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『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』が想像以上に能だったので、もっと能として体験したかったという感想

観劇 時:2021年6月30日14時30分 於:穂の国とよはし芸術劇場

シテがいてワキがいてアイ狂言がいた。囃子方と地謡があり、橋掛かりもしつらえてあった。想像以上に能そのものの演劇形式で作られていた。

タイトルとは逆に「敦賀」「挫波」の順で上演された。おそらく興行的にはこれが正解だったのだろうけど、僕は逆の順で見たかった。以下、そういうことを書く。

¶ 興行的にはこれが正解だと考えたこと

敦賀を経て、アイ狂言というものの役割が観客にもはっきりとわかった挫波において、片桐はいりは観客の貪欲な視線をくまなく受け止めてアイを演じていた。メインホールを埋めた観客の貪欲さは、それ自体が濃密な劇空間の一部だった。チェルフィッチュ流の身体操作が、投げつけられる欲望をキャッチする動作に見えた。ひとつたりともとりこぼさない片桐はいりは圧倒的な舞台役者だった。

敦賀を経て、能楽の劇構造が観客に共有された後の、挫波におけるキリ(クライマックス)の明快さ。七尾旅人(地謡)と楽隊が繰り出す、呪いでも寿ぎでもあるような楽曲を背景に、森山未來の関節が肉体を微分する。その動線が空間を積分する。差異化と統合を交互に繰り返し、ぎゅるんぎゅるん盛り上がっていく素晴らしいライブ。

貪欲な観客は熱狂し、素晴らしいものを観た満足と共に劇は終わった。私も大満足した。

¶¶ ないものねだりかもしれないが

で。で、である。素晴らしいライブだったのだけれども、しかし、それは森山未來、七尾旅人、楽隊のタレントに負うところが大きかったのだ。ライブパフォーマーの圧倒的なスキルに触れて、何を贅沢な。と自分でも思うのだが。思うのだが、能楽という劇の可能性は敦賀にあったと、私は思う。

二つ+α、ある。

一つは石橋静河のキリ。パンフレットに「能の最後の舞はどれも同じ舞なのだと聞いて納得がいった」という言葉があった。それがどういう意味なのか今でもわかってはいない。ただ、ステージ直後に読んだその言葉には非常な納得があった。彼女は、固有性を持たない自らの身体を言葉=謡に向けて、懸命に差し出していたからだ。未来永劫終わらないというイメージ、配管とナトリウム漏洩のイメージ、見ようによってはそうしたイメージをえらく直截にフリ付けした舞だった。しかし、後半、森山未來とは異なり、石橋静河のキリは横に横にどんどんと広がっていく。その広がりと拮抗するように回転する(物理的にかなりのボリュームで)。たった一つの能楽の完成だけを目指した、それ自体はひどく普遍的なコレオグラフィーとしての回転。だからあれは、ダンスではなく演劇だったのだ。石橋静河はパフォーマーではなく能楽者だったのだ。だからこその、ハケの潔さ。翻って強烈にフラッシュバックするデで見せた「開ける」しぐさ。

もう一つは栗原類の棒立ち。石橋静河を前に、彼はまるで杭のようだった。その棒立ちは訓練されたものだった。稽古を経て、何もしていない(ように見える)ことを練り上げていったのだ。能楽におけるワキの役割、観客の代表でもあり、メタの審級でもあるようなワキの生のままの姿を、ピンのような栗原類が再発明していた。まだ事態をうまく呑み込めていない観客の眼差しが時折彼をかすめ、しかし、からめとられることはなく、したがって、どこに集中することもなく、能楽にふさわしい抽象空間の一部となっていた。

プラスαはシナリオである。敦賀の方があっけらかんとしている。やはり挫波はまだ近いのだ。もちろん、その近さを引き受けた作家は素晴らしい。素晴らしいのだけど、何が鎮魂され、いかに去っていくのか、敦賀の明快さには及ばなかったと思う。だからこそ、熱狂でまとめられたのだとも言えるし、その混沌こそが演劇だとも言えるけれども。

まとめると、敦賀は稽古によって作られた能楽であった。挫波はメジャープレーヤーのガチンコ勝負であった。そして、私は一人の能楽ファンとして、敦賀で終幕する『未練の幽霊と怪物』が観たいと感じたのだ。

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