぎ」はふかえりが企んだ反リトルピープル的モーメントであり、天吾がリライトするなかで細部が立ち上がった世界である。このふかえりと天吾の協働作業によって、リトルピープルが開いた通路とは別の通路が開かれた。この新たな通路が、「ふたつの月の世界」を創出し、そこに青豆を召還することで「ハードボイルド・ワンダーランドの世界」がスリリングに展開されていく。
それにくらべて、リーダーと青豆の協働作業は、一瞬だった。雷雨の一夜「青豆が苦痛のない死を与えることの見返りに、リーダーが天吾の命を護る」という取引が合意する。
殺害の瞬間に約束は果たされる。この「ハードボイルド・ワンダーランド」の行動は、実は「世界の終わりの世界」に通じていた。リーダーは、この瞬間に「世界の終わりの世界」において、「滑り台の世界」を現出させたのだ。
これで「教室の世界」を入口にして「幻想の世界」に彷徨い込んだ青豆と天吾に、出口が与えられた。青豆が命を捧げることで、入口と出口がやっと開通したのだ。


ストーリー上は見えにくい組み合わせだが、ふかえりと青豆も同じく「一瞬の共同作業」を行なう。ふかえりが天吾に施すオハライのクライマックスの刹那のことだ。その一瞬、ふかえりが介在することで青豆は天吾と多義的に交わる。


このクライマックスで、ふかえりが「テンゴくん」と繰り返すのは、この交わりが、ふかえりと天吾のものではなく、青豆と天吾のものであったことを示す証拠だ。クライマックスの瞬間において、ふかえりはただの通路にすぎなかった。青豆と天吾は20年の時を経て、ついに結ばれ、同時にリーダー殺害をする。これが「多義的な交わり」の正体なのだ。そして、ふかえりを媒介にして、天吾と青豆は「処女懐胎」を成し遂げる。

第3章の宿題で、ふかえりがマザなのかドウタなのかが不明のままだった。読解を重ねたいまならそれは明快だ。ふかえりは「心の影を失ったマザ」だ。
リトルピープルは予言していた。「ドウタはマザの代理をつとめる。ドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない。マザの世話なしにドウタは完全ではなく、長生きできない。ドウタを失えばマザは心の影をなくすことになる」
空気さなぎによってマザとドウタに分割された深田絵里子は、マザふかえりになって教団から脱走する。当然、マザの世話を受けていないドウタふかえりは長生きしない。そして、ドウタを失ったマザふかえりは、心の影をなくしてしまった。マザふかえりは「損なわれた存在」なのだ。
天吾も小松との会話でその事実に気付く。「ドウタなしでは、マザはおそらく一個の完結した存在とは言えないでしょう。僕らが目にしているふかえりがそうであるように、具体的な指摘はできないけど、そこには何らかの要素が欠落しています。それは影を失った人に似ているかもしれない」


心の影を失ったからこそふかえりは、霊的な存在になったといえる。小説「1Q84」のふかえりのラストシーンは印象的だ。牛河が天吾の監視をするためにアパートの廊下から望遠レンズ越しにふかえりを盗撮しようとする。そのとき、ふかえりは牛河を凝視することだけで、刺し貫く。そして、その行為で牛河を裁くのだ。まるで「最後の審判」のように。牛河はその後、タマルに殺害されるが、タマルは裁きを実行しただけで、実際に牛河を裁いたのはふかえりだ。牛河が主体になっていた隠者と追跡者のゲームは、距離を縮め致死的な渦になっていた。この致死的なゲームの生贄にふかえりは牛河を選んだのだ。それも犠牲になった牛河に恋心を抱かせるというもの、美しい巫女である霊的なふかえりらしい。まさに神々しさが漂う。


本来、深田保と深田絵里子という親子であるはずのリーダーとふかえりの組み合わせは、実はこの「1Q84なる世界」では、一度も交差しない。   物語の前史として、パシヴァとレシヴァの関係を結んだと書かれているだけだ。しかし、正面にみえないからこそ、リーダーとふかえりの組み合わせの意味は大きい。


教団の内部では、パシヴァとレシヴァの関係において、リーダーとドウタやマザたちが何度も、多義的に交わり、「処女懐胎」の奇蹟を起こそうとしていた。それはなぜか?


