ルックバックの劇伴について

できるだけ簡潔に書きたい。

これが初回観た後の感想。劇伴が大仰・うるさいという意見に、もっともだなと思いながら書いた。これから書くことも、この映画の劇伴が好きになれない人を好きにしようと折伏する類のものではありません。私が自分の興味に引き付けて受容したものにすぎません。

二回目を見て、はっきりと気が付いたのは藤野と京本が対話しているシーンで音楽は流れていないということだった。さらに言うと二人がセリフなしで過ごすシーンで劇伴は多用され、たしかにこれは大音量過ぎないかということだった。

というのも、当日の早朝にインターネットで予約したところ、いわゆるボディエリアの座席はほとんど埋まっており(うるわしいことです)、C列真ん中を選んだ。前から三列目、音は一回目より、生々しく、そして大音量でやってきた。

今調べた。音楽はharuka nakamura。宗教施設での演奏の多い作曲家のようだ。たしかに楽曲は宗教曲的であり、しかしながら、その裏には不協和やスリップリズムが隠されていた。主旋律は確かに感動盛り上げ系のメロディなのだが、よく聞くとどこか不安な、そわそわさせられる、ここにいていいのかという感じすら漂う音楽だった。

また音響設計は木村絵理子。全く意識したことはなかったがジブリ映画のアフレコ演出、ルーのうたや犬王などの音楽が重要な意味を持つ映画で音響監督を務めている方だ。

と、これは今調べた情報。いずれにしろ、二回目の鑑賞中、私は、この劇伴が藤野と京本を護っているように思えてならなかった。では、何から何を護るのか?

結論をいうと「二人が一緒にいて味わった感情、たかぶり、一体感。その時の二人だけに訪れた世界のどこにもない二人だけの経験」を観客が持つ「わかってしまう力能」から護る。だ。この映画が上映され続ける限り、音楽が二人のかけがえのない時間を護り続けている。

物語は二人が小学校4年の時に始まり、おそらく20歳前後で終わっている(原作をまだ読んでいないので不正確かもしれません)。つまり子供だ。中学生になって二人が出掛けるシーン。漫画についてやり取りする大人びた会話とは別の線で、二人の子供が二人の時間を心底楽しんでいる時間が流れている。そして、そこには劇伴が流れる。

あるいは、これは音響効果ではないが、ふたりが初投稿の結果をコンビニのジャンプで確認するシーン。まったく子どもの笑顔で二人がよろこぶ。その時、カメラはコンビニのガラス越しに二人をミディアムロングでとらえている。

二人が二人だけの世界で充実しきっているショットは、あの「手長っ!」手つなぎシーンを除けば、ほぼ遠景でおさめられている。

と、ここまでが映画を観ながら気が付いたこと。以下、観た後に考えたこと。たぶん、少し粗書きになるが、勢いで書く。

映画の作り手は大人たちである(原作者の藤本タツキがいくつなのかは知らない)。この映画は漫画(絵画、もっというと「表現」)というどうしようもない魔物にとりつかれた人間の物語であると同時に二人の子供が成長する(しそこねる)物語でもある。

子供は護られなければならない。とりわけ「解釈の暴力」から。「ああ、そういうことよねえ」と大人の引き出しに整理整頓されて、しまわれてしまうことから。(そういや『怪物』の終章もそれをやりたかったのかな。うまくはなかったけど。

端的に言う。拾ったツルハシを感情に任せて振り下ろす暴力と、子供を-あ、ここでいう子供とは人ができごとの一回性において生きている時間ととっていただいて間違いないです-大人の日常で解釈する暴力は、多分一つの暴力の二つの貌なのだ。

作り手は、第一の暴力を物語の中で昇華(成仏)させる試みの裏側で、この物語を第二の暴力からも護ろうとした。それは、あのツルハシの音が、落ちたスマートフォンの音が、やけになまなましく大音量だったのに呼応して、でかく大仰で、だからこそ、その中の繊細を守り抜く、クルミの殻のようにかたくななものでなければなかった。

それがあの劇伴であり、この音響設計だったのだ。

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