はじめてころしたねずみの話

わたしは人生ではじめて、2020年6月1日にネズミを殺した。クマネズミのメスで、きっとおなかに子供がいた。

わたしの仕事は広く言えば衛生管理で、ラボや病院の消毒をしたり工場や物流倉庫の害虫を駆除する。トラップを仕掛けてモニタリングをし、虫の発生源や侵入口を見つけて異物混入を防いでいる。捕まる昆虫の種類によって使うトラップも変わるが、ゴキブリが捕まると厄介である。それよりも、殊更困ってしまうのは、ネズミが捕まってしまったときだ。

大抵のネズミは、トラップの中で死んでいる。体をべったりとポリブデンの粘着剤に浸して、苦しそうな顔をして事切れている。死因は餓死である。逃げようともがいて変な方向に向いてしまった足や、口の届く範囲で齧られたトラップの内壁を見ると、痛々しくて、仕事に慣れてきた今でも少し辛くなってしまう。しかし、粘着トラップに捕まったネズミは死んでしまっているので仕方がない。わたしが殺さなければならなかったネズミは、毒餌を食べて弱り、壁の隅でぶるぶると震えていた。

ネズミを見つけたわたしは、咄嗟に手に持っていた粘着トラップで叩いて捕まえた。当時、入社して2ヶ月のわたしは突然現れたネズミに動揺して、とにかく捕まえなければと必死だった。叩きつけたトラップの下で、ごそごそと動く手応えを感じ、安心感と絶望感が一気に押し寄せた。

元来わたしは生き物全般が大好きで、道路を歩く毛虫を路肩の草むらに移動させる程、本当に生きている物を大切に思っていた。この仕事に就いたとき、色んな生き物の死骸を毎日、何匹も何匹も目にして分析して、仕方ないって何度も唱えてきたけれど、それらはすべて初めから死骸だった。今回のネズミはわたしが捕まえてしまったために、これから死ぬのだと実感し、改めて恐ろしくなった。

怖くなって、押さえつけたトラップから手を離せずに、大きな声で上司を呼んだ。すると駆けつけた上司に、よくやった!大きなクマネズミだ、しかも子持ちだぞ!とトラップを広げて見せられた。たしかにクマネズミで、口元を見ると毒餌を直前まで食べていたことが見て取れた。そのネズミはこちらをじっと見て、小さくヂューと鳴いた。わたしは上司の手前、はい、とだけ答えてビニール袋を差し出した。

その後も作業が続いたため、1度車の中に運び込んで保管しておいた。作業中はずっとネズミのことばかり考えて、この仕事が終わる頃には死んでいてくれたらいいな、と思っていた。しかし残念なことに、捕獲から4時間が経った後もそのネズミは生きていた。少し動かすと体が痛むのか、やはり小さな声でヂューと鳴いた。直属の普段は厳しい上司が、本当によくやった、お手柄だな、とわたしを褒めてくれた。それから、処分も頼んだぞ、と言い残して帰っていった。

もう息も絶え絶えなネズミと向き合うと、どうしていいかわからなくなって途方に暮れてしまった。トラップごと踏み潰してしまうか、水に沈めるか…としゃがみこんで悩んでいると、いつも優しくしてくれるおじさん上司が後ろから覗き込んできた。おじさんは、ああ、ここまで粘着剤がべったりだともう駄目だ、剥せるのなら遠くに逃がしてやっても良かったんだけどねえ、この角度だと頚椎を外して安楽死させることもできないかなあ、と言った。それを聞いて、わたしは早まったことをしてしまった、と酷く後悔した。その様子をみたおじさんは、君はよくやったよ、命に敬意を払って、優しく仕事をしているんだねえ、その気持ちは何年経っても大切なことだから、忘れてはいけないよ。と、続けて、今できるなるべく楽な方法で殺してあげようね。と言った。

ネズミをトラップごと入れたビニール袋を車のマフラーにあて、エンジンを掛けて排気ガスを送り込んだ。しばらく袋の中でばゴソゴソと音がしていたが、1分も経つと静かになってしまった。袋の口をキュッと締め、燃えるゴミに出した。これがわたしのはじめてのネズミ退治であった。

クマネズミはネズミの中でも群を抜いて頭が良い。今回設置していた毒餌は、数日間に渡って多量摂取しなければ効果が出ないもので、学習能力の低いドブネズミやハツカネズミのために用意したものだった。それなのになぜ、クマネズミが食べてしまったのでしょうか、とおじさんに聞くと、この子はおなかは膨らんでいるが、全体的に肉がない。きっとおなかの赤ちゃんに栄養を与えようと、必死に餌を探していたんだね。と言った。

定時もあっという間に過ぎ、終電も逃して歩いて家に帰った。お風呂に入ってごはんを食べ、落ち着いたころにぎゅうっと胸が苦しくなって、もう大人なのにボロボロに泣いてしまった。お仕事だから仕方がないけれど、ネズミだって生きていくために仕方なく人間の建物の中に入っちゃったんだ、山奥に逃がしてやれば良かった、大きなくりくりの目で、ずっとこちらを見ていたのに、と思い出せば思い出すほど、あの小さな鳴き声が聞こえてくる気がして、途方もなくかなしかった。

大抵の生き物は人間より命が短くって、それが小さな頃から本当にかなしかった。飼っていたハムスターがしんだとき、夏が終わって向日葵が枯れたとき、いつだってわたしの寿命を分けてあげたかった。
今は仕事にも慣れて、ハクビシンやタヌキの駆除の指揮をとったりすることもあるけど、これからも、はじめてころしたネズミのことを忘れたくないな。

数日後には控えたネズミの一斉駆除の書類を見て、ふと思い出したので文章にしました。
疲れてしまうこともあるけど、やりがいのあるお仕事、みんなこういう道を通ってお仕事をしているのでしょう。体力と気力の続くうちはがんばってみようかな。

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