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ジェットエンジンの生みの親は同時期にふたり

ジェットエンジンの歴史について調べると、生みの親はふたりいることが分かりました。
率直に「同時期にふたりも同じ仕組みを思いつくのか?」という疑問を持ちました。

こちらの記事から引用します。

ともすれば、ジェットエンジンの発明者はライト兄弟に匹敵する偉業をなしたといっても過言ではありませんが、発明者たるイギリス人、フランク・ホイットルの名は、残念ながらまったくといっていいほど知られていません。

ホイットルはいまからちょうど80年前の1937(昭和12)年4月12日に、「ホイットル・ユニット」と呼ばれる世界初のジェットエンジンの運転に成功しました。のちに航空の歴史を一変させてしまうこの偉大なる発明に対し、世間は信じられないほど注目しませんでした。

実は1931(昭和6)年、ホイットルは24歳の時に原始的なジェットエンジンである「ターボジェット」の特許を取得していました。ところが、特許の更新費用が払えずこれを失効してしまっていたほどで、せいぜい時速300km程度のレシプロ機が当たり前の時代に、誰も超音速飛行すら可能なジェットエンジンのポテンシャルを理解できず、ありていに言えば無視されていました。1937年の初実験も、資金を集めてようやく達成することができたほどなのです。
一方で運が良かったのは、ドイツ人のハンス・フォン・オハインです。オハインはホイットルのことをまったく知らずに、やや遅れてターボジェットを発案。ドイツの航空機メーカー大手ハインケル社社長がその価値を見抜き、ホイットルの成功からわずか4か月半後にオハインもまたジェットエンジンを「発明」しました。この時オハインはまだ25歳でした。
こうした事情から、実際に飛行機に搭載しての試験飛行はオハインが先んじました。1939(昭和14)年8月27日、第二次世界大戦勃発の5日前に、オハインのエンジンを搭載した史上初のジェット機、ハインケルHe178が初飛行を成功裏に実施しています。

ホイットルのエンジンを搭載したグロスターE.28/39が初飛行したのは1941年5月15日であり、オハインより2年弱も後れをとってしまいました。そのため「最初のジェットエンジンの発明者」はホイットルですが、「ジェット機の発明者」はオハインであり、現代ジェット機の発明者はふたりであるといえます。

1930年代というほぼ同時期に、イギリス人のフランク・ホイットルと、ドイツ人のハンス・フォン・オハインというふたりのジェットエンジン(ジェット機)の発明者が存在することになります。
しかも最初のジェットエンジンの発明者であるフランク・ホイットルの名はほとんど知られていないことも気になりました。

今でも原理が良く理解できないジェットエンジンの発明をほぼ同時期にふたりが各自で成し得るということに、何かふたりの開発者に対してテコ入れがあったのではと思ってしまいます。
時速300km程度のプロペラ機の時代に、超音速飛行(超音速とはマッハ1以上。マッハ1=時速1224km)が可能なジェットエンジンの仕組みを、離れたところに住む若いふたりがほぼ同時期に発案するのものでしょうか。開発の段階としてもエンジンのパワーがジャンプし過ぎているように感じます。

そこで、Wikipediaでジェットエンジンの発明者である、イギリスのフランク・ホイットルと、ドイツのハンス・フォン・オハインについて調べてみました。

フランク・ホイットル

フランク・ホイットル (Frank Whittle、1907年6月1日 - 1996年8月9日)はイギリスの空軍士官、技術者。発音はホイットルよりもウィットルの方が近い。

コヴェントリーの自動車整備工の息子。パイロットに憧れ1923年イギリス空軍幼年学校を受験したが、体格に劣って不合格になったため、特訓で体を鍛え半年後偽名で再受験し採用された。手先が器用で優れた模型飛行機を作ることが教官の目に留まり、推薦されて1926年航空士官学校に進み、学会発表『タービンの空力的設計』(An Aerodynamic Theory of Turbine Design) で国際的に高名な、技術将校アラン・アーノルド・グリフィス(英語版) の薫陶を受けた。

1928年航空士官学校を優秀な成績で卒業後、直ちにケンブリッジ大学工学部に派遣され、グリフィスが主張する軸流式ターボプロップエンジンではなく、構造が簡素な遠心式ターボジェットこそが早期の戦力化に適する、と反駁する論文『航空機設計の展望』 (Future Developments in Aircraft Design) をメルヴィル・ジョーンズ(英語版)教授の下で纏め、1929年に軍需省に上申し、翌年これを自費で特許出願した。

軍需省はこの論文を上官のグリフィスに査読させたが、計算間違いを発見しただけでなく、遠心式は大径で発展性にも欠け航空機用には不適と判断した。空軍の実験部隊に戻って水上機やカタパルトの開発に従事していたホイットルは、実機試作のための援助も得られぬまま、特許も1935年に更新料未納で失効した。

