信仰義認


キリストの義でいう、「義」の意味は、正義です。
δικαιοσύνη
これは、【律法の正当な要求】のことです。

この義は、人の努力のみで為すことはできず、神様とキリストにより頼み、聖霊の力を以て為し得ることとされてます。

当時の贖宥状は行為義認ではあるが、本来 信仰 によってのみ 義 が認められるべきであるとマルチンルターは説きました。

しかし今日では 行為 によっても 義 と認められなければならないという考え方がキリスト教の主流であり、信仰 と 行為 は両方必要だと考えられています。2つはセットです。

行為義認は信仰義認より難しいです。なぜなら人間は何が正しいかわからなくなるときがあるから。しかし何が正しいか神は知っています。したがって人間は神を信仰し、神に従って行為に及べばいいのです。

行為による義(恐らく仰るそれは、行為義認)は、そもそも律法主義のスタンスになるため、❌です。
この点は、どの教理にも共通する基本的なところですね。

「信仰による義」によって「義認」される必要があります。
しかし「信仰」が行いを伴わなければならないのです。その行いこそ、キリストの福音の力、神様の力により聖霊に満たされて初めて為し得るという筋書きです。

人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである(ヤコブ 2:24-26)

行為義認というとき、行為が律法をあらわしてしまうということはわかりました。

①信仰義認とは、神様のわざである基督の信仰により神の義を受け取ることです。

②行為義認とは、人間のわざである自力の信仰により神の義を受け取ることです。

※②の立場は「ペラギウス主義」という異端です。

②が、律法主義ゆえに❌とされますね。
神の力なしに、自力で行いによって義となれる!というスタンスです。
だから、聖書的ではないのではと。

ここでは直接関係ない話ですが、異端という言葉は、特定派閥による主観的判断にもなるので、可能な限り避けた方が無難だということを聞いたことがあります

異端の替わりは、例えば main lines ではない、とかでしょうか?言葉の意味を知って、その言葉を使う様に気を付けたいと思います。

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