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演技と驚き◇Wonder of Acting #27

タイトル画像:『空色』ワシリー・カンディンスキー(Василий Васильевич Кандинский)
演技を記憶するマガジン [ March 2022 ]

00.今月の演者役名作品インデックス

村上淳:ヨシダヨシオ、菜葉菜:ミホ『夕方のおともだち』
間宮祥太朗:芦田春樹『ファイトソング』
川津祐介:須田菊夫、田中絹代:フミ『この天の虹』
上白石萌音:松永カナ『溺れるナイフ』
中島歩:亮介、さとうほなみ:一花『愛なのに』
芦田愛菜:道木怜南(鈴原継美)『Mother』
山本奈衣瑠:町田亜子『猫は逃げた』

01.今月の演技をめぐる言葉

メインコンテンツです。編集人がであった「演技についての言葉」を引用・記録しています。※引用先に画像がある場合、本文のみを引用し、リンクを張っています(ポスター・公式サイトトップ・書影など除く)。

引用させていただいた皆さんありがとうございます †

02.雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道) 第十七回:現代に生きる歌舞伎、そして『ウエスト・サイド・ストーリー』~箕山 雲水

「新歌舞伎とはいうけれど」ちょうどそんなことを考えていた。京都・南座での『番町皿屋敷』を観てのこと。大正時代に創られたその作品は「新歌舞伎」と呼ばれるジャンルに分類されている。明治以降に、座付ではない作家によって書かれた作品群で、歌舞伎というよりは新劇、たとえばシェイクスピアを観るような台詞まわしのものが多い。今回の南座公演は花形歌舞伎で、若手の俳優が主演をつとめる公演だった。ちょうど登場する主人公と同じような年頃の人たちが演じる『番町皿屋敷』はみずみずしく、いつも以上に役の心情が観ているほうの心にも刺さって思わぬほどの感動を覚える。ただ、そうはいっても現代の物語ではないし、何度も演じている人たちの指導も入っての上演だ。新歌舞伎というけれどもはやこれすら考えようによっては古典なのだろう。すると現代に生きる歌舞伎とはどういうものを言うのだろう。結論が出ないまま、なんとはなしに映画を観に行った。いや、なんとはなしに、というのは語弊がある。渋々嫌々、映画館に足を運んだ。『ウエスト・サイド・ストーリー』である。

絶対に観に行かない。公開が決まった当初からそう決めていた。もういまさら『ウエストサイド・ストーリー』を観る必要もないだろう。予告編は記憶の中にあるあの作品のイメージとどうも違っているし、そもそも好きな作品というわけでもない。ただ、そうはいってもミュージカルのファンを名乗る以上は観ておかなくてはならないだろう…そんな気持ちだった。その私が、はじまって早々「ああ、失敗した」思わず心の中で叫んでいた。なぜ、もっと早く観なかったのだろう。これは驚くほどの良作だ…!

はじめから終わりまで鳥肌と涙をとめられなかった私は、数日のうちに1961年版の映画を見、気づけばもう一度、映画館にいた。ひさしぶりに見た1961年版は、あいかわらず好きとは言い切れないながら、圧倒的なエネルギーに溢れる作品でこれには驚かされた。ひとりひとりの感情が痛いほど伝わってきて、それが電流のように体を通り抜けていく。なんだ、やはり音楽が良いせいか、だからひさしぶりにそれを浴びて心が動かされたのか…そんな風に考えながらの2度目の映画館。震えた。

そうだった。1度目に観た時から不思議に思っていたのだ。アクションやA-ラブ、ビッグ・ディール、ロザリア…あの人たちはどこに出ていただろう。トニーはどんな顔をしていただろう。ベイビー・ジョーンははじめの記憶こそあるがあとはどこにいただろう。これこそが令和の『ウエスト・サイド・ストーリー』の大きな特徴だった。彼らの“顔”が、1961年版であれほど大写しになっていた一人一人の表情が、冒頭のダンスシーンからほとんど映されていないのだ。かわりに、街の人たちの反応が彼らを表していく。プエルトリコ人のシャークスだけでなく、同様に居場所がないジェッツの少年たちの姿を。名前では認識されず(ラスト近くのあるシーンで、私は小さい時からあなたたちの名前を知っているというセリフが心に刺さる)、集団として嫌われ、再開発によって居場所を追われようとしている人たちの姿を。トニーとマリアという個のキャラクターが運命によって引き裂かれていく非常にパーソナルな物語だったものが、そのことによって急に時代の、それも今の時代の物語になった。誰か特殊な人間にだけ起こるどこかの国の御伽噺ではなく、この時代に生きる私たち全てに突き刺さる物語になった。