しかもホイットルの特許は機密扱いされず専門誌などで広く紹介されたため、各国の空軍や技術者が注目し一部では後追いが始まった。その中の1人がゲッティンゲン大学で博士課程を修了したばかりのドイツ人ハンス・フォン・オハイン で、ハインケル社が理解を示し本格的な開発に着手させた。

一方、王立航空研究所で軸流式ターボジェットエンジンの基礎研究を進めるグリフィスやヘイン・コンスタント(英語版)らに対し、反骨心を抱いたホイットルは翌1936年、銀行家の出資を取り付け、空軍を退役した元同僚2人とパワージェッツ社を設立し、蒸気タービン大手のブリティッシュ・トムソン・ヒューストン(英語版)社工場の一角で、確信する遠心式ターボジェットの実証モデルの試作に取り掛かった。ホイットルの身分は空軍中尉だったため、出社は当初週6時間だけ許されていた。

1937年4月、オハインとほぼ同時に試作初号機 W.U. (the Whittle Unit) の火入れに成功し、軍需省から飛行用実機製作のための予算を下附された。ここまでの開発は比較的順調で、予燃式気化器、クリスマスツリー型遊合フランジによる組立式タービンディスク、筒内圧力分布の考察、動翼の捻り等、幾つかの重要な要素技術を考案している。

間もなく第2次世界大戦が勃発したため、調達の優先順位を下げられてしまったが、軍需省に執拗にアピールした結果、W.U. の20分間の連続全開試験に成功した1939年には再び予算が付いたものの、拡大に伴い新たに生じた暴走、過熱、振動共鳴、サージング、バックファイアー等の問題をなかなか解決できず、試運転の度に爆発炎上しないことを祈る有様が続いた。

耐熱合金ナイモニック80(英語版)(ニモニック)の出現により、実用化が大きく前進した1941年5月に、ようやく W.1 (Whittle Supercharger Type 1) を搭載した実験機グロスター E.28/39 の初飛行に漕ぎ着けた。これはオハインらが開発した HeS 3b を積んだ He 178 の初飛行より1年半も後の事であったが、ハインケルを冷遇するナチ及びドイツ空軍はその事実を積極的に公表しなかったため、当初 E.28/39 が世界初のジェット推進機として喧伝された。W.1 は英米定期技術交流でアメリカに渡り、独自改良を経て GE J31 になっている。

各社でジェットエンジンの研究開発が長足の進歩を遂げる中、根本的問題のある反転型燃焼器や蒸発管式燃料噴射に固執するなど、経験論から反進歩主義に陥り、周囲と対立するホイットルの介入は次第に排除され、開発の最前線から遠ざけられる形になった。弱小で生産設備を持たないパワージェッツ社も、鹵獲した軸流式ターボジェットエンジンのユンカース ユモ 004 の分解調査とホイットルの叙勲を節目に、1944年末に王立航空研究所の一部門として吸収された。

終戦直後に体調を崩し除隊したホイットルは、BOAC、シェル、ブリストル顧問などの閑職を経て、1976年以降はアメリカ海軍士官学校の招聘で米に移住した。この地でハンス・フォン・オハインとの邂逅を果たし、終生親交を結んでいる。
メリット勲章、大英帝国勲章、バス勲章、王立協会フェロー(1986年)
1950年 ランフォード・メダル
1956年 フランクリン・メダル
1977年 ジェイムズ・ワット国際メダル
1991年 チャールズ・スターク・ドレイパー賞

ハンス・フォン・オハイン

ハンス・ヨアヒム・パプスト・フォン・オハイン(Hans Joachim Pabst von Ohain、1911年12月14日 - 1998年3月13日)は、ドイツ・デッサウ市出身の技術者。単体で飛行可能な世界初のターボジェットエンジンを開発したことで著名である。

イギリス空軍の下士官フランク・ホイットル (Frank Whittle) が1929年に出願した遠心式ターボジェットエンジンに関する特許は、機密扱いされず専門誌などで広く紹介されたため、各国の空軍や技術者が注目した。

その中の1人が、ゲッティンゲン大学工学部で流体力学を専攻する大学院生だったオハインで、ホイットルの物より更にシンプルな単板斜流のラジアルタービンを用いる別形式を発案して1933年に特許出願し、友人のマックス・ハーン (Max Hahn) が経営する自動車整備工場の一角を借り、翌1934年から自費1,000マルクを投じてジェットエンジンの基礎実験に着手した。