この読解に来て、我々はついにリトルピープルの最終目的を知るのだ。リトルピープルは、自分たちの声を届ける預言者を選び、その人物を通して世界を支配する。しかし、リトルピープルは深田保を預言者にした直後から、処女懐胎をさせる多義的な交わりを強要する。それはなぜか。


リーダーだけでは、不足だからだ。預言者は二人必要だったのだ。

そう、リトルピープルの<声を聴くシステム>を完成させるためには、ふたりの預言者が必要なのだ。ひとつはパシヴァになる存在であり、もうひとりは処女懐胎の末に産まれてくる存在である。

パシヴァは先に生まれ、究極の救済者が出現することを予言し、処女懐胎の奇跡を認定するのが役割だ。それは、キリスト教における洗礼者ヨハネとイエス・キリストの関係である。洗礼者ヨハネは、前駆者とされる。前駆の意味は旧約と新約の峻別による。ヨハネは旧約の最後を告げるものであり旧世界に属する。ヨハネによって洗礼されたイエスが新約の新世界を創造する。

つまり、ヨハネ役のリーダーは露払いに過ぎず、処女懐胎の末に生まれてくる「小さなもの」こそ、リトルピープルが求める本命の創造主だったのだ。


そう考えれば、リーダーがつくった教団の名前が「さきがけ」というのは意味が深い。リトルピープルの本命はパシヴァであるリーダーではなく、処女懐胎の奇蹟の果てに来る「小さなもの」なのだ。その人物こそ、リトルピープルの本当の使者になる存在であり、教団はそのための「さきがけ」だったのだ。


しかし、教団内部での処女懐胎は実現しなかった。その方法に間違いがあったからだ。

処女懐胎に必要なのは、パシヴァとレシヴァだけでなく、心の影を失ったマザと「決意」を胸に秘めた男女の3人だったのだ。この3人の組み合わせがあって、処女懐胎が成し遂げられる。


周囲はその秘密を知らない。社会の無理解に囲まれた「秘儀」、その秘密を巡る追撃、もしくは無理解ゆえの「排斥」、これが「処女懐胎」をめぐる構造だ。

それ故に、この秘蹟を行なった3人は狙われる。天吾は「猫の町」で、青豆は「1Q84年の世界」で、ふかえりは「ハードボイルド・ワンダーランド」で、いろいろな追撃者に狙われる。


この「1Q84なる世界」は、この追撃をめぐる多層的な舞台だ。さながら夢の中の夢を描いた映画「インセプション」のように、世界観の上に世界観が積み重なっている。

ふかえりが立ち上げた「空気さなぎ」の世界の上に、天吾がリライトして「ふたつの月がある世界」が重なる。そこに天吾が青豆を転移させたことで「ハードボイルド・ワンダーランド」が始まり、ふたりは同時に「世界の終わり」で「教室の世界」を再構築する。そこで、多義的な交わりをして、約束を思い出したふたりは、処女懐胎を成し遂げて、小さなものをかかえながら、敵から隠れ、出口を捜してさまよう。天吾は「猫の町」に隠れ、青豆は「1Q84年」に隠れる。リーダーが最後の奇蹟として「世界の終わり」に「滑り台の世界」を創る。


こうした屋上に屋上を重ねる世界観の多層性こそが「1Q84」の最大の特長である。では、なぜこのような複雑な多層構造が必要だったのか? その読解が「1Q84なる世界」の最大の謎なのだ。そこには、作家・村上春樹が挑戦した大いなる冒険が仕込まれている。


そのことに現実味がわかない読者には、つぎのように言うしかない。

この多層性の企みの果てが、新潮社から出版された「小説 1Q84」であり、多層構造の影響は、いままさにあなたの手元にまで、及んでいる。

すこしは我が事としてギョッとしてくれただろうか。

これは「ネバーエンディングストリー」の「終わらない本」と同じように現実世界にまで影響を及ぼす物語の企てなのだ。「1Q84」は、村上春樹が作家人生をかけた遠大な冒険だった。

村上春樹は多層化する世界を構築することで、「あるもの」を復活させようと企てたのだ。


では、そのあるものを読解のために最後のピースを検討しよう。ラストピースは、一見、ストーリーにおいて、なにもなかった「天吾と前駆者であるリーダー」という組み合わせである。


