読書感想文#1 福永武彦『夜の三部作』

福永武彦が好きだ。と言って趣味が合ったためしはない。それどころか福永武彦を知っている人と会ったことがない。そもそも読書が好きだと言う人にほとんど会わない。いわゆる純文学っぽい作品ならなおさらのことだ。

福永武彦を他人に紹介しようとしても上手く言葉がまとまらない。少なくとも私が今まで読んだことのある作品はすべてひたすらに「生」「死」「愛」「孤独」などの形而上学的なテーマを過剰なまでに叙情的かつ内省的に延々と描いているだけで、ストーリーを掻い摘んで話したとしてその魅力はなにも伝わらないだろう。

かと言ってそのテーマを語るにはあまりにも多くの時間を要するだろうし、好きだと言っても私自身にそれを即興で説明できるほどの準備はない。

そのため福永武彦を紹介するときにはテーマ性が良いとか、詩的に綴られた文が美しいというような、いかにも陳腐な説明にしかならず話しながらやきもきしてきた。

さて、そんな語り尽くせぬ福永武彦作品の一つとして今回は『夜の三部作』を取り上げる。

夜の三部作は『冥府』『深淵』『夜の時間』の3作が収められた本である。

作者の実子であり小説家でもある池澤夏樹によれば、連作として書かれたわけではないものの、作者にとっても3つの作品を纏めて『夜の三部作』という一つの作品だという認識らしい。

暗いタイトルから察せられる通り、上記の4つの概念のうち「死」を直接的に扱った作品群である。

今回は、そのうち『冥府』について感想文を書いてみたい。他の作品については気が向いたら書くかもしれない。

『冥府』は奇妙な死後の世界が舞台となっている。その世界においては死者達は新たな生命として「新生」することを待っている。新生の可否はその世界の住人――つまりは自身も新生を待つ死者――から選出された7人の裁判員によって決定される。その判決の基準は被告の生前の生き方や悔恨の度合いに対する裁判員の心象である。そして、生き方について、情熱が足りないとか、愛がないとか、そのようなやたらと抽象的で主観的な理由によって大半が新生を却下される。死者達はその世界で、出廷する以外の時間はすべて、生前のような生活を、惰性に、無意識的に、受動的に、繰り返しながらひたすら生前の記憶を思い出しては悔い続ける。便宜上、生前の生活と書いたがそこには生きた活動はない。あるのは永劫に等しいアパシーな、未来のない過去に沈潜するだけの、現在が続くのみである。

『冥府』は福永作品にしては珍しくシナリオの展開に凝った作品だ。主人公はただ自らが死んだ人間であるという確信以外に記憶を持たない状態から始まり、冥府での人々との出会いや、生活の中で徐々に生前の記憶を思い出すというストーリーが展開される。

福永武彦の文体はよく幻想的とか詩的とか称される。私も福永武彦が好きな理由の6,7割はこの文体が好きだからだと言ってもよい。

特にこの『冥府』ではどこか足元の覚束ない幻惑的な世界観が強く、その文体とよく調和していると思う。理不尽で荒唐無稽とも言える展開には『鏡の国のアリス』のようなナンセンス文学の香りも感じる。

『冥府』はその特異な世界観にも関わらず語りすぎない。しかも、その世界が当然にそこにあるというのではなく、それが特異なものであるという認識を持ちながらも、例えば主人公が死ぬ経緯だとか、どのような人生を送ってきたのかとか、当然地続きにあるべきものが断絶した状態から始まる。

『冥府』を読みながら強く感じたのは、小説は解像度のコントロールが自由なメディアだということである。例えば『冥府』に出てくる無気力な灰色の街を表現するにも、実写映画であれば無気力さを鮮明に写し取ってしまうだろうし、絵やアニメーションで表現するのも、おそらく露骨過ぎて文字ベースの媒体に浮かび上がるぼんやりとした像の巧妙さには及ばないだろう。過去との断絶という描き方もそうだが、「見せないこと」「語らないこと」「暈すこと」を違和感なく表現できることが小説の強みではないだろうか。

個人的にこのくだりを考えながらゲームのことがふと頭を過った。近年のゲームの3Dグラフィックはポリゴン数も多くなめらかなものが多いが、例えば『ICO』が(さらに)美麗なグラフィックでリメイクされたとして、あの地に足付かない童話的、あるいは神話的な陶酔が得られるのかは甚だ疑問である。もちろん『NieR:Automata』のように圧倒されること、感動することは勿論あるだろうし、それらが表現として劣っているということでは全くないが、ただそれは映画的なものであって、小説的な陶酔とは違うのだろうと思う。(比喩的な意味での)解像度が上がりはっきりと見ることが可能になったことで、メディアとしては失うものも少なからずある、という話である。

それにしても、裁判という行為は小説家を惹き付けるなにかがあるらしい。カミュの『異邦人』とか、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など、

法廷が重要な場面として登場する作品は枚挙にいとまがない。『異邦人』であれば法廷はムルソーの非合理的な行動がが人により恣意的に解釈される場であった。『カラマーゾフの兄弟』では恐らく法廷とは神なき世界の秩序の象徴であったと思う。だからこそ超越的な(つまり神的な)視点である読者が知っている事実と異なりドミートリイは有罪になった。これらの作品にとって裁判とは神ならざる人が人の作り上げた秩序(法)に基づいて解釈し裁く場所であるということが重要なのだろう。

その観点から考えると、超越者からの裁きと結び付けられて考えられる傾向にある死後の世界を、人の主観による裁きに置き換えた『冥府』の意図が少しわかるような気がする。ちょうど、現世を「秩序」と表現することからも読み取れるように、『冥府』の世界には秩序がない。ただしそれはアナーキーな無秩序とは異なって、虚無とかそういった概念のほうが近いだろう。考えてみると、例えば力が支配するような価値観は無秩序だとか言われがちだが、それは我々の持つ秩序に反するというだけで、ある異なった秩序の体系であると言えるだろう。恐らく、『冥府』では死後を意識された虚無、あるいは作中に言及のある「暗黒意識」と換言して良いと思うが、その世界として位置づけるために、秩序なき法廷による裁きを中心に据えているのだろう。

個人的には『冥府』では何らかの主張がしたいというより、死後の世界と「暗黒意識」を結びつけつつ、その世界によって発生するドラマを描写することを意図しているように感じた。というよりも、福永武彦の作風自体が全般的にその傾向が強いのだろうと思う。個々の作品一つ一つに明瞭な主張があるというより、福永的なテーマの下で美しく情動が発生する環境を作り、きめ細かく描写すること。それを繰り返すことにより帰納的に浮かび上がる何らかの真理に至ること。それが福永武彦が行った試みではないかと思う。だからこそ福永作品には特有の幽玄な印象があるのではないだろうか。

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