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演技と驚き◇Wonder of Acting #28

タイトル画像:『Drohendes Haupt』Paul Klee (1905)
演技を記憶するマガジン [ April,2022 ]

00.今月の演者役名作品インデックス

小松菜奈:高林茉莉『余命10年』
ジャック・リヴェット(映画監督)
佐藤浩市:上総広常『鎌倉殿の13人』
岸井ゆきの:湖谷真奈、浜辺美波:卯木すみれ『やがて海へと届く』
松村北斗
カトウシンスケ:野村孝秋『誰かの花』
ニコラス・ツェー:ンゴウ『レイジング・ファイア』
片岡仁左衛門:美濃部伊織、坂東玉三郎:るん『ぢいさんばあさん』
初音ミク
水江建太、中村太郎、赤澤遼太郎、稲垣成弥、藤田 玲『MANKAI MOVIE「A3!」AUTUMN & WINTER』

01.今月の演技をめぐる言葉

メインコンテンツです。編集人が出あった「演技についての言葉」を引用・記録しています。※引用先に画像がある場合、本文のみを引用し、リンクを張っています(ポスター・公式サイトトップ・書影など除く)。

脳内シークレット @SecretSpacer 
「余命10年」
小松菜奈さんの演技が良すぎた。
悟った顔、寂しそうな顔、虚ろな顔、耐える顔、困った顔、頑張って笑った顔、心から笑った顔、嬉しそうな顔...これを書いてるだけで思い出して涙がこぼれそうになるけど、それくらい喜怒哀楽の表情全てが高林茉莉にしか見えなくて感情移入してしまった。

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maplecat_eve @maplecat_eve 
「人の演技を見るということは、自分もその演技を心の中で真似るということである」(ジャック・リヴェット)
リヴェットのこの言葉は映画を体験することの本質を突いているなと感じます。意識的にしろ無意識的にしろ、俳優の演技を心の中でトレースしている気がします。

via Twitter

レイジング楓 @dd0nn7yy2nn7 
『レイジング・ファイア』でのニコラス・ツェーの演技は本当に凄い。目つきや目線、口元の僅かな歪みで何種類もの笑顔を使い分けながら、その笑顔に隠している他の感情がバッチリ伝わってくる。もう後半のンゴウは、ずっと泣いてるようにしか見えないよ。

Via Twitter

引用させていただいた皆さん。ありがとうございました †

02.雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道) 第十八回:フィクションがもたらすもの~箕山 雲水

 日本の演劇、というより歌舞伎という芝居は独特だ。ごくリアルで身近な話題を扱いながら「これはあくまでフィクションですから」と言い切ることで、観客が容易にその世界に没頭できるように作ってある。時代物、世話物、さまざまな形はあるが、フィクションと定義された憧れのリアルにわかりやすく没頭させていくことは共通している。だから女方であることが必要なのだ。歌舞伎座で仁左衛門丈・玉三郎丈の『ぢいさんばあさん』を観てわかりやすいシーンに涙を流しながら、そんなことを思っていた。森鴎外の原作を宇野信夫が歌舞伎に仕立てた作品。あまりにも身近で、でも自分たちの手には入らないだろう、あたたかな夫婦の物語だった。ただリアルにやられたのでは「はいはい、どこか遠い世界の作り話ね」と思いかねないようなお話しなのに「フィクションですから」のスイッチを最初に入れられてしまうものだから、観客が躊躇せずにその世界に飛び込める。本当はそうありたいと心のどこかで願っている出来事を何の遠慮もせずに自分の出来事として享受し、それでカタルシスを得ることができる。ことに、今月の主演はよくいわれる“にざたま”。見た目の美しさから芝居のリアルさ、2人の息の合った芝居、どこを取っても芸術だ。大事件は、たしかに起こる。それによって子どもを授かったばかりのおしどり夫婦が37年も引き裂かれる程度の出来事が。ところが、その事件をことさらドラマチックに描いたり、事件後にこの夫婦がいかに悲しみ、苦しんだかを劇的に描いたりはせず、すっ飛ばして37年後の場面でその間のことを想像させる。あくまでも、ひとつの夫婦の物語に帰着するわけである。その、けっして派手な演出がない小さな単位の物語がここまで客席に涙の波を起こさせるなど、世界でも類を見ないことなのではないだろうか。客席全体がそう設定されているのだから、涙を流そうが嗚咽しようが恥ずかしいなどと思う必要もない。むしろまわりの涙に引きずられてさらに嗚咽に拍車がかかったりするのだから、この強引な「フィクション設定術」、本当に面白い。

そう思っていたところにGW恒例の超歌舞伎がひさしぶりにリアルで開催された。これをライブ配信で観た。初音ミクさんというボーカロイドと歌舞伎のコラボレーションで行われる作品で、すっかり定番のイベントとなってきた。はじまった当初は失礼ながら「そんなキワモノを観る必要はない」などと斜に構えていた私である。それがいまやそそくさとリアタイしているのだ。しかも、まったく知らないミクさんの曲「初音ミクの消失」をベースとしているらしい『永遠花誉功』にすっかり泣かされてしまっている。歌舞伎ファンとしてこれでいいのか……?脳裏にそんな疑問がよぎった次の瞬間、別の自分がその疑問を興奮気味にぶん殴りに来た。オマエハ、イツモ、ナニヲミテイルト、オモッテイルノダ?

