風空嚢考(3)

作詞者の平野は、ノンキャリアながら多くの資格試験を突破して、小学校、中学校、師範学校の教諭の職を得ています。彼は単に「職を得た」というようなことではなく、高田師範で三十数年勤務し、退職後には一教諭であるにも拘らず、同窓会により銅像が建てられています。大変優れた教育者であったことが伺えます。このあたりの状況は、上越教育大学の槇田先生の資料に詳しいです。
上越教育大学リポジトリ (nii.ac.jp)

平野のキャリアでわかるように、彼は中学校-旧制高校-帝国大学といったエリートコースを歩んではいません。また、主に小学校教諭を養成する師範学校(小学校卒業後に入学。終了年限4年か5年。また授業料無償!)にさへ進学していません。事情は分かりませんが、早々に働かなければならないというような家庭の経済的な理由だったのかもしれません。

一方で、明治期の三条中学校の生徒は、中学校を卒業したら、旧制高校-帝国大学、あるいは医専、高等師範、旧制高等工業、旧制高等商業(いずれも後に新制大学の優秀どころに姿を変えます)などへ進学して、社会の中枢で働くことを期待されているエリートです。これらエリートの卵たちに「中学校生活もなかなか大変だぜ」「世間は結構厳しいぞ」というような多少説教くさいメッセージを伝えることは、教育者としての視点からであろうと思います。

(1)で比較した新潟中学校校歌を作詞した相馬の『都の西北』は、
 都の西北 早稲田の森に 聳ゆる甍は われらが母校
 われらが日ごろの 抱負を知るや 進取の精神 学の独立
 現世を忘れぬ 久遠の理想 かがやくわれらが 行手を見よや
 わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ わせだ
学生が肩組んで皆で歌うというような場面にマッチする素晴らしい歌詞だと思います。100年以上愛され歌い続けられているのが頷けるところです。さすがプロという印象です。
ただ、あまり教育的なメッセージは込められてはいないように思います。「現世を忘れぬ久遠の理想」あたりに早稲田大学としての理念は感じますが、これは「進取の精神」「学の独立」とともに、言葉を入れるように大学から要求された仕様かもしれません。

新潟中学校、浦和中学校の校歌の作詞者は、いわばプロの文筆家・詩人ですから、教育者としての視点よりも詩人としての視点が強く、平野の歌詞に比べるとメッセージ性は薄いように思います。プロの作詞者なら、生徒の前途洋洋たる未来を讃えて「頑張れ」というようなメッセージを込めた明るい作詞をすることは、ごく自然なことであろうと思います。

(1)で少し触れたように、三条中学校校歌のメロディーは、1901年に成立した旧制一高西寮の寮歌「春爛漫の花の色」を借りてきています。三条中学校の校歌の成立が1905年ですから、一高寮歌の成立から間がありません。ラジオ放送は1925年が初放送、レコードも発売されるかされないかというような時代です。三条中学校の関係者が、どうやって一高の寮歌といった狭いコミュニティー内の曲を知ることができたのでしょうか。三条中学校あるいは新潟中学校の関係者に一高や東京帝国大学の出身者がいたということです。つまり、新潟中学校や三条中学校は東京帝国大学を頂点とするエリートコミュニティーの一員であるということです。さらに、一高に進学することが期待される中学校の校歌に一高寮歌を借りてくることは、「それは良い事だ」という評価を得ても、全く不思議ではありません。

当時、著作権がどうしたこうしたということは、あまり問題にはならなかったと思いますが、常識的には、少なくとも作曲した人や一高・西寮に「校歌に使わせてね」といった断りを入れたでしょう。そういう関係性も有していたということであろうと思います。

平野は、エリートコミュニティーの一員である新潟中学校の教諭時代に、多くのエリートと遭遇したでしょう。理想に邁進するエリート、高慢なエリート、挫折したエリート・・・ もしかすると、そこで平野はエリートの危うさのようなものを感じたのかもしれません。その感覚が、三条中学校校歌を作詞するにあたって、単に生徒たちの前途洋洋たる未来を讃えるのではなく、厳しさや困難を認識させるような文言を敢えて入れたのではないかと思います。

旧制三条中学校校歌の歌詞が、ちょっと変わっている(悪く言えは説教臭い)訳は、作詞者がプロの文筆家・詩人ではなく教育者・研究者であったから、また作詞者本人がエリートではなかったからということでしょうか。(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?