0523

あさ。昨日は本をとにかくしまえるところにしまっていくと、なんか部屋が広くなった。とりあえず今読む本は『他者と生きる』のみにしていこうと思う。今は書きながら日経テレ東リハック松井さん回を聞いてる。

ふつうに考えると将来こうなる(人口推移グラフとかね)のはわかってるけど、みんな現状維持でいい、ややこしい、関西人のよく言う、いや職場で15年ぐらい前にやたら仕事の推進力を削いでいたのが「ややこしくなる」という言葉だった気がする。
相手はややこし(く)なるの内訳を喋らないけど、そこでなんか止まっちゃうってことが多かった。今は誰も言わなくなった。
何が布石として打たれてそうなっていったのかは措くとして、

それをじぶんごとのリスクとして引き受けるには、レトリックが必要である、というのが『他者と生きる』に書いてあった。心房細動、最近TwitterでApple Watchが発見してバズってたあれのリスクを、医者が患者にリスクとして伝えるには「血が澱んで血栓になって脳にいくと脳梗塞のリスクになる」というより「長嶋(茂雄)さんのようになる」と言ったほうがてきめんに効いたって話が載っている。

じゃあ、日本がやばいのだとしたら、何のようになると言えば一番わたしたちが堪えるのだろうか。

とはいえ、「日本」が堪えても仕方ないし、今この国で生きてる人の状態や場所などによって合わせてレトリックを変えなきゃならない。
というか、そもそもがこのレトリックを使わなくていいような人が逆に聞きすぎてる問題があるような気もする。というかひろゆきが言ってるのもなんかいつもそういう問題(疑問?)を言ってる気がする。

わたしもこっそり「どうでもいい」を隠し持ちながら「そんな義理はない」と思いながら、いろんなことを所与のものと受け入れたふりをしつつ、いろいろざっくり欺いて生きてるということはある。

だから、逃げ切り体勢に入れるゾーンというのをぼんやりと計算していて、それがリスク計算みたいなものに近い。

この逃げ切り、というのはわたしは経済的な条件ではなくて、書いたことを実名で発表して何もくらわない絶対安定圏みたいなものを目指している。それ(実名)と、自分の残り人生をつなげられそうな地点を遠くにみながら生活している。

今は別に名前を出さなくてもいいのだが、わたしは書くものがどうにかなるとは思ってなくて、ただ書いたものと、自分というものをとにかく統合したいという気持ちが強いだけ。

それが65歳なのか70歳なのか、それとも今なのかは知らないが、それまでは基本的に「知るか」という気持ちでいながら、もらえるものはもらいたいなぁとおもってる。

これは家電の液晶画面の上に貼ってる保護シートをいつめくるか、みたいなことに似てる気がする。

買ったばかりの家電の画面にはなんか角がめくれた保護シートみたいのが貼ってあって、時々「剥がしてお使いください」と書かれてる。けど、剥がさなくても使えるから、そのまま使う。

もし今剥がしてそっこうで傷がいったら、損&ガッカリである。

かといって家電を使い倒して買い替えるまで結局剥がさなかったって言うのも「なんかもったいない」。

だから、2年目のある休日の昼下がり、ふと、みて、なんとなく、剥がす、ということがあったりする。

数日前にアリナミンの瓶の詰め物についての注意書きをおもいだしてみよう

(4) ビンの中の詰め物は、フタをあけた後はすてること(詰め物を再びビンに入れると湿気を含み品質が変わるもとになる。詰め物は、輸送中に錠剤が破損するのを防止するためのものである)。

アリナミンEXプラス説明文書 保管および取扱い上の注意より

これは、リスクの説明だけど、いい人だけど、これでは「伝わらない」という話である。なんかもう「詰め物を戻してダメになったアリナミン」の写真のほうが効くかもしれない。

