
演技と驚き◇Wonder of Acting #8
記録される演技も、記録されない演技も、記憶するための一つのマガジン [Aug/2020]
01.今月の演技をめぐる言葉
これは昭和5年(1930年)の松竹蒲田機関紙『蒲田』の読者投稿欄ですが、今の5ちゃんねるのようななかなか酷いやり合いをしてます。皆さん興味ありますかねこういうの。田中絹代派と花岡菊子派が特にやりあってるような感じです。
— 戦前~戦後のレトロ写真 (@oldpicture1900) August 1, 2020
「1銭5厘の葉書に俳優の悪口書いて出して何が面白いのか」という投書も pic.twitter.com/6ebKkWyBAO
大浴場で入浴中の川津祐介に、洋服のまま飛び込んできた山本豊三が抱きつく場面が有名だけど、後半の津川雅彦と小坂一也の入浴シーンのブルース・ウェーバーとホックニーと小倉遊亀が混ざったような艶かしさがすごい。会津の青年たちの白虎隊への思い入れの強さはちょっとよくわからないけど。
— 丙ウマ・サーマン (@hinoeumathurman) August 3, 2020
アマプラで「来る」観た!私なぜこれを映画館で観なかったんだろうバカバカ!みんな松たか子柴田理恵をベタ褒めしてたけど、私的には黒木華に一番やられた。凄い芝居だ。そして妻夫木くん!天才じゃないか。めちゃくちゃ怖い。私には後半のお祓いシーンより結婚式のシーンのが怖かったぐらいだよ。
— $tina$ (@tinasuke) August 6, 2020
岸井が思うに、演技を考えるにバ美肉はよい対象でした。俳優とVRチャット内で考えた演技の実験をシェアできればと思います。
— PLAYSandWORKS (@PLAYSANDWORKS1) August 7, 2020
「書物では何かを語らずに済ますことができる。(…)唯一嘘をつくことができない場所は劇場です。客席のドアが閉ざされると、俳優は観客と同じ空間に閉じ込められます。対面で会話しているときに嘘をつけば、すぐにばれてしまうのと同じで、劇場で嘘をつくと観客は信じない。芝居は失敗します。」
— Yoko Ueda (@yuvmsk) August 8, 2020
半沢直樹2期、抽象化へ振り切って感傷的に描くことすら放棄してしまったことが結果的に7年のブランクを埋めている感じする(イメージ化された半沢像の提示)。洗練さには目もくれず、異常演技と要点だけを繋いだ脚本のジェットコースターっぷりで押し通している、濃縮された壮大なコント。
— いちろー (@shimesabaclub) August 9, 2020
原作にない部分にまで作りこんで人物に厚みを持たせ、さらにオリジナルのわずかな設定を使い、また「演じないこと」まで用いて、移り変わる心情を伝える俳優、松岡茉優。「メインキャストで出ていれば全部が代表作」みたいな名優がいますが、松岡茉優さんはもうそこにいる名優なのだと感じました。 pic.twitter.com/fZzGgeKQvZ
— 銀色のファクシミリ (@Iin5cjYdKrAm26D) August 12, 2020
→うまく引き出してくれていて、物語の主人公にしていると思いました。そして「桜並木の自転車二人乗り」のシーンが白眉。山﨑賢人のおどけながらも優しい口調の一人語りが、永田の中の「飾らない気持ちと謝意」を浮き上がらせる、名シーンになっていたと思います。 pic.twitter.com/InPNVXCyGa
— 銀色のファクシミリ (@Iin5cjYdKrAm26D) August 12, 2020
『最高殊勲夫人』観た。絶対に着地点が分かるのに、そこに行きつくまでのセリフ回しと、役者のチャームでまったく飽きない95分!女性たちが勢いよくご飯を食べる姿が最高に気持ちが良い。とんかつと瓶ビール、そしてあんみつが無性に恋しくなってしまった。 pic.twitter.com/AH6gWz91KE
— ロッテソンヌ (@610meier) August 13, 2020
アスガル・ファルハーディー『離別』『セールスマン』、面白かった。イラン映画だけど、イランと意識させられてるのは最初だけで、物語と内容の普遍性に惹かれてくる。男性的な正義の倫理と、加害者の哀れさに同情する女性的なケアの倫理の相克、モラルジレンマ。すごい作品。
