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演技と驚き◇Wonder of Acting #29

タイトル画像:『義経千本桜 「河連法眼館」』 初代歌川豊国(1815)
演技を記憶するマガジン [ May,2022 ]

00.今月の演者役名作品インデックス

米国の若い俳優たち『モキシー 〜私たちのムーブメント〜』『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』
小林聡美:五十嵐芙美、松重豊:篠田吾郎、江口のりこ:菊池妙子、平岩紙:櫛本直子、斎藤汰鷹:櫛本航平『ツユクサ』
鈴木卓爾:筧井和夫『死刑にいたる病』
菅田将暉:源義経『鎌倉殿の13人』
藤山直美:花岡町子『芋たこなんきん』
竹本織太夫『義経千本桜』

01.今月の演技をめぐる言葉

メインコンテンツです。編集人が見かけた「演技についての言葉」を引用・記録しています。※引用先に画像がある場合、本文のみを引用し、リンクを張っています(ポスター・公式サイトトップ・書影など除く)。

che bunbun | 映画の伝道師 @routemopsy >
『死刑にいたる病』:阿部サダヲ以上に鈴木卓爾監督の演技がめちゃくちゃ怖かったな。ビールを飲んでいるだけなのに、完全に空間を支配する怖さ。セリフは少ないのだけれども、呪術廻戦かなと思うほどの負のオーラを纏っていて、圧倒していた。実はMVPは鈴木卓爾監督だったりするな。

Via Twitter

引用させていただいた皆さん。ありがとうございました †

02.雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道)

第十九回:大河ドラマに途中からハマっている人間が文楽を観た話。~箕山 雲水

 たしかに『鎌倉殿の13人』の影響もあるかもしれない。今までになく義経の状況が脳裏にしっかり刻まれていたせいといわれれば否定はできない。しかし、なぜこんなに何度も観た『義経千本桜』に心を鷲掴みにされるのだろう。そう思いながら、国立劇場で文楽を観ていた。どうしても涙が止まらない。劇場を出てもまだ涙が止まらなかったのは、いついらいのことだろう。近くのコンビニエンスストアで替えのマスクを買う程度には、すっかり涙で水浸しになっていた。

 今回の文楽公演は『豊竹咲太夫文化功労者顕彰記念/文楽座命名一五〇年』と銘打ったもので、私が観たのはその第一部の『義経千本桜』。長い作品の中の源九郎狐にまつわる伏見稲荷の段、道行初音旅の段、河連法眼館の段を抜き出しての上演だった。伏見稲荷の段こそ初見だが、あとの2つの段はしょっちゅう歌舞伎でもかかる演目だ。この2年は特によく観た印象で、飽き性の私が「かかると避ける」リストに入りかけていた。ところが、初日頃に観てきた歌舞伎もよく観る知人たちが、これをやたら褒めるのだ。しかも、豊竹咲太夫丈は休演されているというのに。何が起こっているのだろう、そう思いながら残り少ないチケットを購入した。客席に座る。遠い。これは詰んだ。ただでさえ文楽はよくわからないのに…!(文楽を前に観た頃、まだ私が幼すぎてわからなかっただけの話だが)

 さて幕が開く。口上に続いて人形が出る。義経が頼朝から謀叛の疑いをかけられて西国へ落ちゆくその途中の場面で、その経緯が義太夫という音楽によって紡がれていく。時にはセリフになり、時には情景描写になり、ひとりの太夫が男も女も説明も全てやる、それが不思議とすとんすとんと心に落ちて、気づけば物語に引き込まれていた。義経はやはり過激な人なのか。あ、狐が出てきたぞ、あ、忠信に化けた、そんなネタバラシを早々にやる?
次の場面では、静御前が打つ鼓の音につられてはぐれたはずの忠信の姿の源九郎狐がどこからともなくやってきて、静と寄り添って踊る、そう…歌舞伎の印象から踊る場面だと思っていたのだが。ひとしきり踊った2人が、壇ノ浦の合戦の話をするところから急にしゃべりはじめた。しかも驚くほど饒舌。たしかに言われてみれば戦物語の場面だからしゃべるほうが自然なのだけれど、歌舞伎はそれを踊りで表現する。だから、静御前と忠信がしゃべりはじめた時、しばらく心が迷子になった。ところが迷子になった心がようやくそこで行われていることを理解した瞬間、自分の身に予想もしない出来事が起きる。急にウワッと腹の底から涙が噴出したのだ。すっかり飽きているはずの場面で、「これは壇ノ浦の話だ」とそんな当たり前のことがいまさら濁流のように押し寄せて。

 あとで思えば、私は伏見稲荷の段からずっと、何か得体のしれない妖術にひっかかっていたのだ。「ここは泣く場面」「ここは盛り上がるところ」と情景描写から台詞からあらゆる手段でわかりやすく表現され、さらに腹の底にびびいんと響く太棹三味線が組み合わさることで逃げ場がないほど感情を揺さぶってくる義太夫という妖術に。おまけに舞台上で演じているのは人形だ。彼らには感情はないし、声を発することもない。自分をどう表現するかなど邪念にとらわれることもなく、まっすぐそこにいる人形たちだ。その人形たちを通して、妖術が歪められることなくストレートに客席に飛んでくる。ああもう逃げ場がない!

