0705

あさ。やっと最終章にきた。精神分析のいまとこれからを、ライン工が読みます。

ときどき本を読んでいると、読んでいるつもりで全然違う方向に何かを考えていることがあって、さっきも「ワークソングを歌う権利(歌わない権利)」とか思ってて、これは一体なんなのかと思っていた。

ワークソングというのはもう世間話でもいいわけである。HACCP的にクリティカルなポイントのみ意識を高めてもらえれば、あとのサイクリックな作業においてはワークソング、今だとふつうに世間話でもしながら、あるいは自分の中のリズムや妄想に浸りながらでも作業すればよくて、極論を言えばお客様とか品質のことなんかそっちのけで仕事すればいいわけである。それぞれが波にのってれば、(まあのらない権利もあるが…)いいわけである。

客商売というか、営業や販売、皮膚の部分、接点なんかだと、今言った感じで仕事するのは厳しいかもしれないのだが、工場内においてはそこまで品質を作り込むんだと意気込むのも、もうヤメにしないか?って感じはする。
なんか、川の水のミネラルを抜いて、またミネラルを添加しているような虚しさがある。
QをCしているというのはほとんどこういうことなんじゃないかと思う。
自然界のものを滅菌してからコントロールして再度添加したり、再加工したりするようなものばかりで、だったら最初から自然のものでよかったんじゃないか、みたいなことはよく思う。オーガニックの認定とかブルシットジョブの最たるものなんじゃないかとか。
もう農薬を撒いてる農夫も「自然」と捉えて、農薬も自然にしてしまって、それごとオーガニックってことにしてしまえば世界は全オーガニックである。農薬(や化学肥料)の成分じゃないか!と怒鳴り込まれても「込み込みでオーガニックなのです…がちゃん」と電話を切ってしまうぐらいの気概を心の中に密かにもっていたい。

そういう話をするんじゃなかった。精神分析の歩き方の最終章をちょっと読み始めたところ。
野口さんという人が現代には3つある、なにがあるんだというと、現代、つまり今この2022年ぐらいを席巻している理論というのが3つあるんだと。
個人化の理論、リスク社会の理論、当事者性の理論があるんだと。
これらによって、わたしたちは、大きく言うと「専門家のエビデンスと当事者のナラティブ」がバトッてる世界を生きているのだと。
リスク社会というのは「回避の物語」を作り、専門家のエビデンスと結びつく。それらと、個人の主観的な当事者性がバトる。

てめー勝手に語るんじゃねー理論と、めっちゃ調べましたけどキリッ理論の頂上決戦が現代、ということになるらしい。

で、やっぱりこれも詩だな、と。詩の世界であると。

転載、引用、公開禁止の旨が書かれているため、わたしがしてもいいと判断したのはURLの紹介まで、ここまでで、先は読んでほしいと思います。

これは実質精神分析の歩き方の最終章の前、モチベーション論、パターナリズムの問題で出てきたものと重なるところがある。詩の批評についての問題である。

詩の場合は、テキストとして提示されたものがあり、その後ろ(?)に作者がいるという構図があり、読者がいる。ただし、精神分析的にセンシティブな部分があって、これは作者が自分と切って離せない問題であるというようなものをそのまま持ち出す可能性があるということで、ようは、特にインターネット上では、まだ自分の中で終わっていない話を書いてしまう→サイトポリシーによって判断され、批評されて傷つく、みたいな構図が2000年代にわたしがみてきたネット上の詩の雰囲気だった。
なぜその時代かといえば、そのあたりで投稿サイトが興隆してきてたからで、現代詩フォーラムが(インターネット上に)できた時はどどっとなだれを打ったようにさまざまな書き手がそこに集って侃侃諤諤やっていたわけだが、それももう20年前になるじゃろうか…
なので、1996年あたり〜このとき(2003〜2004あたり?)までにインターネット上で詩を書く/書いたときに発生する問題のバリエーションはかなり提示され議論されていたりする。で、そこで議論されていたことと、精神分析の歩き方は響き合うところがある。

詩という「作品」を扱う部分において、その作品に対する批評というものが作者本人を傷つける可能性について論じられ、それを窮屈に感じた人間がまた批評が自由にできる空間をつくり、サイトポリシーによって、モチベーションをふるいわけするようになった、というふうに整理することができる。ここに、紙媒体とネット、という対立の構図があり、パターナリスティックな傾向が対個人、対媒体(旧弊な権威主義に対するカウンター)に発生した。