— 藤田直哉@新刊『百田尚樹をぜんぶ読む』集英社新書 (@naoya_fujita) August 14, 2020
理屈で言えばそうなるが、何よりすごいのは、演技によってそれに受肉させ、人間を通じてジレンマを体感させること。映画ならでは。正義の戦いをする、男性ホルモンとアドレナリン出っ放しの男の演技はどちらもすごい。そして加害者はどちらも哀れだ。
— 藤田直哉@新刊『百田尚樹をぜんぶ読む』集英社新書 (@naoya_fujita) August 14, 2020
前に書いたことがあるが、私は言語を使って他者とともに営む生活は本質的に演劇であるという考えを学生時代から持っていて、デリダをそのことをかなり精密に論証している人として読んだ。
— 永井均 (@hitoshinagai1) August 14, 2020
7.8にインタビューした中村倫也と、7.20にインタビューした岩井俊二が、演技のことを、同じ語句で表現していて、シンクロニシティを感じた。
— 相田 冬二 (@aidatoji) August 15, 2020
その語句を演技について用いるひとは、わたしが知る限り、いまのところ、ほかにおらず、ふたりは、はやく邂逅するべきだと思った。
映画『のぼうの城』で野村萬斎を見てたらあまりにも全ての動作が完璧に制御されていて、人間の役者の中にもの凄く出来の良いロボット役者が混ざってるみたいで怖かった。この人、不気味の谷を逆側に向かって渡っちゃってるよ、と思った。
— トッケイヤモリ (@zatazata) August 23, 2020
映画俳優でスポーツ選手並みに体重を落として身体を絞り込ませる事が出来たのは未だスタローンただ一人。綿密な計画を立てて新作毎にパワーアップしてスクリーンにやって出て来たから非常に面白かった。一心同体で肉体を作り上げたから筋肉組織一つ一つが漲ってる。演技のメリハリも筋肉で補った pic.twitter.com/ad1uzsGFUG
— James (@James81458933) August 25, 2020
引用させていただいた皆さんありがとうございました。
02.【隔月連載】演技を散歩 第三回「壮絶な悲劇のその後を」 ~pulpo ficcion
■最初に注意書きが2つあります。
※1:『荒野の誓い』、『ナイチンゲール』という2本の映画に深めに触れています。先入観・事前情報なしで作品を観たい方(僕がまさにそういうタイプなのですが)は読まない方が良いかもしれません。
※2:記述には気をつけますが「子殺し」というプロットに触れます。ショッキングな描写が苦手な方は注意してください。
【はじめに】
昨秋から今春にかけ、時代、背景、プロット、ともに似た映画を2本観た。『荒野の誓い』と『ナイチンゲール』だ。前者はインディアン戦争後のアメリカが舞台。退役寸前の軍人ブロッカー大尉が収監されていたネイティブ・アメリカンを生まれ故郷まで連れて行く物語だ。後者はブラック・ウォー後のタスマニアが舞台。タスマニアを縦断する軍人一行と、それを追いかけるアボリジニとアイルランド人の物語だ。
野営を張る移動劇、米英による先住民への迫害、あまりにも凄惨な展開、そして非常に対照的なラスト。2本を比較するだけで軽く1、2万字は書けそうではある。(ちなみに1万字というのはこの記事の3倍ぐらいの分量。かなりうっとうしいですね)
今稿でフォーカスしたいのは、家族を皆殺しされた母親の「生」についてだ。その復讐心と虚無さのない交ぜになったさまだ。
【Attack】
物語開始早々、惨劇はおこる。
『荒野の誓い』ではいきなりコマンチ族が襲う。あっけなく夫が撃ち殺される。母ロザリー(ロザムンド・パイク)は、赤ん坊を抱き、2人の娘と裏手に逃げるが、銃口はあっさりと娘たちを捉える。気配に思わず振り返るロザリー。その瞬間、胸に抱いた赤ん坊にライフルの弾丸がぷすりと吸い込まれる。まるで計ったかのようなタイミングで。血まみれの赤ん坊を抱いたまま、岩影で声を殺すロザリーの姿は、観ているこちらも、もうどうしていいのか分からず、ただ太ももをぎゅっと握りしめて祈るだけだった。
