「虐待をする家庭」は存在しない。

虐待やネグレクトなどの話題が絶えることはない。

インターネット上では、最高の暇つぶしと言わんばかりに日々このような痛ましい事件について ーこの記事も例に漏れずー 各人がそれぞれの意見を垂れ流している。

そもそもとして、どこまでが虐待かというと、その線引きはとても難しいことがある。

挙げるケースとして適切ではないかもしれないが、今年の10月にとあるプロサッカークラブで監督によるパワハラ指導が行われているのではないかとの疑惑が持ち上がった。これは異例の出来事である。詳細については下記の朝日新聞web記事に譲る。

https://www.asahi.com/articles/ASMB45JHMMB4UTQP01X.html

結果的にパワハラが存在していたことが第3者委員会の調べにより判明し、監督はリーグから諸々の処罰を与えられ、やがて辞任した。これで選手たちは、あらゆる暴力の原因が取り除かれたことにより、さぞ安堵したことだろう。私はそう思った。

しかし、そうではなかった。選手たちの中で、監督を擁護する声が次々と上がったのである。「自分は監督の指導のおかげでサッカーが強くなれた」「監督の指導方法は間違っていない」等々。

彼らはアスリートとして生きていて、自分たちの努力が勝つことでしか証明されない特殊な環境でしのぎを削っているため、その意見もまた、事実であろう。軍隊方式の教育法はことスポーツの世界においては、抜群に有効であることは否定できないのである。

ただ、この方式はしばしば犠牲者を生み出す。生贄と言ってよいかもしれない。指導者が少数の非差別者を故意に作り出すことにより、その他多数の差別されない者は己の存在の強さ、正当さを感じることが出来るのである。これは、指導者にとってたいそう居心地の良い権力関係の成立を意味する。指導者は神となり、それに「選ばれた」選手は自己の正当さを示すために、「選ばれなかった」選手を無能ないし力が劣っている者としての認識を持ち始めるのである。こうなれば指導者は特別に力を行使することなく、集団内のヒエラルキーを容易に保てる。「選ばれた」選手が、自分たちの優れた力で ーこれは大変な思い違いで、怠惰な考えだがー 集団を自治しようと努めるからである。

つまり、彼ら(「選ばれた」人々)はパワハラを"なかった"ものと認識している。犠牲者が私の想像のつかないのような、とてつもない勇気を振り絞ってパワハラを告発するまで、パワハラは"存在しなかった"のである。

話を家庭内の虐待に戻す。虐待が発覚するケースとして、

①虐待を受けている本人による証言ないし証拠の提出

②第3者による観測の結果、継続的な体罰、ネグレクト、言葉による人格否定が認められた場合

がある。この➀についてだが、虐待を受けている本人が警察などに申告するのはたいへん難しい。ひどい話であるが、被虐待児童は大体の場合、自分が罰を受けるに値する存在であると思いこまされている。しかも、そのような子が育つ家庭は、往々にして風通しが悪い。親戚づきあいが極端に少なく、子どもにとって交流の出来得る大人が親以外に存在しない。つまり、親をはじめ、大人全般が信用できなくなるのである。自分の境遇を吐露し、保護を求めるなんて芸当は、出来なくて当然である(大人でもなかなか出来ない)。

となると、頼みの綱は②であるが、先ほどのサッカークラブによるパワハラ事件を思い出して欲しい。

不思議なことであるが、力(権力)を背景とした上下関係の中では、奇妙に秩序だった雰囲気が構築されるものである。同じ子どもであるのに、Aは親からの変わらぬ寵愛を受け、Bは行動、発言全てを否定され続ける。この二人が成長するにすれ、Aはゆがんだ自己愛を身に着け弱きを支配することを学び、Bはますますその存在を食い物にされるであろう。これが、別段珍しいことではない。なぜなら、人間には好き嫌いが存在し、親にはその好き嫌いを通すだけの生活力(経済力、自分の主張を通す力)が子どもより備わっているからである。これは誤魔化さずに認めなければならない。生活する主体(この場合は親である)に子どもは追従して生きていくことを余儀なくされるのは、資本主義が始まって以来、当然のこととされているのである。

このような家庭を果たして「虐待をする家庭」と言えるだろうか?いや言うことは出来ないと私は思う。虐待は第3者に認められて初めて虐待と言えるのだ。そうでない場合、虐待は”存在しない”し、"認められない"。つまるところ、虐待の可能性があると認められる危険な家庭像など、誰も分かるはずがないのだ。「虐待のあった家庭」であれば、言うことは可能であるし、事実そうなのである。

悲しいことに、家庭内でいじめられ続ける子どももいれば、同じ屋根の下で、常に褒められ続け有頂天になっている子どももいるのである。どうしようもない不公平を抱えて生きる人生であるが、社会に出る前の家庭においてもはっきりとした不公平が存在するのには、なんと残酷であろうかと言わざるを得ない。

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