0911

207→208
最近は首の後ろまでくるようになった。あとはキーボードを踏んでHomecomingsを流されたりした。
最近読んでる本は

チャップ・ブックの世界 近代イギリス庶民と廉価本 小林章夫(講談社学術文庫)

どういう流れで読んでいる本だったか忘れかけていたが
おそらくはZINEからの流れで
ZINEは昔あおばさんが現フォのコメントでペーパードライブというZINEを教えてくれたことと、鈴木志郎康さんの「読者限定公開無用雑誌」の発明という記事(http://www.asahi-net.or.jp/~ee1s-ari/sirouyasu.html#anchor471653)を読んだりなんかして、そのあたりからの流れだった気がする。

同人誌とか個人誌で自身の興味と適度なオシャンティをあわせもったものとは違くて、チャップブックはもっと商業的要素(とにかく儲けたい)が剥き出しかつ拙劣であるゆえにカオスであるといった感じがとても好きだ。どっちかというと今のYoutubeとかのほうが近い気がする。ふだんみんながなんとなくの興味で読むもので同好の志で回す、なんとなく紙でできたちっちゃこいフィジカルにそそられる…という人にではなく、スポーツ新聞みたいに読まれるようなものや、検索して出てきた記事に挟まれてる広告など(鼻の毛穴の角質を、拡大した鉱石の結晶体みたいな画像を貼り付けて「びっしり」「ごっそり」とれるとうたうものや、しみ、そばかす、あとは旦那が夜気持ち良すぎておどろくとか)なんかそっち系に近い。
今のZINEの系統よりも、今の金儲けのために作られてる有象無象の雑い広告の中のほうにこそチャップブックっぽいものは散りばめられていて、個人的にはそういうのも尊い気がする。今だったらビビットアーミーの画像とか、魚がちっちゃい粒を食っておっきくなって130の魚に飲み込まれるとか、かんぬきを引いて財宝が溶岩に流れて溶けていく広告に「スマホを食べます!」とかいう謎の人物がくっつけられて(広告を出す主体が)少しずつ進化していってるようすや、塔にいる5のやつを倒して9になって13のやつに挑んで殺されるやつとか、同じマンションのブログを誹謗中傷して踏み倒したら強制執行されかけて「君は異常だよ?」って言われてる漫画の広告とか、こっちのほうがどっちかというとチャップブックの理念(そんなものあるのか?)を持っているように思う。ただ、私はそっちにはいけない、というか、やはりチャップブックは個人事業主〜経営者が作る儲けるためのぞんざいな仕事の中でつくられるぞんざいなもの〜ちゃんとしたものまでのピンキリなのであって、なにかこう、個人のピンキリとは少し位相がずれてくるような気がするのだ。賃労働として、業者は経営者からいかにくすねるかを考えていて、経営者は業者の仕事のよしあしまでを管理できていない。ただ飛ぶように売れれば増産し、他に売れているものがあればパクって抜粋して売るという、今の倫理ではきびしい感じの状況の中で生まれるなんでもありな感じがよんでておもしろい。なんかこの感じは憧れてしまう。
人がほしいものに忠実な動き。クオリティ偏重ではなくただ金がほしいという純粋な動きによって生まれるじゃっかんぞんざいな、原価に忠実な本。
それに比べると個人が労力を赤字前提で払って作る小冊子のような媒体は、純粋であるがゆえに、なにかが曇ってしまっているというのか、なんとなく不純であるというか、不実であるというか、本音のようで本音でないというか、自分を綺麗に見せようとしているというか、そもそも自分を(あるいは自分の興味を他人に興味を持たせるように)見せようというところに力点が置かれることによって、期初の目論みからはずいぶん不純なものに成り下がってしまっているのではないだろうか? と思えなくもない。本が丁寧だった、本は尊重されるべきだ、という流れとはまったく別の唾棄されようが一向に痛痒を感じない広告や媒体のしぶとさは普遍性、そういう位相がかつてもあったし、今もちゃんとあるってことが嬉しいし、どちらかといえばわたしはそっちのほうに行ければ(そういう装いでものがかければ)もっとも居心地がいいのだと思う。メモ。


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