“Gee, Officer Krupke”は、巡査を茶化す歌からいわば“親ガチャ”の歌になった。こんな境遇だから不良になっても仕方ない、そのことが少年たちを縛り、彼らを“喧嘩”という戦場へと駆り立てる。自分たちの居場所を守るため、という大義名分のもとに。

一方の女たちは、私たちはここで仕事し、自分だけでなく仲間も食わせるんだ、ここが居場所なんだと力強く言ってのける。夢見る夢子ちゃん的代表曲だった“America”と“I Feel Pretty”がこの力強いテーマを背負った歌になったのを聞いた時、衝撃と共感と感動で、涙とともに変な声が出た。女たちは自分たちの居場所を自分で決めているから、相手と戦って居場所を勝ち取る必要はどこにもない。なんと自由なんだろう。たとえ今いる場所が奪われたとしても、彼女たちはきっと力強く生き続ける。誰かに定められた概念ではなく、今自分のいる場所が、彼女たちにとっての居場所なのだから。そこには喧嘩や戦争は存在しない。“America”や“I Feel Pretty”が輝きにあふれていたように、そこは輝きにあふれた楽園なのだ。一瞬、“Somewhere”を奏でた電車がトニーとマリアを楽園のような場所に運び、そこで歌われる“One Hand, One Heart”があまりにも響くのは、それが恋の歌ではなく、マリアからトニーへの「居場所は奪いあうものではなく、自分の心が決めるもの」、そんな風に生きれば死さえも自分たちを分かちはしないという力強い呼びかけだからだろう。そう、私は感じた。

実際は、直後の“Tonight(Quintet)”で描かれたように、その幸せの側で重低音のように戦争は進んでいるし、楽園にも足を踏み入れてくる。誰もが自由に生きることのできる理想郷などないのだろうか…今回の作品ではじめて登場したヴァレンティナによる“Somewhere”が、今の時勢もあいまってあまりにも残酷に心に響く。

あのかなしい結末を迎えたあとのエンドロールでは、人影が消えた街に朝が来て、何事もなかったかのように眩しい光が街を包んでいく。そこに、再開発を表すような影が通り過ぎていくのを見ながら、こうして時は流れていくのだ、とダメ押しのように泣かされた。いつかは消えてゆく命の中で私たちは何を中心にして生きていくのだろう。変わりゆく風景を信じればいいのか、それとも慣れ親しんだ光景を大切にすればいいのか、どちらが正解なのだろう。実際には正解なんてものはどこにもなくて、アニタやマリアが歌ったように、それをどう自分のものにして生きていくのか、ということでしかないのかもしれない。そんなことを考えながら、ふと、冒頭の疑問を思い出す。そうか、どちらでもいいのか、と。『ウエスト・サイド・ストーリー』も『番町皿屋敷』も現に目の前に生きていて、それに心動かされる自分がいる、それでいいのだ。

現代の課題を入れ込んだリバイバルでも、形の上では変化をしていないように見えるやり方でも、どちらでもいいのだ。今、この瞬間に生きる人たちによって演じられ、創り続けられる限り、それは現代に生きる作品になる。どういう名前で呼ばれ、いつの時代に生まれ、どういう形で演じられようが、自分の心に響いた、それだけの事実で十分だった。自分の生き方に重ね、勇気をもらい、時には絶望し…それぞれの時代に生きる人たちがそうして自分のものとして生かしてきてきたから、それを創り出した人たちがいなくなっても、作品たちは生き続ける。そういう作品だけが、生き残ってきた。

生きている限りこちら側は多少なり変化を続けるわけだから、いつでもその作品は私にとっての新作になるわけで…だから何度でも同じ作品を観なくてはいけないわけ。これはまだまだ、沼から足を抜くことは…できなそうだなぁ。††

03.演技を散歩(番外編) ~ pulpo ficcion/演技と物語

1980年代は「物語」批判が一種のブームだった。私が20代のころのことだ。大文字の物語の時代はもはや終わったのだ。大団円を目指す波乱万丈、思想や主義、「これが正しい」という言説はすべて失効し、かわりに小さな、弱い、かそけき出来事たちだけが残された。いや、というより、もともと、そのような弱い連関や無関係に並ぶ、細部、表面、断片を力づくで統合してきたのが近代なのだ。今、改めて、そこにあってただ動作している生・言語・意識。これらが何の役に立つか、何をもたらすか。そのように問うのではなく、その生態を鑑賞し、その生成に倫理を学ぶのだ。例えばそんな主張。

