見出し画像

都市昆虫採集

 繁華街の裏路地に入ると、建造物の一角や自動販売機・看板・電柱などに無造作に貼られているグラフィティステッカー。落書きと同様にステッカーを公共物に貼り付けることは非合法な破壊行為であるが、ステッカーが持つコミュニケーションとしての特異性や、ときに排除の対象として扱われ、ときに芸術として行政から迎合される両義性に強い関心を抱いた。

 だれがなんのためにステッカーを貼り付けているのか。犯罪行為に及んでまで叫ぶ声にはどんな意図が込められるのか。そんな疑問に対して自分なりに考察をしてみた。

 政党ポスターやチラシ広告といった「相手に理解を求める自己主張」を成す掲示物とは異なり、ステッカーは「必ずしも相手に理解を求めない自己主張」を成す。二つの主張は、対外的なベクトルを持つ表現という点では共通するが、コミュニケーションの観点では前者は対話的、後者は対立的であると言える。対立的なコミュニケーションとは、自己と他者(社会)との間に境界線を引きアイデンティティの確立と主張を行うものだ。ステッカーに関して言えば、公共物を破壊するという行為によって社会との対立を生み出し、自己の存在証明が行われる。したがって、ステッカーを貼り付ける行為そのものに主たる目的が存在するわけで、ステッカーのデザインやメッセージというものはあくまで副次的なものでしかなく、相手に何かを伝えたり理解させる類のものではないと考える。

 しかしながら、ステッカーやグラフィティ(落書き)の中にはユーモラスな皮肉を含んでいたり、意匠性に優れたものもある。それらはときに経済的な価値のある芸術として迎合されることがあり、たとえばオークションシュレッダー騒動で賑わせたバンクシーの作品などが有名だろう。都内でバンクシーらしき作品が発見されたときには、東京都が率先して保管し展示公開するという騒ぎがあった。

 本来犯罪行為として容認してはならないはずのものが、なぜか芸術として扱われ社会に受容されるという現象がとても興味深い。芸術として受容された作品は違法な存在ではなくなり本来の趣旨が失われ、芸術として認められない作品は違法な存在として排除される。その受容と排除の差に介在する行政は、定量化できない曖昧な価値基準に基づき合法か違法かどうかを判断している。マジョリティにとって都合の良いものだけをマイノリティから搾取するという構造は珍しいものではないが、行政までもが同じ対応を取るということは、この構造が社会に蔓延る原因なのではないかと思えてしまう。

 ぼくは今回、芸術として認められず排除の対象となるステッカーに注目した。価値の無いものだとただ単に排除の対象とするのではなく、それをまた新しい価値のあるコンテンツとして扱えないかと考えた。アウトサイダーと社会、マイノリティとマジョリティといった対立関係を成す壁を崩す一つの鍵になるとぼくは期待した。

 まずは、ホームセンターで買った剥離剤とスクレーパーを携え、西武新宿駅前から歌舞伎町の一帯にかけてステッカーの収集作業を行った。都市景観の保全に努める社会奉仕活動と称して作業に勤しもうと心がけたが、夜勤明けのホストやホテル街を彷徨うカップルに冷ややかな視線を向けられ少しばかり精神的にこたえてしまった。また、雨風に晒され風化したステッカーは上手く剥がれず、さらには歌舞伎町交番のお巡りさんに話しかけられたりと紆余曲折したものの、2時間ほどである程度のステッカーを収集することができた。

 作業の途中、ぼくは懐かしい感覚に襲われた。カラフルな配色、材質の違いによる様々なテクスチャ、系統化できるデザインから、小学生のときにやっていた昆虫採集を彷彿とさせられた。街の一角にうごめく声にならない存在証明を受け入れ標本する、都市昆虫採集と名付けた遊びを発見し、これだけでも新しいコンテンツの生成なのではないかと感じた。日時と位置情報を紐づけしたデータを与えたり、特徴ごとに分類して図鑑化するのも面白そうだ。収集したステッカーから何かプロダクトを作ってみたり、最近ちらほらと耳にするNFTアートとして扱ってみるのはどうだろうか、、などと想像が膨らむ。しかしながら、都市昆虫採集は厳密な法解釈に基づけば遺失物横領罪に抵触するのではないかという指摘もあり、犯罪を収集する犯罪になってしまうなハハハというジレンマを抱えている。あくまでも社会奉仕活動だという設定を主張したい。

2020/3/16 chang

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?