家電の液晶の初期保護シートもそうだが、アリナミンの詰め物もそうだが、あとは急須の先っちょのやつなどもそうだし、バターやマーガリンの薄い紙もそうである。

バターとマーガリンの薄い紙はいったんおいておいて



たぶん、家電のシートや急須の先のやつ、アリナミンの詰め物は、輸送時の破損を防ぐものである。

ただ、急須の先のやつと保護シートは少しニュアンスが違う気がする。
ニュアンスというのは、こっちの対応として、そのままにしておいてもあんまりめんどくさくない。あとはそれをとると、その時点から輸送時と同じリスクが発生するということ。
急須なら、先のやつをとった瞬間から、先が欠けるリスクが発生
保護シートは、とった瞬間から、液晶に傷入るリスクが発生
どっちも、とらないでいいならとらなくてもいい

アリナミンの詰め物は、毎回詰めるのもめんどうだし、瓶は置いてしまえばあとはそうそうなことで中の錠剤が割れるリスクも発生しないし、何より、ぱっと見で捨てて良さそうな感じがする。これがもうちょっとちゃんとした栓みたいな構造物だったら、戻して使う人も結構いるかもしれない。

これはドラゴンボールとかで、ここからが本気だ…みたいなものとも似ている。重いのを取るとかである(片腕で数十キログラムのリストバンドをとるなど)。

じゃあ、液晶保護シートとか、急須の先をとったら、そこから先は「本気」になるのだろうか。

この場合の「本気」というのは「リスクを背負う」ということである。緊張関係がうまれるということである。

ここから本気というのは、現状から更にブーストするということである。じゃあ、液晶のシートを剥がしたり、急須の先をとってブーストするものは何か?



歯磨き粉のチューブをどこで「使い切った」と判断するか。といった問題と同じ問題かもしれない。しかし、急須の先のやつや保護シートは、その「使い切り」の判断が極めて難しく
「ほとんどあってないようなもの、どっちでもいいようなもの」つまり判断すら必要としないもの、現状維持で問題がないもので、個人がどれだけ「それ」に対して存在理由を理解しているか&とったことによるリスクを理解しているかに委ねられている。

歯磨きチューブをどこで捨てるかは、時間とコストをどこまで自分が許容できるか、どこまでコストを時間に置き換えられるか、あるいは親指の健康をとるか、時間をとるか、歯磨き粉をとるか、新しいチューブを使うか



しごと



(使わなかった部分)
いうなれば、急須のさきっちょのやつはアリナミンの(4)でほぼいける。あれは商品出荷時の欠けを防ぐもので、そのまま使ってると雑菌が湧くから外せ。である。違うかもしれないけど
ただ、ここに保護シート的論点が加わってくる。つまり商品出荷時の傷や欠けを防止するために取り付けた部品が直面するリスク要因が通常使用時にも残っている場合は、それを取ったその日に急須の先が欠けてしまったら
「これなら付けておけばよかった…」ということになるし
保護シートも外してすぐに傷がついてしまった…「こんなことなら剥がさなきゃよかった」

(使わなかった2)
だが、人生と同様に、剥がさないまま死ぬのはいいことなのか、剥がしたあとの人生が肌感覚的に、ぼんやり周りやニュースをみてる感じだと、あと10年とか15年ぐらいかな、と把握しているとき、あるいは街角でビアンキに乗って新品の衣服で駆け巡ってる元気なお年寄りを見たとき、
「もっと早くにやれたのではないか」とおもうか「ああ、まだまだ人生は楽しめるんだ」と思うか。

私は感覚として、前者に近いから、いつか実名で書く(書いたものと自分自身が繋がる)ということに憧れを抱いてる。でもそれは今じゃないと思ってる。

楽しく話しているお年寄りはどうか。他者と会話するお年寄りにはさっきみたいな価値判断は出てこない気がする。
「新品」の「モノ」に身を包んで「ひとりで」「楽しんでいる」ように見えるとき、わたしはお年寄りに対し、さっき感じたような
「もっと早くやれたのではないか」を感じる
つまり、これは金でどうにかなる問題に見えるから、早くやれたのではないかと思うのだと思う。


(使わなかった3)
バターの薄い紙、これはどういうリスクだろう?


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