さて、ここまでの「村上春樹 変奏曲」の読解を通して、読者に「小説 1Q84」の主役は誰かを問えば、ほとんどの人が、青豆と答えるだろう。
青豆は10歳の時に天吾の手を握って、約束を開始した本人だ。「教室の世界」の主役であり、雷雨の夜にリーダーを殺害し、同時に天吾と多義的に交わり、「処女懐胎」を成し遂げ、「小さなもの」を宿しており、「滑り台の世界」という出口も手に入れた。この小説のストーリーを牽引して来たのは、すべて青豆だといっても過言ではない。
この「青豆主役論」は、登場人物の天吾さえもが認めている。
「僕は君を見つけようと心に決めていた。でも僕には君を見つけることができなかった。君が僕を見つけた。僕は実際にはほとんど何もしなかったようなものだ。なんて言えばいいんだろう。それはフェアじゃないことに思える」
青豆「フェアじゃない?」
「僕は君に多くのものを負っている。僕は結局、何の役にも立たなかった」
天吾のこの台詞の通りまさに主役は、青豆なのだ。


しかしこの印象は、1Q84の謎を巡るラストピースを解明することで、180度、裏返る。青豆が主役だと考えるうちは、この物語は二重に仕組まれた「処女懐胎」の1重目のリングを外したに過ぎない。もうひとつの「処女懐胎」を解明しない限り、秘密の扉は開かない。


もうひとつの「処女懐胎」というのは、もちろん天吾のことである。  「天吾の出生の秘密」は、「1Q84なる世界」では、物語の前史として巧妙に隠されている。しかし、この隠された真実を理解し、「天吾」という物語の真の主役を知ることで、我々は「1Q84なる世界」の謎をすべて解き明かし、村上春樹の遠大な目的を知るのだ。


「それでは、僕の父親は誰なんですか?」
「ただの空白だ。あんたの母親は空白と交わってあんたを産んだ。私がその空白を埋めた」
「空白と交わった?」


天吾の育ての親であるNHKの集金人がいう「空白」がなにを表すかは不明だ。たぶん、この男には、天吾の母親の身になにが起こったのか、まったく理解できなかったのだろう。
このNHKの集金人は、キリスト教で言う「ナザレのヨセフ」である。養父ヨセフは婚約者マリアが孕んでいることを知ると、ひそかに縁を切ろうとした。ユダヤ教の律法に忠実であれば、不義密通を公表するところだったのに、黙認した。ヨセフは、神の奇蹟に自分が参与していないがために、マリアへの不信を断ち切れなかった男なのだ。
絵画においてヨセフは、マリアの「処女懐胎」を象徴するために生殖能力のない老人として描かれる。同じくNHKの集金人は、「1Q84なる世界」で家庭を維持できない人格として描かれている。天吾の家庭は、この育ての親の性格のために破綻すべくして、破綻した。


「私には息子はおらない」と父親はあっさり言った。(中略)
「じゃあ、僕はいったい何なのですか?」と天吾は尋ねた。
「あなたは何ものでもない」(中略)
「何ものでもなかったし、何ものでもないし、これから先も何ものにもなれないだろう」


先に述べた「処女懐胎」をめぐる排斥の構造は、天吾の場合にも当てはまる。「処女懐胎」という解読できない「奇蹟」、その無理解ゆえの「排斥」を、この世界で象徴しているのは、天吾の育ての親であるNHKの集金人である。天吾には大事な家族の中に「無理解の高き壁」が存在したのだ。


しかし、「これから先も何ものにもなれないだろう」という冷たい言葉とは裏腹にNHKの集金人は、神童時代の天吾の輝かしい成績のスクラップブックを残していた。この養父は、つくづく不器用な人間なのだ。その不器用さゆえに、天吾の母はいたたまれなくなり、出奔したのだろうし、幼少期の天吾との関係でも大きな亀裂を抱えた。そうして「処女懐胎」に対する不信によって、「愛のない不幸な家族」がうまれた。


