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演技と驚き◇Wonder of Acting #33

演技を記憶するマガジン [ Sep. 2022 ]

00.今月の演者役名作品インデックス

中村倫也:羽根岡佳男、有村架純:石田硝子『石子と羽男-そんなコトで訴えます?-』
のん:ミー坊『さかなのこ』
菅田将暉:葛西泉『百花』
竹本織太夫『奥州安達原 矢の根の段』
松岡茉優:摘木星砂『初恋の悪魔』
尾上菊之助:母藤波/藤戸の悪龍、中村又五郎:佐々木三郎兵衛盛綱『藤戸』

01.今月の演技をめぐる言葉

編集人が気付いた「演技についての言葉」を引用・記録しています。※引用先に画像がある場合、本文のみを引用し、リンクを張っています(ポスター・公式サイトトップ・書影など除く)。

⁂ ⌘ 背 骨 ⌘ ⁂ @sebone_returns >
『さかなのこ』 性別、リアリティ、普通とは… あらゆる壁を飛び越えてしまうのんさんはやっぱり天才だった ミー坊の家庭環境の変化や、学業・仕事についていけないなどの厳しい現実に対して、深刻に悩むでもノー天気に振る舞うでもない「さりげなく中庸な仕草」は彼女にしか出せないのでは…

via Twitter

引用させていただいた皆さん。ありがとうございました †

02.雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道)

第二十三回:龍に丸呑みされた場所から~箕山 雲水

舞台が行ったこともない外国の街中に見えたり、森の中に投げ出されたような気分を味わったり、劇場というのはたしか、そういう経験をする場所だったと思う。時にはリアルに飾り込まれた大道具によって、時には自らの想像力によってそれがなされ、おかげで劇場にいけばさまざまな時代の、さまざまな場所を旅することができた。

それが、秀山祭九月大歌舞伎で見た『藤戸』は全く違った。いまだ経験したことのない、妙な感覚を味わった。はじめはまだ、それでもいつもの歌舞伎の感覚だった。「二世中村吉右衛門一周忌追善」として行われている公演だからか、いつもにも増してピンと張り詰めた空気が満ちてはいたが、それ以上に普段の歌舞伎と異なる感覚はなかった。それが、揚幕を出てきた1人の母親が静かに杖を突く、その瞬間かわった。たしかに歌舞伎座にいるのに、すとんと空間の床が抜けて、客席の全員が12世紀の岡山にタイムスリップしたような、そんな感覚になった。私はいったいどこにいるのだろう。そうして、その母親の話に引き込まれていったのだった。

舞台の時代に入り込む、それだけなら他の舞台でも同じだろう。この『藤戸』が不思議だったのは、まわりの歌舞伎座の景色も観客の存在もそのままに見えていたことにある。時空が歪んだというのだろうか。昔のアニメやSF映画で別の星の様子を覗き見るようなシーンがあった、あれに近いかもしれない。母親と佐々木盛綱、それにその郎党がやりとりをしているその様がすぐ目の前にたしかに見えている、見えているけれど別の時空にいるから触れもしないし干渉もできない…二つの時代の二つの場所が同時にそこに現出していた。母親たちが行ってしまって間狂言になり、浜の男、浜の女、浜の童が出て、やがて悪龍が現れる。透明度の高いガラスに隔てられている感覚で、すぐそばにいる別の時代の存在を始終感じ続けていた。

この感覚はどこから来るのだろう。そう考えていて私は、忘れていたひとつの事実を思い出す。そういえば、大道具らしい大道具がなかった。能に由来する作品だから当たり前といえばそうかもしれないが、海を表すものもなければ砂浜を表現する何かがあるわけでもない。ただ所作台が敷かれている舞台の上で、ここは海辺で、この人は息子を戦で亡くした母親で、と状況がセリフの中で語られながら物語が進んで行く。衣裳はつけているし、演じている尾上菊之助丈、中村又五郎丈はじめとする方々が、これも追善公演だからだろうか、自己の意識を超えたところでその役に「なって」いるものだから、見ている方の感覚がバグを起こしていくのだ。やがて私たちは聞こえもしない波の音を聞き、空を覆う黒雲を見、菊之助丈の体を超えた黒龍を見る。極限まで削ぎ落とされたものが演じ手の作り出す空気とぴったりあわさった時、かえってこちらの脳をゆさぶり、感覚を狂わせ、時空を超えさせる。こういう舞台を見たかった、帰りの電車の中でTwitterにそんな言葉をぶつけながら、いつまでも意味もなく流れ落ちる涙を止めることができず、やっと翌朝目覚めたところで日常が戻ってきた。

