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障がいのある/医療的ケアを必要とする子どもたちと家族に様々な体験の場を提供したい~NPO法人AYA 中川悠樹さんインタビュー(前編)

■はじめに

映画を観に行こう。スポーツを観戦しよう。音楽のコンサートを鑑賞しよう。
普段、私たちが何気なくやっていることを、なかなか実現できない子どもたちと家族がいます。
「病気にかかってから外に出ることを諦めた」
「急に声が出たり、落ち着いていられないので周りへ迷惑をかけてしまう」
「常に医療的ケアが必要で、何か起こった時を考えると不安だ」
そんな子供たちの状況に応じて、スポーツ・芸術・文化を通して世界観が拡がる機会を提供しているのが、NPO法人AYAです。

代表の中川悠樹さんにお伺いした内容を前後編の2回に分けてお伝えします。前編では、この活動を始めるきっかけとなった原体験、団体を立ち上げるまでのストーリーをお伝えします。

中川悠樹さん
2009年 京都大学医学部卒業
救急科専門医・外科専門医・JSPO公認スポーツドクター・医師会認定産業医・旅行医学会認定医・JDLAG検定/E資格
三井記念病院、横浜労災病院での消化器外科、救急センターでの勤務を経て、ドクターヘリ添乗医、離島医療などを実践。様々な活動を行いながら、2022年1月にNPO AYAを立ち上げ、2023年6月に法人化、代表理事に就任。
【現在の活動】
●NPO法人AYA 代表理事
●株式会社Vitaars CEO補佐 / 国際事業部 / JICA 新型コロナウイルス感染症流行下における遠隔技術を活用した集中治療能力強化プロジェクト専門家
●エムスリー株式会社 Patient Support 事業本部門アドバイザー
●細谷透析クリニック 非常勤医師
●ふじの町クリニック 非常勤医師
●産業医(IT企業・サービス業・機械工場など約10社)
●IHL;ヘルスケアリーダーシップ研究会運営メンバー

■医師を目指すきっかけとなった原体験

――NPO法人AYAの代表を務めていらっしゃいます。AYAは「Action to Your Adventure」の略なんですよね。子どもたちが人生への第一歩を踏み出すような「冒険へのアクション」を後押しする、とても素敵な言葉だと思います。実はAYAにはもう一つ意味があるとお聞きしました。

(中川)はい。AYAには医師を目指すきっかけとなった「あやこ」の名前の意味も込めています。私の最初の友達「ひろあき」の3つ下の妹の名前です。ひろあきも私も0歳の時ですから、最初は私たちより母同士、今でいうママ友関係ですよね。私の家族は5歳の時に川を挟んだ隣の街に引っ越したのですが、その後も定期的にママ友会が開かれ、子ども同士も仲良く遊ぶ、そんな関係が続いていました。

ある時、ひろあき・あやこのお母さんと連絡が取れなくなりました。それはあやこが小学2年生になった頃です。

後になって知りましたが、とても元気なあやこが突然まっすぐ歩けなくなり、簡単な計算もできなくなり、ちょっとずつおかしい症状が出るようになったそうです。近くの小児科で診てもらっても診断がつかず、あれよあれよという間に歩くことも会話もできなくなり、発症して1年が経つ頃には寝たきりになりました。いろんなお医者さんに診てもらって、ようやく診断されたのが、亜急性硬化性全脳炎(SSPE)でした。幼少期に強い感染力のはしか(麻疹)に掛かると数年経って発症すると言われている、未だ治療法がない病気です。

――それは大変な状況です。連絡が取れていなかったということは、発症した当時は知らなかったのですね。

(中川)そうです。あやこの母にとっては周囲に伝えにくいことだったと思いますが、数年経って家族以外で最初に打ち明けた相手の一人が私の母でした。その後、ママ友としての関係が復活したのが、ちょうど私が高校生の頃。「うちの悠樹も大事な時期なのに進路が決まらなくて」と母が話したところ、あやこの母に言われたのが「悠樹、医者になってよ」という言葉でした。

私の家系には医療関係者はいなくて、全く考えていなかった選択肢でした。しかし、あやこの母の言葉はスッと入ってきて「医師を目指そう」と決めました。

――そして、決意の通り医学部に進学されたのですね。

(中川)はい、医学部に進学しました。

――その後、あやこさんにはお会いできたのですか。

(中川)あやこはSSPEと診断されたときに「余命1年」と言われていたそうですが、さまざまな治療の効果もあって、寝たきりではありますが宣告された余命を超えて長く生きることができました。20歳で亡くなりましたが、私は医学部に進学したころに会うことができました。

■医師として働きながら感じた「子どもの病気」とその課題

――その後、医師になられたのですね。

(中川)はい。医学部を卒業した後は東京と神奈川の病院で消化器外科医、救急医をしてきました。横浜市内の病院で救急医をしていた時は、2020年の新型コロナウイルス感染症の最初、あのクルーズ船対応もしていました。

――あのクルーズ船は日本中が注目していましたが、最前線にいらっしゃったのですね。救急医としても活躍されていた中川さんですが、いまはAYAの活動を進めています。心境の変化があったのでしょうか。

