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演技と驚き◇Wonder of Acting #19

タイトル画像:仙厓「犬図」
演技を記憶、するマガジン [July 2021]

01.雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道)

第九回:いつか見た風景のような。 ~箕山 雲水

まいった。30分弱の短い作品がどうにも心から離れない。今月は36年ぶりで話題になった仁左衛門丈と玉三郎丈の『桜姫東文章』のことを書こうと思っていたのに、どうしても同じ月に見た『夕顔棚』が気にかかってしかたないのだ。この1年、歌舞伎座で見た作品は濃厚で心に残るものがいつも以上に多かった。それなのに今、『夕顔棚』が私の心の大半を占めている。

30分のうちのほとんどの時間、お婆さん(役名は婆、菊五郎丈)とお爺さん(おなじく爺、左團次丈)しか出てこない舞踊なのだ。風呂上がりのお婆さんとお爺さんが夕涼みしながら酒を酌み交わしていたら遠くから盆踊りの音が聞こえてくる。昔を懐かしんで踊っていたら若い男女(巳之助丈、米吉丈)がやってくる。ひさしぶりの盆踊りに浮き立つ心のままに踊る若い人たちを見て若い頃を思い出すお婆さんとお爺さん。やがて若者が村人を引き連れて戻ってき、音頭をとってくれとお婆さんとお爺さんを誘って皆ではけていく…起こる出来事といえばそんなものなのだ。お婆さんとお爺さんの日常にヒョイと首を突っ込んでそれを眺めているような、たいしたことは何も起こらない30分。それなのに、終わった頃にはマスクの中が涙ですっかり濡れていた。

昭和26年に初演され、江戸と思しき風景に「長く世の中が悪かった」など戦後の時世を重ねているから、それがコロナ禍の今と重なって心に沁みた、もちろんそれもあるだろう。しかし、それ以上にあまりにも「普通の」日常がそこにあった。舞台、特に歌舞伎は非日常を体験するために見る、と知らず知らずのうちにくくっていた自分にとっては、静かで強烈な衝撃だった。

舞台の上にいるのは浴衣を着て髪を結った、どこからどう見ても昔の人で、動き方も話し方も紛れもなく昔の人。それが縁台に座って夕涼みをしている光景はたしかに非日常かもしれない。私くらいの世代になると縁台すら現実の生活の中で見たことはないから、それ自体が日常だといったら嘘になる。それなのに、昨日見た光景のような、幼い日の記憶のような、そんな気にさせられる不思議な芝居。特にお婆さんはいまだに演じていたのがあのいつもすっと背筋がのびた格好いい菊五郎丈とは思えず、実はどこかのお婆さんを連れてきて舞台に乗せたのではないかと疑うほどである。非日常を日常と感じさせるさすがの技、というのだろうか。あとから配信で何度も見直してみても全く菊五郎丈は感じられず、ただお婆さんがそこにいる。

そうか。書いていてふと気づいた。舞台はただ単に「非日常」を体験する場では、そもそもなかったのかもしれない。「非日常」をより「非日常」にして、さも「日常」のように現出させる。『夕顔棚』であれば私たちの日々から消え去った盆踊りや縁側での夕涼みが、音楽や踊り、衣裳、鬘、それに景色によってこの世のものとは思えない美しい様相で舞台の上にあるのに、「こんなことあった」「あんな日があった」と思えるような瞬間が散りばめられていて、だから懐かしい。TOKYOオリンピックの開会式で少しだけ披露された『暫』だってそうだ。あらすじは『歌舞伎演目案内』あたりに詳しく書いてあるのでご参照いただければいかに荒唐無稽かがわかると思う。そんなバカなとしか言いようのない「非日常」のストーリーが、とんでもなく大きな袖(さすがに昔の人もあんなものを着ては歩かないし歩けない)の主人公、悪役の髪型や化粧も大袈裟、真っ赤な体で腹を出し、かぼちゃパンツのような衣裳を着た人たちや鯰にしか見えない人なども並んでいてもう「非日常」のオンパレードで飾られる。それなのに、描いているのは今の自分たちにも共通しているようなテーマなのだ。だから、これが「日常」と重なって見えて共感し、そこにカタルシスが生まれる。

役者と演出(もちろんその中には脚本、音楽、衣裳、美術、大道具、小道具、床山、履物などすべて含まれる)によって「日常」につながるテーマが敷かれ、「非日常」としてまるで自分たちに関係ないようなふりをして提供されるから、まるで祭りを見るような感覚で気軽に取り込まれ、そのうちにこちらの心のうちの日常に刺さって感動する。そんな文化なのだ。

歌舞伎座の再開からまもなく1年。いかにその文化に救われてきたのか、いかに自分自身にとって必要なものであるのかを実感する1年だった。これからどんな日々が待っていようと、あそこで繰り広げられる日常と非日常があれば生きていける、今はそんな気がしている。

02.今月の演技をめぐる言葉

鮫順 @tensame 元ツイート>
加トちゃんケンちゃんを今観ると、志村けんが大きな笑いを取る為に加藤茶がどれだけサポートしていたか、よく分かる。加藤茶は志村けんの為に自分を1にも100にも出来るのだ。

引用させていただいた皆様ありがとうございます。
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03.演技を散歩番外編。短期集中連載「演技を遠足」 ~ pulpo ficcion

