母がAIだったかもしれない話
amazon primeでviviを見ている。
最初は、「んん~~?AIなのに後悔・・・?どっちを取るかとか、そんなギャンブル要素のある判断がAIにできるんだろうか。てかAIがプログラムの中で対話形式とか、もはやこれは自我があるんだからAIを搭載した人間でいいじゃん」とか思いながらモヤモヤしながら見ていたんだけど、見続けるうちにそのもやもやは解消され別のモヤモヤが出てきた。
あぁあれだ、手塚治虫のロビタの回を見た時と同じ感情。
「笑っているように見えたら喜んでいる。優しい言葉をかけられたら親切に見える。涙を流していたのなら悲しんでいるように見える。見えるだけ。表現に騙されるのは受け取る側の人間の心」
viviの世界では、AIはかなり発達しているようだから、その場その場での表現の選択もかなり細やか、かつスムーズに行われているんだろう。それを見て受け取る側が不自然に感じなければ、それは「感情がある」ということなんだろうか、では、我々がプログラムで動いていないという証拠は?という手塚治虫時代からの命題。
話は変わるけど、私の母はすごい人なんですよ。
とにかく料理がうまい。家事は完璧にこなし、体力もある。人付き合いも上手だし、様々なことの要領がいい。質素倹約を旨とし、贅沢なプレゼントなどよりは、手作りのものを喜び、自分より子供や家族優先で全てをこなす。そんな人。
ただ私は、このすごい母とどうも折り合いが悪い。
落ちこぼれ枠で何をしても無軌道な私は、かろうじて女に生まれてしまったが故に、母から見れば心配の塊だったのだろう。
何かすれば「人から見られたらどう思うか、考えなさい」
何かプレゼントすれば「こんなもの、使いづらいわ。こんなのに無駄にお金使わないでよ」
「看護師なんて続くわけないでしょ」「女が男並みに稼ぐなんてこと、できるわけないんだから」「漫画家なんて、あんたのことだから騙されてるんだよ」「お金があれば」「私が男だったら」
社会から見れば完璧ですごい母でも、私から見れば「あれがあったら、これができたら」とため息をつく、それは「羽があったら飛べるのに」と空を見上げて、自分の跳躍力を無視する蛙のようにも見える。
ただ、この「すごい母」のいうことを聞かない私は、社会から見れば「あんな母親の言うことを聞かずに勝手にやっている悪い娘」でもある。
母は、娘の「私」より「社会から良く見られる自分」を愛しているのではないか。
そう思った時、全ての違和感が氷解した。
子どもの頃、母誕生日にはもちろんたくさんの料理とケーキを用意してくれた。
服を汚した私と家計簿に悪態をつきながら。
中学生で反抗期の私にきちんと叱ってくれる。
私が大きな声を出してお隣さんまで聞こえないように。
母はあかぎれの指で皿洗いをする。
キレイにネイルをした若い母親の悪口を言いながら。
母は自分の体形に、生活に文句を言う。
近所を定期的に散歩するおばさまを見ながら「この年になって歩く姿なんて見られたくない」と言いながら。
母は、社会で「良い」とされるものを最優先で選択し実行するAIだった。
私が母から愛されてなかった、とは口が裂けても言わない。
でも、娘の私よりまずは「社会の目」、それを選択した上で、愛情表現としての「愛」なんでしょう。
表現さえされていればそれは、「心から思っている」と同じことになる。まさしくこれはAIじゃないか。
なるほど、これが長年の違和感の正体か、と納得すると同時に、できれば一番で愛してほしかったな、とも思うけど、いまさら、とも思う。
当時のことを思い返すと、ちょっとだけ胸がちくちくっとするとする、それだけ。
結論として、「不滅のあなたへは」はいいぞ、というお話でした。是非見てください。
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