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メモ-「愛」のような概念を、私たちは有限であるかのように扱う

これからは「愛」すらもAIで再現可能になる。
(そもそも、愛「すらも」ではないのかもしれない。愛さえあればなんとかなる、というわけではない。金さえあれば、なんとかなる。というわけでもない。全てが繋がっているのだから、切り離すことはできない。)

AIになくて人にはないものは、心だと言われてきた。
けれど、例えばAIで作られたロボットが落としたハンカチを拾った時、「このAI、優しい」と人間が感じれば、そのAIは優しい心を持っている。
要は人間がどう感じるかということで、もはや行動、見た目などの外見では判断できない。
そして私たちがAIとともに生きていく未来になることは、9割方そうだろう。

ここから問題になってくるのは、おそらく「愛」や「信頼」などの”概念”だ。
これらはAIが獲得することが難しいと言われている。
これから先、AIといったテクノロジーが無駄な仕事を代替してくれるとしたら、どうやってそれらに向き合えばいいのだろう?

私たちはこれまで曖昧にしてきた。「やっぱり愛の力だね」「信頼なしには成り立たないよね」と。

私たちは、いや私は、”概念”を”概念”のままで扱ってきたものだから、どうやって人を大切にすればいいのか、”愛”の伝え方すら、持ってはいない。

”愛”は時間では測れない。労力でもない。長い時間を過ごしたから、何かをしてあげたから、私がその人を愛していることにはならない。
関連性は強いかもしれないけど、かけた時間や労力はあくまで愛を伝えるための手段だ。(そう考えればポリアモリー的な価値観が成り立つ。母親が自分以外の、つまり父親や兄弟を同じくらい愛していたって、自分だけと過ごさずに他の人に愛情を注ぐために時間を割いたって、不思議には思わない。そういうことだ。)

そういえば、落合陽一さんは「計算機で測れる自然」と「測れない自然」に分けていた。(言葉が正確かは忘れた)

愛情は無限だ。信頼も然り。質量がない。概念とはそういうものなのだろうか?

概念を、私たちはさも有限であるかのように扱う。
誰か他の人を愛すれば、自分が軽んじられたかのように感じる。自分への愛が減ってしまったように感じる。

けれど、その人があなたと過ごす時間が減ってしまったとしても、それはその人があなたを愛していないこととイコールではない。

時間は、人生は有限だ。けれど、愛情は量で計れない。
異なる世界に存在する2つを、同じ世界観で捉えようとするから、私たちは矛盾の罠にはまってしまうのだろうか?

テクノロジーは有限を無限に変えてくれた。
伝えたいことを、限りなく伝えたいことに近い形であなたに届けられる日がやってくる。相変わらず人生は有限だけど、その中で人との距離はもっと近づくのかもしれない。(そもそも「人との距離(関係性)」という概念自体が変わるのだろうけど。)

漠然とした話になった、多分今日は「私はこれから何を大切にして、何に力を割いて生きたいんだろう?」ということを書きたかったみたいだ。
メモ程度にして、今日はここまで。




本を買います、って言える知的な人になりたかった。多分あれこれ使い道を夢見たあとに貯金します。