0704

あさ。「シン・タイプ2エラー互助会(仮) 序」というものを考えていた。

精神分析の歩き方を読んでいて、今たぶん結構さいごのほうまできてると思うのだが、タイプ1エラー、タイプ2エラーという話がでてきた。
偽陽性と偽陰性の話らしく、わたしはこういうのを見てパッと理解できないのだが、偽陽性は「そうじゃないのにそうだと思うやつ」で偽陰性は「そうなのにそうじゃないと思うやつ」みたいなことらしい。
ウィケペディアだと「第一種過誤と第二種過誤」と書かれている。

なんだろう、見過ごし、取りこぼしのパターンっていう感じだろうか。
いや、これはタイプ2エラーのほうだけか。
病気じゃないのに(手術)やっちゃったみたいなのがタイプ1。病気なのにかえしちゃった、みたいなのがタイプ2。ってことか。

で、これは援助希求性の話に繋がるな…と思ってるところに和田秀樹さんのコラムをたまたま読んでて

中高年以降にも広がり続ける「引きこもり」

多くの患者さんだけでなく、世の中全般の人たちを精神科医の立場からみると、この手の素直に人に頼ることができないでなんらかの形で苦しんでいる人はとても多いように思えます。
人とうまくつながれない、そのように安心してつながっている感覚がもてないので、なんとなく疎外感を覚えているというような気がします。
実は、この疎外感こそが日本人の心の問題の中心テーマだと私は考えるようになりました。

現代日本人の心理を読み解く重要なキーワード「疎外感」
和田秀樹
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/%e3%80%8c%e7%96%8e%e5%a4%96%e6%84%9f%e3%80%8d%e3%81%ae%e7%b2%be%e7%a5%9e%e7%97%85%e7%90%86/16933/2

「おじさん(中高年)の援助希求性って、なにかとタイプ2エラー的に見過ごされがちだな…」とおもったのだった。

簡単に整理すると、

中高年のひきこもり(というか、素直に人にたよれない、身近な人がいない社会人でもよい)というのを病理として捉えた場合、それは援助希求性の乏しさと言い換えることができ、また、それらは福祉や医療の網からもタイプ2エラー的に(というか社会的に)とりこぼされている、ということを考えた、ということになる。

(まあ、自由を与えているぶん、自分で頑張れや、みたいな雰囲気を国のお墨付きで作ってるというか、国は雨降って地固まるのを望んでいて、あえて雨を降らせている(これは会社や転職の関係においてもそうだ)が、「雨」によって、萎縮したり、動かない選択をとる人間に対して手を差し延べるきっかけを、もう何十年も失いつづけている。←これは国ではなく、人が。
そういう意味では、強烈に現役世代を淘汰をし続けているが、ある年齢に達すると急に福祉的になる(これもいつまで続くかわからないが)状況である、と私には見える。つまり、「溜め(湯浅誠)」がない人が「雨」をみたときそれをどのように捉えるか、といった想像力。「服屋に着ていく服がない」への想像力とその限界、境界。 追記)

今書いてみて援助希求性の乏しさとタイプ2エラー的なものの距離じたいがまずかなり遠いな、ということである。
つまり、タイプ2エラーは、この場合は診る人の過誤(見逃し、取りこぼし)によって発生することになっているが、和田秀樹の見立てだと、すでに日本社会は構造的にタイプ2エラーで援助希求性の乏しい者を疎外するシステムが仕上がっているし、ほとんどは素直にそれに従っているに等しい状況である、ということ。

もっと砕いていくと、自分のことを特に今現在病気だとか思っているわけじゃないが、あと10〜20年、いや今でも、もし足をくじいたら意外とそこで一気に詰み始めるかもしれない、と漠然と思っている状況のまま、手がかりをつかめずにとりあえず働いたり、とりあえず家にいたりする人がものすごくたくさんいる、っていうか私も予備軍である。予備軍というのがやっかいで、「今困らないことに困っている」みたいな状態だからである、むしろ今精神が病んでいれば心療内科にでもかかれるのだが…といった状況。わたし自身も胃をいためなければ(胃を痛めて、胃カメラその他すべて検査して機能性ディスペプシアだと判明し、さらに熟考したすえだが)クリニックにいくきっかけがなかった。

サードプレイスにいっても、援助希求性というか、単純に人にたよることができず、開襟できないまま短期間で去っていくことを繰り返すのだとしたら、それは本人の問題か、場というものの過誤なのか(そうじゃないと思ったらそうだったのか)。