そうだ、これこそが歌舞伎なのだ。初音ミクさんを全くわかっておらず怖気づく歌舞伎ファンに向かって、冒頭で主演の中村獅童丈が「私の相手役の初音ミクさん」と当たり前にミクさんを紹介する。続く口上が「精一杯つとめさせていただく所存でございますので」これでミクさんは女方と同じ“作品の中で女性を演じる存在“なんだ、と急に身近になる。やがて幕があけばそこには「悪役ですよ」という顔をした歌舞伎役者がフィクションを背負って登場するのだ。『ぢいさんばあさん』のいかにもリアルを背負ったあり方とは異なるが、これはフィクションなんですからそう思って没頭してください、そんな設定が一気に敷かれてしまうのは同じ。劇場のように他の観客がまわりにいるわけではない。しかし、画面上に流れるたくさんのコメントにより、同じ瞬間にそれぞれの感覚を共有しながら楽しめる仕組みになっているから、もうこれはほとんど理想の歌舞伎。すさまじいテクノロジーの進歩やミクさんの曲と歌舞伎としてのストーリーの親和性もさることながら、ニコニコ動画やミクさんとのコラボによって増幅されたこの不思議なフィクション空間の共有システムはもっと世界から注目されてもよいのでは。歌舞伎とは、日本の演劇とは……そんなことを考えながら、またあの空間でネギ(初音ミクといえばネギなのらしくコメントでわんわん流れてくるのだ)を振ろう。皆でネギを振っているかぎり、世界は平和……かもしれない。

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03.演技を散歩 ~ pulpo ficcion/第十一回 『プロセスとしての成果物としての演技』

能楽を観ていて常々思うのだが、面(おもて)というのはとにかく小さい。老いた能楽師が能面をつけるとき、面は顔の全域を隠すにいたらない。たっぷりとたれた顎の上にあどけない女性の面ののっているのは、誤解を恐れずに言えばいささか不気味である。間近で能楽を観るとき、物語や舞の勢いにその不気味を忘れているときもある。しかし、ふと、能面の小ささに気がつかされる。その下にあって劇を前に進める生身の肉体のことを思いながら、脳内の別の感覚野は秋の野や春の宵に浸されている。小さな能面にのっかった二重(ふたえ)の感覚。

大きく分けて作品の鑑賞には二つの受け止め方がある。ひとつは「作られたもの」を受け止めること。もう一つは作られた「モノ」を受け止めることである。前者は、いま鑑賞しているものが人によって作り出されたというプロセスを思い、後者は、そうやって作り出されたツクリモノの内側をめぐる。ツクリモノをひとときのリアルとして生きる鑑賞がなければ、そもそも人は創作物をひつようとしなかっただろうし、そうやって自分を虜にしたものがツクラレタものであることを意識できなければ、人はモノをつくったりしないだろう。

能面の小ささは、二つの鑑賞をつなぐことをリアルタイムで観客におしえる。木で出来た面と能楽師の表情が触れるすきまに、物語に引き寄せられる興奮と古典芸能への驚嘆が折りたたまれているのだ。観客は物語に酔いながら、常に素の<今此処>に戻ることができる。あるいはそのような鑑賞のありかたを幽玄と呼ぶのではなかったか。

そして演じるとはそもそもそういうことであるのだ。プロセスと成果物を同時に提示し、それらを分かつことなく鑑賞する渦中において「誰に」「何を」「見せたいか」というマーケティング的発想は蒸発する。それを私は「はじまりの演技」と呼びたい。

さて映画『MANKAI MOVIE「A3!」AUTUMN & WINTER』である。

「驚異の750万DLを突破したイケメン役者育成ゲーム『A3!』。その舞台版MANKAI STAGE『A3!』シリーズの実写映画化第2弾」(公式サイトより)
ゲームも舞台も知らず、最初の映画化作品も知らず、そもそもなんの映画かも知らず観に行った私は、この映画で、はじまりの演技に出会うことになる。

MANKAIカンパニーという劇団が舞台である。オーディションを受けた俳優たちを「監督」が育成するという筋立てだ。ライバルは人気劇団GOD座。観客の人気投票によってライバルとステージの勝敗を決める「タイマンACT」が映画の主線をなす。この決着に向け、MANKAIカンパニーのチーム秋組、冬組の本公演への取り組み、それを彩る「ポートレート(半生を語る一人芝居)」に加え、タイムリープというプロットまで盛り込んだてんこ盛りの2時間だった。