『ナイチンゲール』は更に凄惨だ。クレア(アイスリング・フランシオシ)はアイルランドの流刑囚でイギリス駐在軍将校の事実上の性奴隷だ。夫も家も彼の口利きで手当され、しかし刑期がすぎても解放許可書は書いてくれない。いらだった夫が直談判に行く。その現場をたまたま査察に来ていた大佐が目撃、そのことも駄目押して将校の昇格はとりやめとなる。逆恨みした将校は部下を連れ、クレアの家に押しかける。(このあたりからいやな予感しかしない。)案の定、クレアは夫の目の前で強姦される。激高した夫はあっさりと銃殺される。赤ん坊は泣きっぱなしだ。将校の「黙らせろ!」という怒号に、部下がオロオロしたまま赤ん坊を壁にたたきつけ撲殺する。マジ赤ちゃん泣き止んで、俺そこに行って、赤ちゃん外に連れて行くから堪忍。堪忍!とどれだけ心の中で叫んだか。
ただただショッキングである。しかも画が異常なまでに美しい。ロザリーもクレアもあまりにも激しい痛みをなんとか身内に押しとどめようとするその必死の努力だけでかろうじてこの世とつながっているかのようだ。これら子殺しのシーンを、スクリーンのこちらからは何もできない痛ましい無力感とともに観るだけでも、2本を観る価値はある。(ずいぶん倒錯した価値かもしれないけど。)
【DecayもしくはAttack again】
そして俳優の迫力に目を奪われるのが、惨劇後のセカンドシーンだ。
『荒野の誓い』ではブロッカー大尉が、焼かれた民家を発見する。中に赤ちゃんを抱き、カリンバであやすロザリーがいる。連れ出されたロザリーがネイティブ・アメリカン(シャイアン族だが)を発見したときのひっ!という悲鳴が痛ましい。何もかもが薄いガラスでできていて、割れた瞬間、針のような破片となって周囲のすべてを傷つける。そんな恐ろしいまでのvulnerability(脆弱性)が終始漂い続ける。大尉はロザリーに穏やかに接しながら、兵士たちに穴を掘るよう指示する。と、ロザリーはびっくりするほどの大声で止めるのだ。「私の家族の墓は私が掘ります」。観ている僕はこのへんで顔面びしょびしょになっているのだが、手で土を掻き、固い土にスコップをたてて、しかしスコップが通らないロザリーについに、慟哭がやってくる。狂ったようなそれではない、深くて重い、もはやここからどこにも動けないような悲痛な叫び。あんな悲痛な人の姿をこれから先見ることがあるだろうかというロザムンド・パイク渾身の演技だった。
『ナイチンゲール』では、真っ正面からの怒りが胸を打つ。銃床でなぐられ昏倒していたクレアが目を覚まして見るのは昨夜のままの我が家の惨劇だ。赤ちゃんを抱き、将校のもとに直ちに向かうクレア。全身で感情を押し殺したような歩き姿に、観ているこちらの身体がこわばる。将校はすでに名誉回復のため出発している。女中長に罵声を浴びせると、とって返して憲兵隊に向かう。憲兵はまともに取り扱ってくれない「将校殿が夫と子どもを殺した?どこに証拠が?」「この私の子どもが証拠よ!」理不尽なこの世界への怒りが僕にもどんどんと溜まる。クレアは流刑囚仲間に将校を追う手助けを求める。しかし断られ、行き場のなくなった絶望と憎しみがクレアをいっぱいにする。当てられて僕の気持ちが破裂しそうになったまさにその時、怒気をかみ殺してクレアは友人に請うのだ。「夫と赤ちゃんを木の下に埋めて。二人で抱き合っているようにして」。ああ、生きて帰るつもりがないのだ。彼女の決意がずしんと腹に落ちてくる。同時に、ここからの復讐行に身震いがする。
【Sustain】
ここから映画は、登場人物たちとともに、荒野をまた原生林を迷いながら進む。二人の女性は似た、しかし、別の道をたどる。ロザリーは、少しずつ落ち着いて行くかのようだ。クレアは時がたつほど夫と子どもの幻にうなされ傷が広がっていくようだ。ところが、落ち着いていくかにみえたロザリーは冷静さの果てに惨劇に手を貸す。シャイアン族の土地を自らのものだと恫喝に来た白人と銃撃戦を繰り広げるのだ。ここでのロザリーはまるで兵士のように冷静だ。一方クレアは復讐を完遂できない。将校の部下を激情にまかせ惨殺した後、もはや誰もあやめられなくなってしまう。それでもアボリジニと将校を追うクレア。ただ、将校に会うことだけが今、彼女を生につなぎ止めている理由であるかのようだ。