主人公を巡る「奇蹟」は、まだほかにも「1Q84なる世界」に隠されている。猫の町の看護婦・安達クミの存在だ。彼女は紛れもなく天吾の母親の生まれ変わりだ。


「私は再生したんだよ。・・・だって一度死んでしまったから・・・冷たい雨が降る夜に」
「私が覚えているのは死んだときのことだけ。誰かが私の首を絞めていた。私の知らない見たこともない男」


安達クミは天吾を猫の町で助けるために生まれ変わった。天吾の人生最大の危難を迎える猫の町で、天吾が出口に辿り着くためのガイドラインとして、安田クミはリインカーネーションされた。


「再生についてのいちばん大事な問題はね。・・・人は自分のためには再生できなということなの。」


そして、天吾の年上のガールフレンドだった安田恭子も母親の生まれ変わりだった可能性がある。NHKの集金人が死ぬ時に持っていた唯一の写真に天吾の母親が写っていた。その顔を観た天吾は直観的に安田恭子を思い出す。生涯で初めて母親の顔を写真で見た時に天吾は、安田恭子の顔を思い出す。しかし、その思い出したことの意味がわからない。

作家・村上春樹は、こうしてわれわれに安田恭子の存在も「奇蹟」の一部だという可能性を残すのだ。
孤独な天吾を見守り、あるときはガイドラインになる安達クミや安田恭子は、天吾の守護天使である。「処女懐胎」で生まれた奇蹟の人・天吾には、守護天使たちがついているのだ。


問題は、なぜそれほどまでに「処女懐胎」という奇蹟が重要だったかだ。そう、村上春樹が「処女懐胎」にこだわった理由が重要なのだ。


その理由とは、主人公・天吾が処女懐胎で産まれて来たことによって、この物語が「偉大な英雄の物語」になるからだ。

そして、天吾が「処女懐胎」で生まれたとすれば、この物語が天吾と「小さなもの」の二代に渡る「処女懐胎」の話となり、作者・村上春樹が、「奇蹟」の上に「奇蹟」を成立させ、神話のレベルにしようとしていることがわかる。


そう、作家・村上春樹が、「1Q84」で復活させようとしたのは、神話的な「英雄譚」という物語構造だったのだ。特に、いまや文壇では絶滅危惧種である「貴種流離譚」を現代小説として蘇らせるという、作家だけが持ちえる野心に基づいて、この物語は創造されている。


「英雄譚」には、鋳型があるのをご存知だろうか。海外ならばジョーゼフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」、日本ならば折口信夫の「貴種流離譚」の分析が有名で、一般に「ヒーローズ・ジャーニー」と呼ばれる。フロイト派の神話学者オットー・ランクは「英雄誕生の神話」のなかで「ヒーローズ・ジャーニー」を8つのプロットに分解している。


1.英雄は、高位の両親、一般には王の血筋に連なる息子として生まれる。
2.彼の誕生の前後には両親に様々な困難が伴う。
3.予言によって父親が英雄の誕生を恐れる
4.英雄は、箱、籠などに入れられて水辺に捨てられる
5.英雄は、動物やその社会の中で身分の低い人々によって救われ、
主人公は本当の両親を知らずに育つか、仮の親に養われる。
6.大人になって自分が貴い血筋の持ち主、貴種であることを知る
7.英雄は、生みの父親に復讐する
8.英雄は認知され、最高の栄誉を受ける
大塚英志「ストーリーメーカー」より


文壇では世界のどこでも、この鋳型が古くさく、耐用年数を越えて、使い物にならないとされている。これが成立するのは、いまや映画やゲームの世界だけだ。逆にいえば映画やゲームでは、この手法は全盛であり、巷にはこの「ヒーローズ・ジャーニー」の模倣が横行している。
実は、「スターウォーズ」も「ハリーポッター」も「ドラゴンクエスト」もすべて、この「ヒーローズ・ジャーニー」の鋳型が使われている。これらの影響を受けた日本のライトノベルでも「ヒーローズ・ジャーニー」の活用は多く見られる。