このなかにはいい作品なのに批評させてくれないし、広めさせてくれない、といった場合もあっただろうし、そもそもが連絡先が途切れている、あるいは連絡先がこころもとない、感覚的にもうやってないだろうな…という感じなど、さまざまなパターンがある。

詩ねオンライン
https://www.oocities.org/asia/sinesine_dn/
承諾を踏むと体感的に怪しい感触がしたのでスクショ公開にした。リンク先は自己責任で。

ここでは、先の「勝手に批評するな。」ではなく、「勝手に批評しろ。誰にも言うな。」のルールが適用されている。つまり、人間関係が徹底的に回避され、作品と批評だけの空間が目指されており、そのためにアンダーグラウンドが志向されている。これはパターナリズムは社会に向けられており、ただ自らのサイズ感を内面化した結果、地下に閉じこもった、ということなのかもしれない。外に打って出て、権威性を演じる場合は、文学極道的な路線となるのかもしれない。

精神分析は常に生きている人間に対して行う問題だが、残されたネット上のテキスト、遺跡的、遺構的になっているものに対する「人間」への判断をどうするか、といった問題はいまだにネット上に残り続けている。
(そして、遺構的なものへの配慮は自分の中にまだ一応残っている)
ここを案外軽やかに蹂躙する、あるいは乗り越えていくのがSNSであったりするのかもしれない。
SNS上でその事実を知る可能性、確率は、ゼロではないが、そんなに高くない。ただクラスターが煮詰まってくると、一気に遭遇の可能性は増す。

精神分析の歩き方に書かれていた、アセスメントやモチベーションの確認と、治療法の確認や、他に繋ぐか、ここで治療するかの判断を含め、そこには治療者とクライエントの非対称性があって、パターナリスティックにならざるを得ない側面はあるが、悪きパターナリズム(いやよいやよも好きのうち的なもの)は排除していくことなどが書かれていて、このへんをインターネット上の詩界隈は、当時どのように議論していたのであろう、というようなことを考えていた。

つまり急に暴力的な批評というものが、自分の作品に降り注ぐかもしれないという恐怖を感じながら「作品を公開したなら当然覚悟して然るべきだ」と脅される、というか詰められてしまう。まあ論理的に考えれば理がないわけではない。
作品を公開したということは、他者からの感想や批評を受ける可能性があることも含みおいたうえで公開しているのでは?ということである。
ただ、本にもあるように、人間の意志というのはひとつではなく、複数が蠢いているのであって、公開したいけれどもそこまできつい批評なんかは求めてなかったりするわけである。
かといって微温的コミュニティへ行け、と言われたら、それはそれで厳しい…みたいな問題がある。
実際言葉に対し非常に峻厳な人で、かつセンシティブな性格の人というのもいて、そういう人は微温的コミュニティにも、かつ批評的なコミュニティにも属せないという問題が発生してくる。
じゃあ個人が公開場所を選択して、それ(公開場所のポリシー)によって、あらゆる角度からの想定内外の感想や批評や罵倒、晒しなどに耐えていかなければならないのか。
現代では、すでに公開場所のポリシーはほぼ社会的な道義や法律をごちゃ混ぜにした変なもの(集合意志???)によって蠢き、靉靆している。
SNS上でも小さく閉じていればそのクラスタ内で適切ないいねをもらいながら生きていくことができる。
昔はそこまで大規模なSNSがなかったから、みなが集うひとつの場所でポリシーの違いでさまざまな諍いが発生したが、現代ともなると、汎用的すぎる側面はあるにせよ、個人の時間を串として、それぞれが蛸壺的に作品を発表できるようになった。
パターナリスティック伯楽もいたかもしれない。なぜもっと世界へ打って出ないのか?みたいな。まあそこは、才能を感じるのかもしれないけどさ、生活に戻りたいと思って書いているかもしれないからさ…
やはり詩を書いていても、いつかは生活に戻りたいという欲望を微かに残しながら、テレホーダイの時間だけは別人格?自分自身のとある一面を吐露したくなったりもしたわけである。
みんないつまでも詩と関わっているわけにはいかないけれども、ときどき、詩のことをふと思い出して、ログインしたりもするわけですね。
なんかよくわからなくなってきたけど、まあそういうのも大事だよねって話です。
しごと

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