哲学から考える優生思想―野田洋次郎はなぜ炎上したのか―
日本のロックバンドであるRADWIMPSの野田洋次郎氏が2020年7月16日にTwitter上でツイートした内容に批判が殺到した。以下がその内容である。
「前も話したかもだけど大谷翔平選手や藤井聡太棋士や芦田愛菜さんみたいなお化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないかと思ってる。 お父さんはそう思ってる」
このツイートの内容が「人間は生まれながらに優劣があり、劣悪な遺伝的素質は排除されるべき」という優生思想を支持しているのではないかと批判されたのだ。だが、優生思想は本当に「悪」なのだろうか。哲学的観点から優生思想について考えていきたい。
そもそも優生思想という考え方はどのように生まれたのかについて確認しておこう。チャールズ・ダーウィンは1859年に『種の起源』において「生存競争」や「自然淘汰」によってそれぞれの種は発展してきたと述べたうえで、自然の環境に適応できたものが生き残るという観察結果を示し、ダーウィニズムを唱えた。ハーバード・スペンサーはこのダーウィニズムを社会の進化に適用し、社会ダーウィニズムを唱えた。スペンサーはここで「適者生存(survival of the fittest)」という言葉を用いて、社会は文明的に進化している、つまり、高次のものが勝利すると述べている。この考え方から生まれたのが優生思想である。
では、優生思想について哲学的観点から考えていく。ベンサムの功利主義によれば、絶対的な「善」を原理とせず、個人的行為が、結果として、どのように社会における最大幸福をもたらすかということを重視している。これを参照すれば、野田氏の「お化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべき」という主張は「悪」であると言えないのではないだろうか。なぜなら、優れた遺伝子を持つ者同士が子孫を残すことは、次世代に優れた遺伝子を受け継ぐことにつながり、社会全体に公益をもたらすことになるからである。一方で、J.S.ミルはベンサムの功利主義を批判した上で、『自由論』において自由主義哲学を確立した。ここでミルは個人の自由の尊重を唱え、他人に危害を与えない限りは、国家権力によって本人の意思を制限することは正当化できないとした。これを参照すれば、野田氏の「お化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべき」という主張は正当化できないだろう。なぜなら、配偶者を自分の意思で選択する自由を国家権力によって不当に制限しようとしているからである。ベンサムの功利主義とJ.S.ミルの義務論はしばしば対立するが、優生思想においても対立するようである。
では、ベンサムやJ.S.ミル以外の哲学者の考え方ではどうであろうか。ここでハンナ・アーレントについて取り上げたい。ハンナ・アーレントは1906年にドイツのユダヤ人家庭に生まれるが、1930年代にドイツでナチスが台頭し、アメリカに亡命することになる。ナチスは社会ダーウィニズムの影響を受けてナチズムを確立し、「アーリア人種がユダヤ人より優れているのは自然の掟であり、劣等人種であるユダヤ人は排除されるべきである」という主張を基に、ユダヤ人大虐殺を引き起こすことになる。このユダヤ人大虐殺において、強制収容所への移送の中心的役割を担っていたアドルフ・アイヒマンは1960年にイスラエル諜報機関によって逮捕され、イスラエルにて戦犯裁判を受けることになる。アーレントはこの裁判を傍聴し、『エルサレムのアイヒマン』を執筆した。この著書でアーレントは、アイヒマンについて、普通の小市民で、決して異常人格者ではなかったと評価している。というのも、アイヒマンは、カント的道徳法則を引き合いに出して「法律に従っただけである」と主張したのである。つまり、極悪非道な男というわけでなく、法律を遵守しただけの普通の男だったということである。アーレントはこれを「悪の凡庸さ」と評した。全体主義社会という道徳が倒錯した社会において、思考を停止した凡人が「悪」になりうるということなのである。野田氏の「お化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべき」という主張は、まさに全体主義社会のシステムと言えるだろう。アーレントの主張を参照すれば、野田氏の主張するシステムが成立した場合、思考を停止した凡人がアイヒマンのような「悪」になってしまう恐れがあると言える。つまり、野田氏の主張自体が「悪」というよりも、野田氏の主張が凡人を「悪」に変貌させてしまう恐れがあるのだ。野田氏も問題のツイートに続くかたちで、
「めちゃめちゃ真面目に返信してくださる人いますが冗談で言っています、あしからず」
と弁解している。本当に冗談だったのか、批判されたから慌てて冗談ということにしたのかは定かではないが、このツイートから見ても、野田氏自身もアイヒマンと同様に、極悪非道な男というわけでなく、普通の男であるように思える。だが、これらの例から鑑みるに、凡人が思考を停止してしまった時に、そこに「悪」が生まれうる土壌が成り立ってしまうのではないだろうか。そういう意味では、野田氏を批判する大衆もまた「悪」になりうるのかもしれない。
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