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ひかりに満ちあふれた手持ちカメラ 『殺さない彼と死なない彼女』の素晴らしさ 2

『殺さない彼と死なない彼女』はほとんど全編手持ちカメラだ。撮影は野村昌平、これが初めての長編劇映画とのこと。素晴らしい撮影だった。

手持ちカメラは別名鼻持ちカメラともいい(あ嘘嘘)、取り手の自意識が前面に出たときはみてられない結果に終わる。ね、こんなテンポ(もちろん1で書いた座組の内在的リズムとは関係のない監督やカメラマンのたいていの場合、リズム音痴なそれ)どう、この画角って斬新じゃね、ねねねリアルな映像とれたでしょ。カメラの目線が映画に常に記録されるもう一人の主体である以上、それは仕方のないことだし、というか、だから映画は面白いのだが、まあ、独りよがりの手持ちカメラの多いこと多いこと。

この映画の場合どうか。カメラは物語と表情と風景を納めきろうとする。まずはそれに徹する。繰り返しになるけど、入念な画角導線設計と、丹念なリハーサルが繰り返されたのに違いない。

その結果、何が映ったか。計算とリハの成果か?否。断じて否。そこに映ったのは光だ。西日、空の明るさ、夜の公園の光、不発に終わる花火の燃え損ね。柔らかく外からの光を招き入れた室内のほの明るさ。

照明部をおかず、全て現場の光だけで撮影された映画がどれくらいあるのか僕は知らないけど。この映画はその賭けに成功した。緻密に計算された物語が人工物のようにではなく、情景のように描き出されるフィルムが誕生した。

フランス文学者の野崎歓は大学での映画の授業で、最初期の映画、金魚鉢を下からとった1分に満たない映像を学生に見せ、こう言ったそうだ。

「これは最初期の映画であって、まだ筋立てもなければ、目を引くような舞台装置もない。ただ金魚と水を捉えた一分間弱の光景が記録されているだけである。けれども、これはすでに充分に美しい。そしてこの美しさを理解できるものだけが、映画を愛することができる。」(映画とは何か 三浦哲哉 あとがき)

『殺さない彼と死なない彼女』も、この金魚鉢のように撮られている。光と形とその移ろいが、人物たちと同じように記録されている。怒濤の終盤、ゆれる鹿野ななの赤いスカーフとコンクリートを流れる赤。

物語がちみつに組み立てられ、言葉は慎重に選ばれ、俳優たちはその中を生き、そしてそれを、計算のしようがない風景が取り囲む。映画は、その全てを確かに記録した。確かにみんながここにいた。

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