恋愛やジェンダーの自由を認めないことは、「より良い社会」を作り上げるための礎となりますという話

さてこの記事は、もしかしたら「不倫は絶対許さない!人として最低!」という人には少し不愉快なことが書いてあるかもしれません。

不愉快なことは目にしないのが吉です。もしそういう考えの持ち主の方でしたら、そっと閉じて見なかったことにすることをお勧めします。

けれどほんの少しでも「この世には絶対なんてことはないんだから、もしかしたら自分も、パートナーも該当してしまう時がくるかもしれない」という心の余裕があるならば、ちょっと勇気を出して読んでみてほしいのです。

先に申し上げておきますと、私自身は「不倫は絶対許さない!」という考えの持ち主ではありません。

「不倫絶許」というのは社会全体の風潮ではありますが、何故許されないのか、というところに焦点をあてて私の考えを話したいと思います。

・パートナーが許さない

お互い一生一緒にいると誓った相手が自分を裏切る行為をしていたら・・・それは許せないですよね。

でも許せないのは、パートナーだけでいいと思うのです。

「裏切るとかそんなつもりじゃなかった」というのは常套句ですが、その気持ちもよくわかってしまう。

本当に好きなのはパートナーだけだけど、体が刺激を求めてしまった、というのも実に人間らしいと私は思うのです。

個人的な意見を言うならば「自分の予定(生活環境)より不倫(浮気)相手を優先したら許せない」というところでしょうか。(例えばデートの約束をしていたのに、不倫(浮気)相手を優先してキャンセルをしたとか、子どもと遊ぶ時間があるのに、それを不倫(浮気)相手と会う時間に充てていたとか)

砕けて言うのであれば「私の見えないところで、私にも相手にも不愉快な思いをさせず、きれいに遊んでくるならいいよ」という感じです。

つまり「バレないように上手にやりな、バレるようならやるな」ですね。ポケットにレシートを入れっぱなしにするとか、スマホに証拠を残す、夢中になってパートナーを蔑ろにするなんていう感情優先の不倫は論外。

そもそも人を傷つけるようなことをしてしまう人は、大体何やってもバレるしうまくいきません。

「自分がそういうことができる人間かどうか把握して、完全犯罪を犯せる人間だけがパートナー以外と性的な関係を持つ権利を有する」

そういう種として有能な人間はやはり魅力的でしょう。有能な人間が他から選ばれないわけがないのです。

あなたのパートナーはとても魅力的でしょう。だってあなたが選んだんですから。「でもこんなに魅力的な不倫しているかも・・・」って思うのも当たり前。

大丈夫、本当に有能な人ならあなたを傷つけるような真似は絶対にしないでしょう。


・社会が許さない

冒頭でも出てきていますが、「社会が許さない」という事実。法律でも

不倫(不貞行為)は貞操権侵害として違法となる ... 不貞行為は、他人の貞操権を侵害し、精神的損害を与える行為と評価され、精神的損害の賠償である慰謝料支払義務を発生させます。 この慰謝料支払義務を発生させる権利侵害行為という意味で、不倫(不貞行為)は民法上違法なのです。

という一文が出てきます。ていうか貞操権なんてあるんだ。

法律はもちろんですが、何より怖いのはご近所さん・知り合いの目と口。人がうらやむような家庭や環境を持っている人の不貞行為ほど、他人は喜びます。

ですが上でも書いた通り、「許さないのはパートナーだけでいい」と私は思うのです。

他人が鬼の首を取ったように「あの人は不倫をしていた!そんな人だと思っていなかったのに!裏切られた!」とはしゃぐ姿は、私にとって非常に醜悪に映る。

他人に勝手に期待して勝手に裏切られたと思っているだけであって、結論は自分が思っていたことと違ったということでしょう。

芸能人などの著名な方々の不倫や離婚も、連日のように報道されますが、正直どうでもよい。

著名人は清廉潔白であるべきというイメージを押し付け、それを裏切るなよ、という姿は非常に歪んでいると思います。

まして有能な種が、誰も傷つけないように上手に遊んでいることを、あえてつけまわし、根掘り葉掘り探り出して白日の下に晒す文化は、唾棄すべきものだと考えています。(それでご飯を食べている人がいるということも承知の上で)

そんなことをしておいて、そんな情報を鵜呑みにして「こんなことは社会が許さない!」と叫ぶのですか。


・「より良い社会」を作るために

ここで社会の在り方について目を向けたくなりました。

私は「より良い社会」という概念がとても嫌いです。

「より良い」というのは、「みんなが嫌な思いをしないように、良く生きる社会」と仮定します。(これは私の印象ですが)

ですが、「より良い社会」の「良い」に該当しなかった人間やその人間がもつ欲求はどうなってしまうのでしょうか。

私自身、社会的な目で客観的に見れば、落ちこぼれ、はみ出し者、異端児・・・等の名前がついてしまう種類の人間です。私以外にも、トランスジェンダーの方や、同性愛者、果ては特殊な性癖の持ち主など。あるいは過去に失敗をしてしまった「良く」ない人たち。

こういった人間は、「より良い社会」では許されない存在になるのではないでしょうか。だって興味から根ほり葉ほりされて、「思ってた人と違った」と言われてしまうんだもの。

社会的に受け入れらないから、あるいはパートナーを傷つけたくないから、日陰でこっそり自分の欲求を満たしている姿を、他人に白日の下に晒されて「思ってたのと違う!」と非難されるのが「より良い社会」なら、私はそんなものくそったれでいい。と思ってしまうのです。

人間の欲求を否定してなかったことにする、きれいな側面だけを受け入れる社会が健全なんでしょうか。

いつからこの国は、相互監視のような「失敗が許されない社会」になってしまったのでしょうか。

失敗はするさ、人間だもの。絶対失敗しない人間なんていないのに、今の社会は失敗することを許していなさすぎると思ってしまう。

大事なのは迷惑をかけた後に自分がどう行動を変異させていくかということ。

失敗した時「次は失敗ないようにしよう!」と思うか、「失敗してもバレないようにしよう~」と思って行動するかも含めて、その人の魅力であると思うのです。

だから私は「より良い社会」ではなく「より生きやすい社会」を目指したい。

そのためにできることって

「何もできないし迷惑かけてでごめんな!でもあなたが失敗した時は私も許すし、お互い楽な距離感でやっていこ!今日も元気に生きてまーす!」

って生きていくことなのかなって思っています。

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