それにしても、これまでもたくさんの能由来の歌舞伎は見てきたはずなのに、この作品はなんという怪物なのだろう。まだまだその秘密の核心にたどりつけていないから、余計にずっと、怪物から心が離れないでいるわけで、きっと私は頭から龍に丸呑みにされてしまったのだ。いつか龍のお尻からぽろりと出ることができるのだろうか。怪物のお腹の中で暴れながら、また新たな怪物に出会う…旅に出ようかな。

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03.演技を散歩 ~ pulpo ficcion/第十三回の2 再びの視線

(承前)
演技は大きく二回、視線をくぐりぬける。一度目は作り手のもとで、二度目は受け手のもとで。その間「演技」は分割されているが「演者」は連続している。前回記したのはこのようなことであった。

二度目の視線について語る前に、この連続性ということをもう少し考えてみたい。

演技は、広い意味での<ドラマ>の素材=部分であるが、美術におけるマチエールや、文学における文体とは異なるのは、それが人を媒体としているため、潜在的に書き換え可能であり、そうであるからこそ、実現した演技のやり直せなさが目前の崖のように迫り上げる点にある。

しかし、果たしてそれは本当か?
画家が筆をおくことや文筆家が推敲を終わらせることと、演技が演出との対話や舞台での交歓を経てどこかで完成され演じられることに、本質的な違いはあるのだろうか?

演技を所有するのは、演じ手である。と、いったん言ってみる。演技は作家の所有物ではなく、演じ手の主体に帰属するものだ。すると今度は所有という言葉が気になる。「演技」に限らず表現の手法・技術とは所有されるものだろうか?

こう書いて焦点がようやく浮かんでくる。演技は人と人の間にあるプロセスでありながら、一個の身体から発出している、ということがキモなのだ。もしかすると、これは非常に近代的なことなのかもしれない。つまり、演技が集団創作でありながら<個>性から発出しているように感じられるということが。

演技に感じる連続性は<個>の連続性なのである。言い換えると、そう感じるよう、私は教育されているのだ。(続く)

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04.こういう基準で言葉を選んでいます(といくつかのお願い)

舞台、アニメーション、映画、テレビ、配信、etc。ジャンルは問いません。人が<演技>を感じるもの全てが対象です。編集人が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは問いません。熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。ほとんどがツイッターからの選択ですが、チラシやミニマガジン、ほっておくと消えてしまいそうな言葉を記録したいという方針です。

【引用中のスチルの扱い】引用文中に場面写真などの画像がある場合、直接引かず、文章のみを引用、リンクを張っています。ポスター、チラシや書影の場合は、直接引用しています。

【お願い1】タイトル画像と希望執筆者を募集しています。>
【お願い2】自薦他薦関わらず、演技をめぐる言葉を募集しています。>

05.執筆者紹介

箕山 雲水 @tabi_no_soryo
『火垂るの墓』の舞台となった海辺の町で生を受け、その後大学まで同じ町で育つ。家族の影響もあって、幼い頃より人形劇などの舞台や太鼓、沖縄や中国の音楽、落語、宝塚歌劇、時代劇などに親しんでいる間に憧れが醸成され、東京に出てきた途端に歌舞伎の魅力にどっぷりはまって現在に至る。ミュージカルやストレートプレイ、洋の東西を問わず踊り沼にも足をつっこんでいるため、本コラムも激しく寄り道をする傾向がある。愛称は雲水さん。

pulpo ficción @m_homma
「演技と驚き」編集人。多分若い頃に芝居していたせいで演技への思い入れがけったいな風に育ってしまった。それはそれで仕方ないので自分の精神的圏域の妥当性を確認するためこのマガジンを出しております。

06.編集後記

ちょっと色々と絶え絶え的になっているのですが、人生何度目かの煉獄的シーズンなのだと信じて生きております。とにもかくにも、読んでくださり、ありがとうございます。あ、あんまり重い気分ではないのです、思わせぶりな書き方でごめんなさい。ではまた来月!

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