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「読み聞かせ」を聴く

久しぶりに新しい!と思う舞台に会って、その新しさをうまく言えないまま感想を記します。

大人の読み聞かせ
『恋愛のあなた(たち)・断章』
第一部 monologue 構成・演出 川口智子 出演 稲継美保
第二部 dialogue  ファヨル入江容子×稲継美保×川口智子
2024/5/28(土)19:00@PARA神保町

舞台の中央に大きなテーブルエリアがあり、その上に雑貨が置かれている。
テーブルの周りには4脚の椅子があり、ホストの位置に置かれた椅子の後ろには、通常この空間が舞台と想定しているエリアがある。残りの三脚の並ぶテーブルの三辺にそって、1列でぐるり椅子が並べられ、観客が座る

観客は受付で薄い紙でできたカードを渡される。カードには数字が書いてある。私は20番だった

時間が来て、俳優が登場する。朗読をし、最後に少し大きな声をだす。それからこの舞台のルールを説明する

「どなたでもいいので、カードを持って私のところに来てください。カードの番号はテキストを表しており、それを私が読みます。時間は全部で小一時間となります(短針と長針がどの数字の位置に来たら、というような言い回しをしていたと記憶する)」

「大人の読み聞かせ」はこのように始まった。朗読あるいは遂行されるテキストはロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』を手摺に編まれている。バルトのテキストは例えば、こんなだ

-言うに言われぬ愛: 書く Écrire
愛について書こうと望むのは、言語のぬかるみ、言語が過剰にして過少であるところ、過度に豊かで (自我の無限の拡大と情動の氾濫のせいで) 過度に貧しい (愛が言語を矮小化し平板化している諸コードのせいで) あの狂乱の地帯に、立ち向かうことなのだ(抜粋)

構成・演出家はバルトのこれらのテキストの表題を借り、そのテキストの手触りを意味を別のテキストに変換した80の断片を用意している。別の作家のテキストであったり、歌であったり、動作であったり、自身の言葉もあったのだと思う

最初に手を挙げたのは、どうやら、第二部Dialogueのゲストの方だったらしい(間違っていたらごめんなさい)。たしかノアの箱舟に紛れ込んだ悪魔がネズミに姿を変えて船底をかじる。みたいなテキストであった。淡々と語られたのち、読み手は少し考えてペンを取り、紙に書きつけた。そして、一言二言添えて、その紙を観客にわたした。観客はこれは、という少しのためらいの後、いま読んでもいいか旨、演者に問い、書かれたテキストを読み上げた。「シェアしたほうが良いと思った」のようなことを言われたと記憶する

読み聞かせはこのようにして始まった。十数人が手を挙げただろうか?シンプルにテキストが読まれるときも。二人だけで黙読するときも。読み上げではなく、化粧品を使ったエチュードらしきもの(私は完全に演者の背中側に座っていたので実際に何が行われたかは全く見えなかった)の時もあり、読み終えた後も、登場した方に机の上のものの場所を一回だけ変えたり、香を焚いたり、ポストカードのような絵をこっそり見せたり、そのようなことが行われた

儀式性は感じなかった。正確に言うと何かが執り行われているが、そこに「秘儀」性はなかった。とくにアゲることも、重々しくすることもない演者の身体がそれをさせなかったのもある。観客席がテーブルを「コの字」に取り囲み、二人の間で行われている「読み聞かせ」が多くの視線にさらされていたことも預かっていただろう。通常の劇場のように客席が一方向を向いていれば違っただろうし、私は途中、二方向からの視線にさらされる能舞台のことを何度も思い出していた

読まれるテキストは、難しめのものが多い。華やかな修辞、リアルな感情に満ちているというよりは、正確な理路や描写の定着に重きをおいた文章。語られる言葉としてよりは読書される言葉として想定されたような文章だ。だからそれほど文意が取れたとも思えず、また、感情が昂ったり、情景が目に浮かんだりすることはなく、目の前の読んで(演じて)いる人と読まれて(演じられて)いる人の、日常ではないのだけど、フィクションでもない姿とともに、例えば鴨川の流れを見ているように見ている。大川(私の好きな大阪市内の川)ではない。あのように滔々と流れる水面ではない。もっと小刻みに、しかし神経症的ではなく穏やかに流れる川だ。でも小川ではない

わたしも手を挙げた。4,5番目だろうか。わりと早い回である。20番のテキストは、年老いた人が床に横たわっている話だった。薄れつつある意識の中で、陰口を言われているような、疎外感が、それ自体も少し遠ざかって、加齢の曖昧の中に全て溶けていく。そんなテキスト(第二部でそれがドストエフスキー(あれトルストイだっけ?)だと聞いたのだが、聞いた今でも心当たりはない)

テーブルの横の椅子に座り、実に集中して聞いた。時折、演者(読み手)の顔を見た。しっかりこちらを見つめる目は、しかし、全く威圧的ではなく、ひたすらに言葉を対象に送り届けようとするフラットな目だった

舞台の劇伴でバイオリンを弾く人の目を間近で見たことがある。舞台を見ながら、音楽を作り出す目は、一切の自己表現意志のない、ただ、目の前の舞台のために、自分がミュージックプレイヤーと化している、そんな、たとえば、縫いぐるみの目の美しさのような美しさだった

そうした目を久しぶりにみた。

座席に戻ってから、ああ、さきほど自分の体験したあれが、いま行われているのだな。と思いながら、少しうっとりと反芻しつつ、声を聴いた。

ちょっと大げさなのだが、ルソーが『演劇に関するダランベール氏への手紙』(これは多分に政治的な文章だったらしいけど)で書いた「広場の真ん中に花をおいて、お互いがお互いを見合う劇」がこんな形で、日本の首都の夜に実現しているのだなあと、あたたかい身体に冷たい風が吹いたような感動があった

一部の最後のすこし気恥ずかしくなるダンスや二部のdialogueといいつつアフタートークをdialogueと名付けるセンスと、その最後に演者の披露した「星の流れに」の美しさ。にも触れたいけれど、まずは「読み聞かせ」で感じたことを記録したかった

なお、わたしは言葉をもらった。郵便はがきの裏に書かれたそれは、バルト自身の言葉なのかしら?「誰かに出してください」と言われたけれど、出したい相手は、今はもうこの世にいない。感傷的ですみませんけど

2024/5/25

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