そうした万人受けの迎合姿勢をよしとしない文壇の主流派に対して、村上春樹は、物語作家として現代に「貴種流離譚」を復活させようとしたのだ。


試しに「英雄誕生の神話」の8のプロットに、天吾の人生を配置してみよう。
1.天吾は、「処女懐胎」で誕生した高位の存在である【父親は不明】
2.天吾が1歳になった頃、母親が出奔し、後に殺害される。
3.【予言によって父親が天吾の誕生を恐れる】
4.天吾の最初の(羊水のなかの)記憶は、知らない男に乳首を吸われている母親の映像である
5.天吾は、NHKの集金人によって養われる。
本当の【父親】を知らずに育つ、仮の親も天吾の出生の秘密を理解していない。
6.天吾は大人になって、父親がいないままに誕生した(処女懐胎)のことを知る
7.天吾は、【生みの父親に復讐する】
8.天吾はレシヴァとしての才能を開花し、
新たな物語を作り、脱出した世界で「最高の栄誉を受ける」=村上春樹名の小説「1Q84」の出版


いかがだろうか、まさにこの「1Q84なる世界」の主役にふさわしい「偉大な英雄」として天吾が設定されていることが明白だと思う。      

こう考えれば、物語の真の主役が天吾であることがわかる。この英雄譚には天吾が「処女懐胎」の高位な存在であることが欠かせない。なぜなら「貴種流離譚」はそれによって成立するからだ。


ただし、単にこの「貴種流離譚」を使用すれば、今の社会ではライトノベルのような陳腐な模倣になってしまう。そこで村上春樹が、現代に蘇らせるために使ったのが、世界観の上に世界観を重ねた「多層構造社会」という複雑な物語構造だったのだ。誰もが知っている「ヒーローズ・ジャーニー」を、スリリングな現代的な舞台装置で展開したのだ。
それも、自分の作家としての持てるスキルをすべて使って、複雑で精緻な多層構造の物語世界を作り上げ、単純にはなにが仕込まれているのかわからないくらいに複雑にした。                     この複雑な世界観の中に、本当のメッセージを巧妙に隠したのだ。目論みは当たり、読者はQの深い森に夢中になり、謎が謎を呼び、多くの謎解きがなされたが、「ヒーローズ・ジャーニー」の復活に気付いたものすらいなかった。もちろん、英雄譚の安易な再生という指摘はどこからもされていない。


これが「1Q84」が「変奏曲 村上春樹」になった本当の理由だ。自分が持つすべてのスキルを活用して、小説「1Q84」の世界を精緻に組み上げ、そこに作家として本来やりたい「貴種流離譚の復活」という野望を深い森に潜むメッセージとして織り込んだ。
だからこの謎の解明のためにはじめた「変奏曲 村上春樹」は、村上春樹のテクニックを巡る旅であって、それに加えて、この「貴種流離譚の復活」というテーマを理解して、はじめて意味を成す。


すべての謎の解明まであと数歩だ。

「ヒーローズ・ジャーニー」における天吾の人生8つのプロットにおいて、【父親】の部分が最後の謎として残った。


1.天吾は、「処女懐胎」で誕生した高位の存在である【父親は不明】
3.【予言によって父親が天吾の誕生を恐れる】
5.天吾は、本当の【父親】を知らずに育つ。
7.天吾は、【生みの父親に復讐する】


これを理解するためにわれわれは、深い意味でひとつの言葉に辿り着く。

それは、「聖家族」という言葉である。

上にあげたプロットの行動を行なったのは、天吾ではなく、複数の人間によって達成されたと考えるのだ。                   

生みの父親の立ち向かったのは、天吾だけでなく青豆を含めた「家族」だったのだ。そう考えるとすべての謎が氷解する。

【生みの父親に復讐する】という最重要なプロットは、青豆によって成し遂げられた。つまりそれが「リーダーの殺害」だ。そこに浮かび上がってくる最後の読解が、天吾の実の父親は「前駆者であるリーダー」という仮説だ。この仮説をベースに「ヒーローズ・ジャーニー」を読み解くと、謎の物語の全容がやっと見えてくる。