もう死んでもいい。生きている理由がほとんどない。それでも生きている人をロザムンド・パイクとアイスリング・フランシオシは、それぞれの仕方で体現していた。見え方の差異が演技なのではなく、今画面の中にいること自体が演技であるような演技。脚本や演出と不可分の表現を引き受け、かろうじて生きていることで、真に生きることの意味を考えさせてくれた二人の俳優に感謝しかない。
【Release】
さて、実のところ僕たちはパートナーや子どもが目の前で殺された人を間近に観ることがまずない。ましてや、その後を継続して見続けることなど、フィクションの中でしか体験できない。そこにリアリティの参照先はない。何がリアルで何がアンリアルなのか検証のしようもないのだ。そんな極限でも演技は成立する。そのとき俳優が体現しているのは、フィクションの中だけに住まいする、フィクションそれ自体によって評価軸が決まる、一つの仮説なのだ。そして、よくよく考えれば、演技というものは、そのような仮説の束からなっているのだ。
【Closing】
と書いておいて最後に落とす。実は目の前で家族を殺された人はどこかに確かにいる。更に言えば、家族が殺されることが日常となってしまうことすらありえる。演技という表現は、その「想像の出来なさ」のレッスンでもある。もちろんレッスンには終わりがある。作品は必ず終わるから。そして、おそらくそれは救いなのだ。
だから、「想像の出来なさ」の「終わらなさ」をほんの少し体感するために、きっと、映画のクレジットは存在するのである。†††
03.今月の「Wonder of Act」(編集人の一押し)
『もち』観ましたか?私は大好きな映画でした。確かにそこに作り手と演じ手がいた、その記録・証しとしての映画。そういう映画でした。主人公が「中学生」すぎ!(実際中学生なのですけど)と感動していたところ、小松真弓監督のインタビューを発見しました。
ー主人公のユナを演じた佐藤由奈さんとの出会いについて
(『鶏舞』という神楽を復活させている中学校の)歴代の生徒の親御さんたちが手づくりし、修繕してきた鶏舞の衣装を着て、校庭で神楽をひとりで踊ってくれました。
その姿が野生動物のようであまりにも美しく惹かれました。
土地に生きている感じがすごく強かった
ですよ!神楽を踊る佐藤由奈の美しさ!(ボルダリングをする小寺さんの美しさと同じ世界のものです)
この他にも土地の記憶について「“自然と人”、“人と人”のつながりを残そうとした人々の“やさしい暗号”の記録を撮っておけば、仮にその文化が消滅したとしても映像には残っている。」など、興味深い言葉が沢山並んだインタビューです。
04.こういう基準で言葉を選んでいます。その他
■舞台、アニメーション、映画、ドラマ、etc、人が<演技>を感じるもの全てを対象としています。私が観ている/観ていない、共感できる/共感できないにかかわらず、熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。皆さんからのご紹介、投稿もお待ちしています。投稿フォームも作成しました。投稿フォームは下のようなイメージです。
■第9号は9月27日発行です。次号はマチさんの隔月連載がお休みの予定です。これを期にちょっと書いてみたい!という方。単発記事でもかまいません。是非ご連絡ください。
■連絡先:
Twitter/@m_homma 、@WonderofA
Mail/pulpoficcion.jp@gmail.com
05.後記
実は8/17の『ストップ・メイキング・センス』からこっち、記事を書くために『荒野の誓い』と『ナイチンゲール』をレンタルと配信で観た以外映画を観ておらず、非常に渇いた状態です。8月には青年団『銀河鉄道の夜』、金剛流能楽『田村』と非常に考えさせられる舞台にも触れたのですが、うまく本誌に盛り込めませんでした。自分の言葉と編集との兼ね合い、難しいものですね。あ、あと、なんだかU-NEXTの宣伝みたいになっていますが、もちろんアフィリエイト等は行っておりません。念のため。それでは9月号でお会いしましょう!