博士課程終了後も継続的な開発を望んだオハインは、1936年に恩師ロベルト・ポール (Robert Wichard Pohl) の紹介で試作ジェットをエルンスト・ハインケル (Ernst Heinrich Heinkel) に見せたところ、即座にハインケル社 (Ernst Heinkel Flugzeugwerke) に採用され本格的な開発が始まった。翌1937年、同社の板金職人が手作りした初号機 Heinkel Strahltriebwerk 1 (HeS 1) の試運転を開始したが、これはホイットルの試作初号機 W.U. (Whittle Unit) の稼動とほぼ同時だった。

実証モデルの HeS 1 は、相似形の単板遠心式圧縮器とタービン部を背中合わせに配置し、その間の外周に放射状バーナーとドーナツ状の直流アニュラー型燃焼器を設けた、極めて大径で粗野なものだった。1号機では当初、高速燃焼する気体水素を用い10,000rpmで静止推力115kgfと、試験結果は計画値通りでかつ安定していたが、ホットセクションが溶解したため修理した際に気化器を付加し、揮発油で運転できるよう改造された後は、様々な問題に直面した。

1975年には、航空機を含む米空軍の大気圏内飛翔体の全研究プロジェクトを統括する地位にあったが、この間軍の要職に就いている事実を秘され、対外的には農場経営者であると伝えられていた。

冷戦下でオハインが何を手掛けて来たかは必ずしも詳らかではないが、高温ガス炉による原子力飛行機、吹出翼を持つ試作垂直離着陸機 XFV-12、電磁流体力学発電(プラズマ発電、EFD 発電)等は、オハインが開発を主導したものとされている。そして、それらの総てが実用化されていない。
1991年チャールズ・スターク・ドレイパー賞受賞。

ふたりのWikipediaを読んで違和感がありました。
まずフランク・ホイットルですが
①フランク・ホイットルの特許は機密扱いされず専門誌などで広く紹介されたため、各国の空軍や技術者が注目し一部では後追いが始まった。
→計算間違いや発展性にも欠け航空機用には不適と判断されたものが、特許切れになったとはいえ、専門誌で広く紹介されるでしょうか。大きな事故に発展しかねません。
「ホイットルの考えた技術を知ってください、この技術を使ってジェットエンジンを開発してください」と、各国の技術者に訴えているようなものです。

②ホイットルは冷遇され孤立したと書かれていますが、終戦後はBOAC、シェル、ブリストル顧問などの閑職に就いている。
□BOAC→英国海外航空(BOAC)は1939年から1974年までイギリスに存在した国営航空会社で、英国欧州航空と合併して現在のブリティッシュ・エアウェイズとなった。
□シェル→イギリス・ロンドンに本拠を置く石油・天然ガス等のエネルギー関連事業を展開する多国籍企業
□ブリストル→ブリストル飛行機はかつてのイギリスの主要な飛行機製造会社

③様々な勲章や賞をたくさんもらっている

若い頃のジェット機の開発においては苦労した記述が多いですが、孤立し冷遇されたと書かれている割には勲章も多く、晩年は企業の顧問などに就き賞も多々もらっています。

対して、順調に進みジェットエンジンの発明者と言われるハンス・フォン・オハインですが、勲章はひとつもなく賞もひとつだけ

最初の記事では「オハインはホイットルのことをまったく知らずに、やや遅れてターボジェットを発案。
とあるように、オハインは独自にジェットエンジンを発明したように書かれていますが、Wikipediaでは「ホイットルが1929年に出願した遠心式ターボジェットエンジンに関する特許は、機密扱いされず専門誌などで広く紹介されたため、各国の空軍や技術者が注目した。その中の1人が、ゲッティンゲン大学工学部で流体力学を専攻する大学院生だったオハインで、ホイットルの物より更にシンプルな単板斜流のラジアルタービンを用いる別形式を発案して1933年に特許出願し」
となっており、オハインはホイットルの特許の技術を参照したかのような記述です。

真偽はどちらなのか分かりませんが、表向きジェットエンジンの生みの親はハンス・フォン・オハインだと世間には注目させて、最初の発案者であるフランク・ホイットルから目を背けさせるようにも感じました。
と同時に、ジェットエンジンの開発にハンス・フォン・オハインは利用された、と考えてもよいかもしれません。晩年のオハインは秘密裏に米軍の大気圏内飛翔体の全研究プロジェクトを統括していたとありますが、勲章はもらっていません。
Wikipediaに書かれているふたりの開発における苦悩の数々は表向き事実のこともあると思いますが、ジェットエンジンの発案と開発の流れなどは、気になる点が多いです。

また、フランク・ホイットルが出願したジェットエンジンの特許は1929年(昭和4年)で、各国の空軍が注目したとあるように、ご先祖様もいずれこのジェットエンジンの仕組みを目にしていた可能性はあります。
日本陸軍の飛行機担当では、こちらのWikipediaにあるように数々の試作品を作っては失敗を繰り返してきました。ジェットエンジンの設計図や仕組みを見たときに、きっと何かしらの違和感を覚えていたのだと思います。

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