この「ポートレート」が素晴らしかった。秋組の5人の俳優が、自分の劣等感、不遇な過去を語り、自分を変えるのだと訴える。5分程度の一人芝居だ。これがぐさぐさと刺さってくる。ありふれたプロット、出来合いの言葉を使って語られる悔恨と覚悟。なのに、その紋切りがたった今生まれたばかりのような新鮮さでスクリーンに焼き付けられている。

育成ゲームや、2.5次元舞台の現状は知らないのだが、おそらく俳優たちは今旬なのだろう。実にノッていた。映画全体にも勢いがあった。その中でリアリズムとは呼べない、かといってもちろん型でもない。だが棒でもない。強いていれば「ああ、頑張って演じているなあ」という演技、若くて気持ちの良いまっすぐな演技。けれど、それがなぜ、あんなにもチャーミングだったのか。

  1. イケメン俳優育成ゲームという出自

  2. ゲームを舞台化し、さらにそれを映画化したという企画

  3. 観客として想定されているのはゲームのプレイヤー、もしくは舞台版の観客

  4. 舞台公演そのものを物語としたメタストーリーの中で、さらに本番前の演技力強化(俳優たちの覚悟としての試練)エクササイズとして導入された「ポートレート」

複雑な設定の下、いったい誰に向けて何を演じるのかということはおそらくはらりと雲散したのだろう。結果として、演じている俳優たちが、ストーリーに沿って手元にあるテキストをただまっすぐに演じるプロセスだけが残った。誰に向けての演技なのか定かでもないまま、今演じることのできる幸福感だけを燃料にわかりやすい設定を演じる。その目論見のなさが「ポートレート」を単なる劇中劇という枠組みから演技「ポートレート」に取り組む俳優の姿の記録へと素通ししたのだ。やたら高度化したマーケティングミックスが、演技をそのはじまりへと連れていったのだ。

それは、時分の花、と呼べば呼べるのだろう。
とは言え、私はこれを単に偶然の産物と片付けたくない予感がある。一つは例えば2.5次元舞台や、ゲーム、漫画の舞台・映画化が、実は新しい伝統のはじまりであって、そこに演技の新生が隠されているかもしれないから。そう書きながら、私は『映画刀剣乱舞』や『初恋ロスタイム』のことを思い起こしている。あれらに記録された演技の瑞々しさと言ったら!
もう一つは「ポートレート」を観ている最中に想起していた『マイ・ビューティフル・デイズ』。劇中ビリー(ティモシー・シャラメ)がハイスクールの演劇大会で演じる「あるセールスマンの死」のワンシーンだ。演技オタクたるビリーが、演じることのうれしさにあふれていた劇中劇は作品の枠内におさまらない独立した表現だった。

なにしろ演技とは反復なのだ。そして反復は常に可能なのである。

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04.こういう基準で言葉を選んでいます(といくつかのお願い)

舞台、アニメーション、映画、テレビ、配信、etc。ジャンルは問いません。人が<演技>を感じるもの全てが対象です。編集人が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは問いません。熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。ほとんどがツイッターからの選択ですが、チラシやミニマガジン、ほっておくと消えてしまいそうな言葉を記録したいという方針です。

【引用中のスチルの扱い】引用文中に場面写真などの画像がある場合、直接引かず、文章のみを引用、リンクを張っています。ポスター、チラシや書影の場合は、直接引用しています。

【お願い1】タイトル画像と希望執筆者を募集しています。>

【お願い2】自薦他薦関わらず、演技をめぐる言葉を募集しています。>

05.執筆者紹介

箕山 雲水 @tabi_no_soryo
『火垂るの墓』の舞台となった海辺の町で生を受け、その後大学まで同じ町で育つ。家族の影響もあって、幼い頃より人形劇などの舞台や太鼓、沖縄や中国の音楽、落語、宝塚歌劇、時代劇などに親しんでいる間に憧れが醸成され、東京に出てきた途端に歌舞伎の魅力にどっぷりはまって現在に至る。ミュージカルやストレートプレイ、洋の東西を問わず踊り沼にも足をつっこんでいるため、本コラムも激しく寄り道をする傾向がある。愛称は雲水さん

pulpo ficción @m_homma
「演技と驚き」編集人。多分若い頃に芝居していたせいで演技への思い入れがけったいな風に育ってしまった。それはそれで仕方ないので自分の精神的圏域を少しでも広げたいとこのマガジンをつくった。なんか、最近変な方向にいってますかね?

06.編集後記

土曜日発行としたのは、日曜に行く能楽とかぶることが多かったからなのですが、なぜか今月は先週だった能楽をうかうかと失念し、やってしまった感にさいなまれております。4月は忙しすぎたんだ!
そういえば、子ども食堂でボランティアスタッフをしているのですが、あるとき非常になつかれた子どもに「何故、あなたは先月いなかったのか?」と聞かれ「いやあ、先月は忙しくて」と答えたところ「大人はすぐに忙しいって言うんだよ!」とどこで覚えたのか、ぐうの音も出ない批判をされ、次の月は仕事途中で捨てて参加したのですが、当の子らは不参加という。。

人生そんなモノです。次号は5月28日(土)発行予定。では!

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