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軽いやつ、ニワトリのやつ。

新しいスニーカーを買った。トリのやつ。

30年ほど この世界に生きているが、
いまだにこのトリのやつのブランド名が読めない。
読めないけれど、今のわたしは買うし使う。

少し前のわたしなら、

手にするものが生まれた背景や
歩んできた歴史を知った上で
自分のもとにむかえいれるべきだ!

といったような思考だった。
少々融通が効かない。そんな感じ。

もちろんベースにある思いというか、
大切にしたいものは変わらない。

でも
〜であるべき!
のような

凝り固まった思考は
この5年10年で粉砕された。

楽になったと思う。気持ちの面で。
こうあるべき論 を
スイカ割りの棒の如く振りかざしている人をみると
少し息苦しそうにも見えてしまうほどに。

新しい日々を歩くのに靴を買って、

読めないブランド名のロゴをひっさげている。

それもまたいいかなと。

ちなみにこの靴は
自分が持っていた歴代のスニーカーの中で
いちばん軽い。

スリッパのまま家を出てきてしまったのかと
一瞬ヒヤッとするほどに軽い。

そんな軽い足取りで帰宅したある夜、

同じマンションの住人に会って、
立ち話をした。

とても好感の持てるコミュニケーション能力に長けた愛嬌のある方だ。

会うや否や、元からあった台本を進めるが如くスラスラとテンポよく、絶え間なく続いていく会話。

あんまりよく知らないひと、なのに、だ。

おぉ、これがコミュニケーションおばけ。
そんなことを思いながら、
彼女の出してくれた船に乗り、
スイスイと会話の海を流れてゆく。

程よいところで彼女に別れを告げ、家路に急ぐ。

そのあとたった数階、階段を登っただけで
わたしのあの軽かった足はずんと鉛を履いたように重くなっていた。

あぁ、もうしばらくは誰とも話したくない。
という思いと、
あぁ、あの人と喋りたい。
という思いの、狭間にいた。

自分の心地よい会話とはちがうところにいたんだなと、ふと気づいた。

わたしのここちよい、は
途切れたってよくて
止まったってよくて
なんなら会話はなくてもいいほどの会話なのだと
ふと気づいた。

まったりと、ゆったりと、思ったことだけ
話したり話さなかったり。

それを共有できるひととしか、
あんまり喋りたくないのだと、

最近感じていたモヤモヤが
やっと言語化された瞬間であった。

オー!社会不適合!

こういう日は早く寝るに限る。

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