天吾は、天吾の母親が「処女懐胎」で懐妊した尊い存在だが、誕生時においてその「奇蹟」は理解されず、周囲からは「不道徳」のそしりを受ける。

天吾の育ての父親になるNHKの集金人は、その排斥から天吾の母親を護るために結婚し、なさぬ子の父親になった。

しかし、NHKの集金人自身は彼女の「奇蹟」を信じきることができず、家庭は不和になり、なにかのきっかけで母親が出奔し、後に殺害される。

そして幼子の天吾は、NHKの集金人によって養われる。NHKの集金人は幼少期の天吾を育てながらも、母親の裏切りと不道徳な最期に対して考え続け、この子育てが決して「報われない愛」であることを悔やむ。算数やスポーツなどで神童として次第にその本領を発揮する天吾。天才である天吾を見ながら、NHKの集金人は「奇蹟の人」であれば当然だと思いながらも、いまだその「処女懐胎」の奇蹟を信じきれず、自分のしがない職業に天吾をわざと巻き込む。


市川の町を日曜日のたびに、天吾とNHKの集金人が歩き続ける。その姿を家族で信仰活動のために同じ町を巡る青豆が見かけ、運命的なものを感じる。6年生の時に青豆が教室で天吾の手を握り、二人は「一生の孤独に耐える決意」のもとに約束をする。その行為によって、将来の「100パーセントの家族」が約束されるが、子供だった二人はいちど、別れなければならなかった。かれらが真っ先にすべきことは、ニセの家族からの離反であり、ふたりは別々にそれを実行した。青豆は証人会の家族から離れ、おじの家に行き、ソフトボールの特待生になる。天吾は父親に日曜日は自分の意志で過ごすと宣言し、担任の先生のうちに行って援護を勝ち取り、その後、柔道の特待生で自立する。

その後の天吾と青豆の青春時代は自立するために捧げられ、30歳になるまでその努力は続けられた。天吾は予備校の教師になり、青豆はスポーツインストラクターになった。


運命は、ふたりに危険な任務を持たせることで再会を計画する。青豆は殺し屋になり、天吾はゴーストライターの仕事をする。この危険な任務によって深田保と深田絵里子という親子との接点が生まれる。この出会いが、天吾による「奇蹟」を引き出す。天吾はふかえりの「空気さなぎ」をリライトするなかで、奇蹟の人としての能力が開花する。


天吾は新世界である「1Q84なる世界」を創造する。天吾はそうして創造主になるのだ。

すべてはこの小説化の作業から始まった「奇蹟」だったのだ。新世界の創始者である天吾は、まず運命の人・青豆を新たな世界に召喚する。

次に行なったことが、創造主にとって「自分の出生の謎の解明」だった。

天吾の母親は「処女懐胎」で天吾を授かった。その「実の父親」は教団のリーダーだった。そしてそれは宿命の敵であるリトルピープルによって強制的に行なわれた行為だった。深田保と深田絵里子(ドウタ&マザ)の間で行なわれた「処女懐胎の儀式」は時空をゆがめて、天吾の母親に受胎したのだ。

「空白と交わった」という天吾の母親は教団の儀式の受難者であった。その意味では深田保と深田絵里子もリトルピープルの受難者だった。


深田保はリトルピープルの予言によっていずれ生まれてくる創造主が自分を殺しにくることを知る。そして、天吾の誕生を恐れ、その反面、自分の苦痛から開放してくれる救世主として待ち望む。


創造主・天吾は青豆をリトルピープルへの対抗策として活用する。その第一歩として、つかさを柳屋敷に送り込み、老婦人とタマルを教団と結びつける。リーダー殺害の計画が練られ、青豆が実行者に選ばれる。


こうして【生みの父親に復讐する】という最重要な任務は、創造主の家族である青豆によって成し遂げられる。前駆者であるリーダーは、予言に基づき、天吾を「奇蹟の人」として認定し、自分の死を望み、その交換として、聖家族の脱出のために出口を創る。


創造主である天吾は受難者の救済として間接的にリーダーを殺害する。青豆は直接的にリーダー殺害を実行する。

そのときに時空は再度ゆがめられ、殺害の瞬間にふたつ目の「処女懐胎」が成し遂げられる。青豆は天吾と交わり、「小さなもの」が青豆に受胎する。これによって「聖家族」が始まる。

天吾は、事の顛末を「小説 1Q84」として書く。その小説はこれら聖家族の「奇蹟」を世の中に伝える「伝道書」として機能するものになる。 

物語が世界を救うのだ。

そして青豆と天吾の脱出劇のあとに「小さなもの」が活躍すべき「新しい世界」に届けられる。   

新しい世界でその本は、村上春樹という作家の名前で小説「1Q84」として出版される。

これらの行為は創造主としての天吾の創造主としての計画であり、「1Q84なる世界」に存在する人間の姿に押し込められた天吾という下位のレイヤーには計り知らない構造になっている。