2.感情表現としての演技とそうでない演技

<承前>
先月『養老』という能を観ました。澄んだ酒の湧き出す「養老の滝」が舞台。この奇跡を愛でるべく観音菩薩の化身たる山神が舞うという神能です。舞が非常に神楽的でした。能の舞の基本系は、手を大きく広くゆったりと使う。あるいは、力強く足踏みする。あるいは、きっぱりと腕を指し示す。など筆で大きく描いたような動きが多いのです。ところがこの能の舞は、とても、こまかかった。手数の多く、小刻みな舞がとても華やかでにぎやかな祝祭感をもたらしていました。シテは今井克紀。今井家七代目が非常な軽みを持って舞台をせわしなく動きまわります。

そして、能独特のあっけない終幕がやってきます。舞台の上ですっと舞いやみ、神の身体を解除すると、シテその人が息を切らせているのです。感動しました。同時に、そこまで全く感じていなかった演技性を突然強く感じました。このシテが山神を演じたのだ。という事実が突然リアルに立ち上がってきたのです。突然生身の人間が現れていたものだから、それまでのにぎやかな舞が、とてもフィクショナルなものとして一瞬にして反芻されたということでしょうか。

踊りを見ている最中、演技性を感じることは、あまりありません。もちろん「演技」を持ち込んだ振り付けもありますから、そういうのはちょっとわきに置いておきます。踊りを見るときは身体操作それそのものを楽しんでいる。それは演技ではない、ということでしょう。ということは、演技は単純な身体操作にはないということでしょうか? 

浮かんでくるのは「演技は感情を伴うものだ」という答えです。もっともらしいです。でも、とすると踊りの激しさに息切らせた男性の立ち姿に「演技」を感じたのはどういうことでしょう。「疲れた」という感情がそこにあったからではありません。目の前で行われていたことが「フィクション」であったことが、生々しい身体によって逆照射されたからです。

ここ、ゆっくり考えてみたいところです。

前回、スケバン刑事の演技に感動したことに触れました。あの棒台詞には「俳優の感情表現に共感・感銘して心打たれる」こととは別のなにかが存在していました。

一方、というかもちろん「俳優の感情表現に心奪われる」ことがあります。今思い出す例を挙げると、昨日観た『東京リベンジャーズ』。主人公花垣武道(北村匠海)が、タイムリープし10年前の自分に戻って、自らのヤンキーっぷり、イキリっぷりを「あー、おれ、こうだったわー」と改めて味わうシーン。凡庸な演じ手なら「黒歴史」感を塗りこめてくるだろうところ、自嘲するような羨むような懐かしさと愛情のこもった内省を、しかもあくまで徹底的に力を抜いて表現する。感激しました。まさに超絶技巧でした。

この感激と、『養老』の劇終で感じた感激と、スケバン刑事に感じた感激と、それは果たしてすべて「演技に対する」感激なのでしょうか?だとするとそこに何が共通しているのでしょうか?

一度、ぶらぶら歩いてきた道を整理しましょう。

そもそも、歩き出しは「大衆の源像において演技はどこにあるのか」という問いでした。

つまり私は、私たちが演技を感じるというのはどういうことかを問うていたのでした。

そして、自分が演技を強く感じるものの例として「棒読み」を挙げ、それはいわゆる「演技」とは違うと思われると書いたのでした(先回の復習)。

また、能楽を観て、ここでもやはり、一般の言い方では「演技」と呼べないものに演技性を感じたのでした。

ところで、ここから「二種類(あるいはもっとたくさんの)演技があるのです」という答えにはならないのです。なぜなら私は観客の立場で演技を考えたいからです。受け手の心の中で「演技」という像を結ばせるものは、いったい何なのかと考えたいからです。

表にして、答えが出るわけではないですが、少なくとも私のこだわりたいことは伝わったかと思います。そのこだわりが無意味なものである可能性も含めて、もう少しうろうろしてみましょう。(次号に続く)

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04.こういう基準で言葉を選んでいます(といくつかのお願い)

舞台、アニメーション、映画、ドラマ、etc。人が<演技>を感じるもの全てを対象としています。編集人が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは問うていません。熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。ほとんどがツイッターからの選択ですが、チラシやミニマガジン、ほっておくと消えてしまいそうな言葉を記録したいという方針です。

引用中のスチルの扱い
引用文中に場面写真などの画像がある場合、直接引かず、文章のみを引用、リンクを張っています。ポスター、チラシや書影の場合は、直接引用しています。

タイトル画像を募集しています。>

自薦他薦関わらず、演技をめぐる言葉を募集しています。>

05.執筆者紹介

箕山 雲水 @tabi_no_soryo

兵庫県出身。音楽と時代劇、落語に浸って子ども時代をすごし、土地柄から宝塚歌劇を経由した結果、ミュージカルと映画とそして歌舞伎が三度の飯より好きな大人に育つ。最近はまった作品はともに歌舞伎座の2021年2月『袖萩祭文』、同3月『熊谷陣屋』、ミュージカルでは少し前になるが『7dolls』、『ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812』、マイブームは日本舞踊。

pulpo ficción @m_homma

「演技と驚き」編集人。若い頃に芝居していたせいで、多分演技への思い入れがけったいな風に育ってしまった。それはそれで仕方ないので精神的圏域を少しでも広げたいとこのマガジンをつくった。今年は20年ぶりに芝居つくりました。9/5(日)大阪市内で試演会を実施予定。

06.編集後記

夏、年々脱水症状的なしんどさに見舞われることが多くなり、加齢をめっちゃ意識させられます。読者の皆さんも水分補給に気をつけてください。演技、を主題にマガジンを作って、じゃあ、演技って何だっけ?という展開になるのは、一度通る道なんでしょうね。短期集中連載、もう少しお付き合いいただければと思います。次号は8/29(日)に発行予定。あ試演会の一週間前ですね。バテずに乗り切らなくては。ではまた!

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