年を取って社会に馴化すると、社会的営みは「物語なし」には成り立たないのだということを知ることになる。科学という物語、歴史という物語、戦略という物語。批判も何も、物語なしには過去も現在も未来も語りえない。正しいとか正しくないとかの前に、それが人生の実感だ。(ところで大切な生のあり方として「遊び」というのがあるけれど、今はこれは置いておく)

ただ、20代の古傷がうずくというか、あまりにも物語が大きく語られたり、あるいは皆が同じ物語を語りだしたり、二つの物語同士が勢力争いをはじめたりすると、いやあな感じになる。一種のすりこみではあるが、その物語にそこまで生を委ねて大丈夫なの?とおせっかいな気持ちが沸いてくる。特定の物語の語りを身にまとった高揚はわかるけど(そう、物語批判というものも、人を高揚させるある種のカタリだった)、どうか痛い目に合いませんように。という老婆心でもある(老爺心か)。

そう演技の話である。

「劇(ドラマ)」と括って書く。劇は純化された<物語>だ。あるいは、概念としての「物語」の受肉だ。演技は(俳優は)この物語を語る主体であると同時に、物語の部品でもある。これも80年代の流行言葉だけど、全体の傍らの部分、としての演技。物語を語り、駆動し、完結する演技と、物語を消し、反転し、変形させる演技。また、そうしたダイナミズムに無縁に、ただ、その瞬間の輝きとして、すべてを忘却させる演技。

勝手に人類史を捏造すると、演技は、物語・劇に先立って存在していたと思われる。ある時、誕生した劇は、既に先行して存在し、人の生を豊かにしていた演技を、その裡に取り込み、共生をはじめた。物語は演技に動機を与え、演技は物語に繁殖力を与えた。しかし十万年(多分)の時を経て、演技は演技の野生を失ってはいない。その野生が物語を可能にし、同時に物語が到達できない地点を照らし出すのだ。都度都度の劇の中で、観客の身体のどこかで。†††

04.こういう基準で言葉を選んでいます(といくつかのお願い)

舞台、アニメーション、映画、テレビ、配信、etc。ジャンルは問いません。人が<演技>を感じるもの全てが対象です。編集人が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは問いません。熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。ほとんどがツイッターからの選択ですが、チラシやミニマガジン、ほっておくと消えてしまいそうな言葉を記録したいという方針です。

【引用中のスチルの扱い】引用文中に場面写真などの画像がある場合、直接引かず、文章のみを引用、リンクを張っています。ポスター、チラシや書影の場合は、直接引用しています。

【お願い1】タイトル画像と希望執筆者を募集しています。>

【お願い2】自薦他薦関わらず、演技をめぐる言葉を募集しています。>

05.執筆者紹介

箕山 雲水 @tabi_no_soryo
『火垂るの墓』の舞台となった海辺の町で生を受け、その後大学まで同じ町で育つ。家族の影響もあって、幼い頃より人形劇などの舞台や太鼓、沖縄や中国の音楽、落語、宝塚歌劇、時代劇などに親しんでいる間に憧れが醸成され、東京に出てきた途端に歌舞伎の魅力にどっぷりはまって現在に至る。ミュージカルやストレートプレイ、洋の東西を問わず踊り沼にも足をつっこんでいるため、本コラムも激しく寄り道をする傾向がある。愛称は雲水さん

pulpo ficción @m_homma
「演技と驚き」編集人。多分若い頃に芝居していたせいで演技への思い入れがけったいな風に育ってしまった。それはそれで仕方ないので自分の精神的圏域を少しでも広げたいとこのマガジンをつくった。なもんで、突発的に演技への思い込みを番外編として記しました。

06.編集後記

発行が遅れました。もちろん自分の計画性のなさの故ですが、発行予定日にとてつもない仕舞と能楽を観たせいです。

ここでいう宗家とは金剛永謹氏のことですが、私にはこの能楽師が、非常に自覚的な演じ手であるように思えてなりません。いつかきちんと書きたいのですが、全然追いつけないですね。同日に観た能楽『芦刈』も大概でしたが、いつか、こうした作品を正確に語ることができるようになるのでしょうか?(別に現代の作品を正確に語れているとも思っていませんが)

なお。田村の感想はこちらです(2022/3/30追記)

いずれにしろ発行日がお能の日と重なるのは、なかなかにつらいので、来月から執筆者とも相談して発行日をずらす所存です。ではまたおよそ一か月後のどこかで!

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