32.自分を喜ばすことができるのは?

ポカリスウェットのあの青いロゴを握りしめるたびに西葛西のコナミでオリンピアンと泳いだ少女時代を思い出す。ジュニアに何名か紹介枠があり、たまたま我がクラブでは私が当選し一緒に泳がせてもらったわけだが、両手を広げるとコースロープに手が届く、コンドルという異名を持つその選手はロス五輪のヒーロー、マットヒヨンディ選手だった。大きなお尻に小さな顔で、ちっちゃいゴーグル(スウェディッシュ)してて、キャップなし。数かきで25m泳ぎ切ってしまう。どんなふうにキャッチしてうしろにつたえているんだろうか!と凝視した。

水球選手とのちに知り、ボールも扱えて泳ぐの早くて泳ぎも洗練されていて、代々木のパンパシもうわー凄いわと見ていたのを覚えている。いつか私も一緒に泳ぐ。何故かそう思っていた。

周りが金メダルを期待しようとも、次の世界選手権に期待しようとも、自分がしたいと思ったことをやらなければ誰よりも自分が喜ばない。人の決めた目標に向かって人のために泳ぐ、それはある意味とても楽だがその結果が良かった時は報われるが。

水泳が好きで泳ぐこと、それが1番大事。
その結果レースで何番かになり、自己最高の記録が出て、それが何とか記録で褒め称えられる姿をよくイメトレで使うけれど、私はそれは表面的なものに見えて仕方ない。1番なら喜ぶのか?世界記録なら嬉しいのか?と。

自分ができることの完成度を上げることに注目して自分がどうか?どこまで出来たか?ということを意識していけば、何番だろうが納得出来るし、記録が悪ければ私のせいだし、記録が良ければ皆さんが支えてくれたおかげと、落とし所が定まる。
自分が思った通りにゾーンに入り練習どおりに泳げたら達成感という最高のご褒美、それが1番ほしいもので嬉しいものだと思うのだけど。

結局どこに喜びを持つか?は、自分の満足しかなく、そこに徹底的に向き合うことは時にとても辛く、現実を目の当たりにすることにもなる。
下手だろうが遅かろうが、泳ぐことが好きならそれで合格、それだけでいいじゃん。と思う。

逃げれば必ず追いかけられる。
問題を解決することに全力で取り組まなければ、本当は泳ぐことが嫌いなのではなく、そこにいる人間関係が嫌なだけであったり、プールの環境であったり、漠然と一部だけを見て全部を判断するのは損なことだと思う。

私の水泳に対する態度も少しずつ変化している。今は自分の体が丈夫で長持ち、つまり健康でいられること維持することに満足を得ているし、8割でも良いから出来ないことがないように、満遍なく全部できるよう維持し続けるチェック法を編み出そうとしている。

自分が学んだこと、経験したことを、どのようにうまくわかりやすく、簡単に、より的確にその方が、楽しかったと思えるように伝えられるか?に全力でその技がパシッと決まればそれはもう嬉しい。

今の私の満足は、学んできたことを適材適所さまざまな言葉に乗せて生徒さんにAmazon並にひょいっと届けることだ。

それを教えてくれた生徒さんに、毎日一緒に泳いでくれる皆さんに感謝感謝感謝。

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