(中川)救急医として様々な患者を診ていく中で、自身で予防できうる病気と、自身ではどうにも防ぐことができない病気に対する捉え方が変わってきました。

あやこが罹患したSSPEのように、子どもの病気の中には自身では防ぐことができず、必ずしも治すことができないケースがあります。実は、あやこはお笑いが大好きで、地元大阪では毎週のようにテレビでやっている「吉本新喜劇を劇場で観たい」と言っていたそうなんです。ところが病気で寝たきりになってしまいました。行きたいと思っても移動がとにかく大変ですし、劇場が受け入れてくれるかわからない。結局、劇場に連れていくことができないまま亡くなってしまい、あやこの母は彼女の希望に応えられなかったことを後悔していると聞きました。

自身では防ぐことができない子どもの病気の場合、治っても障がいが残ったり、医療的ケアがずっと必要になることがあります。このような子どもたちが「病気や障がい、医療的ケアが必要という理由で社会に出て行きづらいのはなんか違う」と、頭の中のもやもやはずっと晴れませんでした。

――子どもの病気とその課題に対する思いを募らせていた中川さんが具体的にAYAの活動を始めることになるのですね。

(中川)そうです。AYAの活動を始めるにあたっては3つの伏線があります。

■1つ目の伏線 プロバスケチームとの交流を通じて子どもたちの機会をつくりたい

(中川)1つ目の伏線がBリーグ 横浜ビー・コルセアーズとの取り組みです。横浜市内の病院にいたこともあり、試合前イベントとして「心停止の人を救命する自動体外式除細動器AEDの使い方のレクチャー」をさせていただくなどチームと関係を深めていました。あるとき「クリスマスに小児病棟の子供たちを励ましに来てほしい」とお願いしたところ快諾いただきました。2019年のクリスマスに、ビー・コルセアーズの選手とチアリーダーに小児病棟に来てもらうことができました。「入院中も楽しいことはあるよ。そして退院したら選手やチアに会いに行こう!」と子どもたちの回復や退院への意欲につながるアクションに繋がったと思います。


クリスマスの横浜労災病院にやってきたビー・コルセアーズの選手たち①



クリスマスの横浜労災病院にやってきたビー・コルセアーズの選手たち②

■2つ目の伏線 NBA Caresのような社会貢献プログラムをつくりたい

(中川)2つ目の伏線がNBA Caresの存在を知ったことです。私は日本で開かれた2019年と2022年のNBA JAPAN GAMES開催時の会場ドクターを務めました。2019年の時に、サブアリーナで障害のある子どもたちが集まってイベントをしていたんです。話を聞くと「NBA Caresの活動だ」と言われました。

NBAがリーグとして公式に立ち上げたNBA Caresでは、貧しい子供たち、病気の子どもたちの支援をはじめとして、さまざまな社会貢献プログラムが行われているのです。日本でも実現できないか、と考えるようになりました。

■3つ目の伏線 バスケットボール女子日本代表のチームドクターに選ばれて

(中川)3つ目の伏線は2021年9月にバスケットボール女子日本代表がアジアカップに出場する際のチームドクターとして帯同したことです。

――はい、取材にあたって中川さんの情報を調べていたときに日本代表のチームドクターをされていることに大変驚きました。

(中川)実はこの帯同はいくつもの偶然が重なっています。2021年の秋は、まだ新型コロナが猛威を振るっており、海外渡航すると帰国後に待機期間を要するため、多忙な勤務医の先生方は参加をためらう状況でした。その時私は、ちょうど勤務している病院を辞めてフリーになったタイミングだったので、待機期間にも対応できる医師として、日本バスケットボール協会から選んでいただきました。

■日本代表に帯同したその日にポロっと出た本音

(中川)代表チームに帯同した初日、羽田空港に向かうバスでトレーナーが隣に座りました。ふと「中川さんは将来どんなことをしたいのですか」と聞かれました。私は何気なく「障がいがあることで不公平な立場に置かれている子どもたちが、もっと外に出ていきやすい社会をつくりたい」と答えていました。すると「それはとっても素敵ですね」とトレーナーの方はもちろん、周囲の皆さん誰もが賛同してくれました。

ずっと考えていたことではありますが、初めてお会いした方の質問に対して、自然と出た言葉に私自身が驚きました。改めて「自分はこういうことがやりたいんだ」と確信に変わった瞬間でもあります。これをきっかけに自分の中でスイッチが入り、「団体をつくろう」と動き始めました。

―― 一気に動き出したのですね。

(中川)そうです。早速、亡くなったあやこの兄、ひろあきに連絡をとりました。「病気や障がいがある子どもたちを応援する団体をつくりたいのだけど、宣言をしてもいい?」と。ひろあきは諸手を挙げて賛成してくれました。
2022年1月、AYAの前身となる任意団体がスタートしました。


■まとめ

中川さんがNPO法人AYAを始めるところまでお聞きしました。
後編では、AYAでどのような活動をしているのか、活動を通じて感じていること、課題や目指していることについてお聞きします。

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