 と思えていたら逃げられたかもしれないが、こちらはそれを防ぐ術ももたない新人魔術士である。盛りすぎた。魔術士にもなれない素人である。気づけばもう、どろどろびちゃびちゃに妖術の泥の中に沈んでいた。おかげで、まだ肝心の最後の段に行き着くまでにこれだけの紙幅を費やしてしまっているのだが…最後の段はそもそも素晴らしすぎてあまりの衝撃に語る言葉を持ち合わせていないので、5月29日の古典芸能への招待をぜひどうぞ(笑)

 冗談はさておき、最後はいわゆる四の切と呼ばれる、狐忠信が実は静御前の持つ鼓の革になった狐の子であることがわかる場面だ。歌舞伎では、狐が妖狐であることの表現として早替わりや宙乗りなどのケレン味も強く、どうしても気持ちは狐に囚われる。去年の又五郎丈が主演を務められた時など、散々狐に同情して泣いたものだ。
 ところが、ここで再び予想もしない出来事が起こる。急に義経のひとことが胸にずんと刺さったのだ。

「ヲゝ我とても生類の恩愛の節義身に迫る。一日の孝もなき父義朝を長田に討たれ日陰鞍馬に成長、せめては兄の頼朝にと身を西海に浮き沈み、忠勤仇なる御憎しみ、親とも思ふ兄親に見捨てられし義経が名を譲ったる源九郎は前世の業、我も業。そもいつの世の宿酬にてかゝる業因なりけるぞ」

筋書きに付属の床本より抜粋

 歌舞伎で観ていた時には気づきもしなかった義経の言葉だった。義経の報われぬ思いが、源九郎狐の親への思いに重なっていたとは、なんと、これは義経の話だったのか…!思わず浅はかな叫びをあげる。そもそもタイトルが『義経千本桜』なのに狐の親孝行の話かと思って長年観てきたのだから、いやはや。それも義経は、この誰かを恨めば恨めるような出来事を、誰を恨むでもなく「業」と言い切る。代役でありながら心の底をえぐる織太夫丈の義太夫のすばらしさゆえなのか、人形の演技ゆえなのか、それとも文楽というジャンルゆえなのか。答えを探す暇もなく、ずどんと腹を撃ち抜かれて終演した。終演はしたけれど、義経の思いが身体中を駆け巡って感情が右往左往、涙は止まりそうもない。そりゃ、皆ほめるわけだ。こんなに感情を揺さぶられ続けるのだ。これはまだまだ観なくてはなるまい。何がこうさせるのかその謎が知りたい。次はいつ公演があるのだろう…さあ困った、新しい沼が口をあけたぞ。知らない世界への落とし穴は、そこいらじゅうに空いている。

††

03.こういう基準で言葉を選んでいます(といくつかのお願い)

舞台、アニメーション、映画、テレビ、配信、etc。ジャンルは問いません。人が<演技>を感じるもの全てが対象です。編集人が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは問いません。熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。ほとんどがツイッターからの選択ですが、チラシやミニマガジン、ほっておくと消えてしまいそうな言葉を記録したいという方針です。

【引用中のスチルの扱い】引用文中に場面写真などの画像がある場合、直接引かず、文章のみを引用、リンクを張っています。ポスター、チラシや書影の場合は、直接引用しています。

【お願い1】タイトル画像と希望執筆者を募集しています。>

【お願い2】自薦他薦関わらず、演技をめぐる言葉を募集しています。>

04.執筆者紹介

箕山 雲水 @tabi_no_soryo
『火垂るの墓』の舞台となった海辺の町で生を受け、その後大学まで同じ町で育つ。家族の影響もあって、幼い頃より人形劇などの舞台や太鼓、沖縄や中国の音楽、落語、宝塚歌劇、時代劇などに親しんでいる間に憧れが醸成され、東京に出てきた途端に歌舞伎の魅力にどっぷりはまって現在に至る。ミュージカルやストレートプレイ、洋の東西を問わず踊り沼にも足をつっこんでいるため、本コラムも激しく寄り道をする傾向がある。愛称は雲水さん

05.編集後記

マガジン創刊以来「演技って何なんでしょうね」としか言っていない私ですが、そのオブセッションって何なのか。演技するものと演じられているものの「中間領域」にできるだけ接近したい。演技する主体と演じられている役という単純な二項図式におさまらない、現実に起こっている<事態>の複雑怪奇さを、もっと解像度高く見つめたい。今月の言葉も連載もそうした解像度高い言葉で、私はただそれを拾っただけなのですが、編集人として、それがあるべき姿のような気もしています。
いや、変な内省入りそうになったかもだ。それでは、また一か月後!


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