この奇蹟の物語には、「聖家族」としてのふたつの姿がある。

ひとつは、「処女懐胎」を巡って破綻してしまった天吾の母親とNHKの集金人の家族。もうひとつは「処女懐胎」をきっかけに家族を始める天吾と青豆、小さなものの、聖なる家族だ。

それは、さながら第二楽章で読解した「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」のふたつのカップルと同じ対称を見せている。

約束を忘れて青山ですれ違うカップルと、約束を20年かけて思い出し、それを実行する天吾と青豆のカップルの違い。そのふたつの違いが「処女懐胎」の違いにおいても相似形をつくる。

「神の奇蹟」に自分が参与していないがために、100パーセントの相手を信じることができなかったNHKの集金人と、青豆の言う「処女懐胎」を素直に受け入れた天吾が、この命運をわけた。


「でも、本当に信じてくれるのね? 私の中にいる小さなものがあなたの子供だと」
「心から信じる」
「よかった」と青豆は言う。「私が知りたかったのはそのことだけ。あなたさえそれを信じてくれるなら、あとのことはもうどうでもいいの。説明なんかいらない」


家族への信頼が、「聖家族」への試金石だったのだ。家族への信頼さえあれば、ほかの人たちからの無視や、周囲からの無理解や、酷い仕打ちに耐えていけるのだ。

信頼が家族を清く正しいものへ導く。不信で育った天吾は、次の世代である「小さなもの」を信頼で育て上げるだろう。


こうして物語「1Q84」に、「処女懐胎」を巡る二重リングに加えて、「聖家族」を巡る二重リングが加わる。

そして、この物語は、「ふたりの創造主の物語」として「新訳聖書」のように伝道のために使われていくことだろう。この伝道書の姿が、「1Q84」の本来の姿である。


さぁ、すべての謎はいま解けた。


最期に青豆の祈りを聴こう。

これは、青豆によって、自分たち聖家族に捧げられた祈りの言葉に昇華した。


天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与えください。


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最後に「風の歌を聴け」の読解
さらば、ハートフィールド、村上春樹の変容



処女作「風の歌を聴け」の中で、デレク・ハートフィールドという作家が登場する。


「僕は、文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。殆ど全部、というべきかもしれない。不幸なことにハートフィールド自身は全ての意味で不毛な作家であった」


僕もそうだったが、「風の歌を聴け」でデレク・ハートフィールドを知り、真剣に読みたいと思った人間が多かった。特に、「誰もが知ってることを小説に書いて、いったい何の意味がある?」というハートフィールドの文章が好きだった。


しかし、どこを捜してもデレク・ハートフィールドの著作は手に入らなかった。それも当然だったのだ。


「でっちあげなんですよね、あれは。つまり架空の作家。ぼくはヴォガネットが好きだし、R.E.ハワードも、ラグクラフトも好きだし、そういう好きな作家をあわせてひとつにしたものですね」 幻想文学 1983/4 村上春樹インタビュー


当時の図書館や洋書店で、デレク・ハートフィールドを求める客が後を絶たず、閉口した書店主が講談社にクレームをいれるという一幕もあったらしい。ご丁寧にあとがきで墓地巡りの旅行記まで書いているのだから、「そりゃ、だまされるよね、まったく」


いま思えば、「風の歌を聴け」ほど、純粋に文章や小説について言及した村上春樹作品は少ない。そして本人も語るように、この処女作は文章論以外に主張したいことがなかったのではないだろうか。


「……でも『風』でね、ホントのこというと、ここまで、Chapter I まで、この文章がホントに書きたかったの。あとはどうでもよかった。この文章は、今でも暗記するくらいよく憶えてるし、それはホントに正直に書けたと思ってる。それはホントに正直です。ハートフィールドの実在ウンヌンを除いてはね。この部分はこの小説の中でいちばん好きだ。でもこれだけでは小説にならないからあとを書いたんです。だから僕がいちばん小説で書きたかったことは、そこに全部入ってると思う。あとは展開させているだけです。」宝島 1983/11