もう少し進めると、まず中高年の容姿というものや、中高年の行き着く先というものじたいが漠然としている。つまり、ゴーギャンのやつである。彼らはどこからきてどこへいくのか?みたいな感じの想像力として、中高年がここを去ったあとどこへいくのか、についての(予後の)見立てが日本全般で非常にあまく、また中高年というものを何か強いものであるかのように、また一皮剥けば敵になるような存在であると引きずっている状況、なのかな…わからないけど。

有象無象の中高年と、いい中高年(メディアに出てる人など、時々しょっちゅう裏で悪いことしてるけど)、悪い中高年(仕事できない上司、怖い上司、臭いおじさん、目が勃起してるおじさん、犯罪者)

なんか、このうち、今書いてみて思ったのだが、むしろ「犯罪者」のすっきりした感じはなんだろうか。むしろおじさんがロンダリングされて犯罪者のほうがなんかシュッとした感じになるのはなんだろうか。
これだったら「臭いおじさん」から「犯罪者」のほうがなんかちょっとシュッとしてるから犯罪者に靡いてしまうのもわからんでもな…
いやいやいや、ちょっと待てぃ、俺は臭いかもしれんが犯罪はおかしたくない。

おじさんというのは、親か、益をもたらす益虫的おじさんしかいないのであって、それ以外のおじさんというのは十把一絡げにおじさんなのである。そしておじさんの中に援助希求性の乏しい、鈴木志郎康の言い方をすれば「目の糸の途切れた」人たちは、毎月区民新聞、市民新聞などを読みながら「はぁ、60になるまでこういうのは受けれへんのか…」ということでまた自分でサードプレイスを探そうとして金を使うのである…〈了〉

了じゃない。

おじさんの「実は困ってる」をあぶりだし、インクルー↑ジョンするにはどうすればいいのか。
自力でバイクとか、楽器とか、文芸とか、ペット、植物、など、これに加えてネットというリーチを累乗させることができる層と、まったく逆に、趣味もなく、ネットで何も楽にならない、繋がれないからむしろ苦痛であるっていう層に二極化している。
これは端的にプライドとかへりくだりの問題でもあるが、要はもう人里に降りれない、何が楽しいのかわからない、また人里に降りて初学者として生きるのが恥ずかしい…死のう…と本人が思ってるという側面もなくはないけれども、まあここでパターナリズムを発揮するとまた山に戻りますのでよろしくおなしゃーっすって感じで、またそこで「いい歳して」とか背中にボソッと呟かれようものならもう一生山から降りてやるもんか!と深く深く傷つくわけである。
俺は別にバイクでSA(サ)とかにたむろしたりしたいわけじゃない。ただ単に友達と一緒にブックオフを回ったり天一食べたりしたいだけやねんや!
スラックス履きないねん、よれよれの服と短パンと草履でガリガリくんかじりながら街歩きたいねん、春もコートなんか羽織りたないねん、もっと俺は子供やねん、みたいなことである。

人類がそうであるように、おじさんというのは多様である。おじさんはダイバーシティである。おじさんは案外マジョリティのふりをしたマイノリティである。一部上場おじさんとそれ以外みたいな感じである。
平日何してるかわからんおじさんにも、人好きのするおじさんとほんまにやばいおじさんがいて、そのあいだにも当然スペクトラムおじさんが存在する。
これらおじさんの多様性をなんとかしてキャンペーンを打って全国民に知らしめなければならない。

親族、ダンバー数の中にぎり入ってるおじさん、圏外おじさん(警戒すべきおじさん)毎朝なんか見るおじさん、2分遅く家を出るといつもよりちょっと進んでるおじさん、まあいろんなおじさんがいる。
おじいさんになるとまた安全というか、すいもあまいも噛み分けた感じとゆるさがあいまってるイメージがあるので、無害感が増すが、おじさんになると、まだなまじ現役なのでちょっと勃起しそうかも、みたいな危険性がある。
つまり、「い」が重要である。おじさんだと、ちょっとまだ残照というかギラギラしたパターナリズムがジャックナイフのように突如現れて人を傷つけるかもしれないが、おじいさんになると、日が完全に落ちて枯淡(こたん、坦々麺 小の略称ではない)の域に入ってる気がしてちょっとこっちが胸を預けやすくなるところがある気はする。

援助が必要なおじさんをいかに見極めるか。また、おじさんの溜まり場、あるいはブックオフを友達と練り歩きたいおじさんをどうやって社会に認めさせていくか。成長モデルからこぼれたり、援助からこぼれたり、いろんなものからこぼれた人、というものを掬う場所はどこなのか。これからも考え続けていきたい〈了〉

了じゃない。

君は21エモンの「ゼロ次元の恐怖」を知っているだろうか。
あらすじはこうだ。

(つづかない)


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