そのChapterI は、こんな文章で始まる。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないように」
たぶん、20代の村上春樹はコンプレックスの塊だったのだと思う。早々にデビューする同世代の作家の中で、自分の無能さと社会に認められない不運に対して抱き続けたコンプレックスでいっぱいの若者のひとりだったはずだ。


自分の書いている作品に意味がないのではないかという不安、世の中に認められないのではないかという焦燥、文筆業では生活が成立しないであろうという諦観。これらは文章で生計を立てようとするものの共通の悩みであり、まさに「1Q84」の主役・天吾も同じ悩みを抱えていた。
この悩みをストレートに書いたことで、同世代の我々と共感が生まれたのだと思う。われわれは、若く、何も持たず、挑戦的で、無謀。それゆえに失敗をし、挫折を繰り返す、若者だった。村上春樹と僕らの世代はそういう仲間だったと思う。


ところが、いまや村上春樹はヒットメーカーである。そのヒットの仕方は純文学の売れ方ではない。さながら小説「空気さなぎ」のような異常な売れ方だ。世界中が彼の新作を待っている。いまでは発表される作品は全て社会現象のように扱われ、世界中のベストセラーのランキングのトップにあがる。売れなかった20代がウソのようだ。あの頃の村上春樹を知っているのは、ファンの中でも数少なくなってしまった。現在、最も売れる作家が村上春樹なのだ。


反面、村上春樹は、ノーベル文学賞の候補の常連になっている。売れているからこそ、ノーベル賞が取れないという評価すらある。彼がノーベル文学賞を望んでいるかどうかは問題ではなく、社会がそういう形で村上春樹という作家を位置付けてしまっているのだ。毎年、ノーベル文学賞の発表時期になると大騒ぎになる。


村上春樹には、それゆえの悩みがあると思う。今のように出す作品、出す作品がヒットしてしまうカラクリは、自分でも理解できていないのだろう。なんとなく、ここ最近の作品には、今の高い評価に居心地が悪い思いをしている村上春樹が感じられた。彼の中では、ヒットしようと、ノーベル文学賞を取ろうと、作品の「時代的な価値」は別物なのだ。売れれば売れるほど、村上春樹のなかの違和感が広がっていった気がする。


どちらかというとその生きた時代には不毛、不遇という評価を下された作家にシンパシーを感じていたはずで、そういう作家が後の時代に正統に評価されるのが理想だと考えていたのではないだろうか。だからこそ処女作でデレク・ハートフィールドが創作されたのだろう。


しかし、「1Q84」ではそれらの後ろめたさや、居心地の悪さがなくなり、吹っ切れた印象だけが残るのだ。「作品の普遍的価値は、その時代に認められない」という固定観念から村上春樹自身が解放されたのではないだろうか?


つまり、自分が「偉大な作家」になることを受け入れ、そのための努力を惜しまないと宣言したのが、この「1Q84」なのだ。長年のファンとして、そう確信している。


村上春樹は、作家人生をかけて、自分のスキルをすべて投入して、50年、100年を経た時に「古典文学」として価値が残るものを創作しようとした。「1Q84」は、21世紀を代表して歴史に名を刻む作品になるべくして、構想が練られ、 自分のスタイルを貫いた代表作として書き上げられた集大成なのだ。そして作家として、文学者として、「英雄譚」の復活という野望を持ち、現代的な多層構造世界のなかでサスペンス・ドラマとして見事にそれを成し遂げた。


若い頃の甘えを捨て、自信と確信を持って「完全な作家」への脱皮を図った同世代作家、村上春樹が誇らしい。彼の言葉が風に乗って聞こえる。「さらば、ハートフィールド!」と
我々に求められているのは、村上春樹を偉大な作家として信じるかどうかなのである。もはやそれは「信仰」に近い。それを信じれば、「1Q84」に書いてあることは、すべて事実になる。そう、青豆が、天吾の書いた「小説 空気さなぎ」の世界がすべて真実であると信じたように、我々もそのことを信じるのだ。そうすれば、それは真実になる。


ここは見世物小屋
何からなにまでつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる
“ It’s Only a Paper Moon “
E.Y.Harburg & Harold Arlen





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