ぼやんと読んでる…っぽい

「私の詩論大全」は小林秀雄のとこまで読んでいるっぽい。そこでランボーが出てきてランボーってよく聞くけど知らないなぁと思ってwikipedia見たらなんか人生無茶苦茶というか行き倒れになって実家に戻るを繰り返しててRPGでHP0になってアリアハンに戻るみたいな事をずっとやってて、なんか若いうちに詩をやめて貿易商みたいになってアフリカに行ったみたいなのはぼんやり知ってたけど北斗の拳の襤褸を纏って砂塵にまみれてる感じで50歳ぐらいでアフリカの砂漠にいるイメージで捉えてたら、この人自体がそんな長生きしてなくて37歳とかで亡くなってるので驚いた。
あとはこのへんの1800年、つまり19世紀の順序がいまいちわからなかったのでwikipedia見比べてたらボードレールのほうが先でランボーが後だということはわかった。あと谷川俊太郎の世界へ!で名前が出てきてたヴェルレーヌという人はランボーと一緒に放浪しまくって最後喧嘩別れみたいになったらしい。

最近思うのは文化資本とかソーキャピとか仲間の問題である。親と仲間。母と仲間。これはある意味あの人、自己心理学の、、、
あの人、コフートである。
父は? というと、これはどうなんでしょうね。野望と鏡と双子だったか、野望は自分でいいんじゃないかと思うので、鏡と双子があればいいというか、シンエヴァ見てる感じだと父母(養育者)はセットで鏡なんじゃないかと思ったり。
槍でやり直すんだ(Q)が野心だとすれば、槍で終わらせるんだ(シン)のシンジ側が双子で、両親側が鏡。
二次元の世界?の双子と鏡の相克みたいな。
鈴木志郎康さんの(雑誌に発表された)最後の詩も、お母さんと呼んだことがなかったから始まり、仲間を得たのだで終わっていて、それも象徴的なことだなと、わたし的には思う。
というか、その詩によって、私は「仲間」について考え始めているのだと思う。
あと、ぼざろでもそうだけど、親がある種の技芸に実は太いというか、無意識に受け継いでる部分って結構おっきいなと思ったりする。
たぶんそれは場所とか位置とか調度品とか、そういうものでもちゃんと影響されているもので、ちょっと忘れてるだけだったりするのかもしれない。
あと、なんだかんだで途中に野球とか体育会系を挟んでると地味におっきいなとか。
地味にプロフィールに圧縮されてるけど「あった」とか「やってた」みたいなことってサバイブしてる重要な要素なことがあるのかもしれないけどそれは後から思い出してることが多い。生存者バイアスというのも結局その太さを忘れてるってことの裏返しのような気もする。もちろん運や才能もあるんだろうし、そのペアリングや噛み合わせもあるのだろうけれども。。。
小林秀雄の表現論みたいなのを引用していて、何回か出てきてるのがexpressionというのを表現と訳すのはまずくて、本来ならミカンを圧し潰してミカン水を作るような、なにかを圧し潰して中身が出てくるようなイメージの言葉だから、そういうふうなのが表現なのだと言ってる(気がする)。
これがさっき言ったプロフィール内の圧縮されてる部分のような気もする。
実は言ってなかったけど…
というか、忘れてたというか本人にしたら空気だったというか「そういやそうだった」というか、ある意味特殊だったところを忘れて適応してるから社会でなんとかなってるわけだが、まあ特殊でもクラスタを移動して特殊が適応するところまでシフトしていくことがあることもあるから、そうやって均されていくところはあるのだろう、幸か不幸かはわからないけど。
才能とかそういった見えづらくなっきてる資本(太さ)によって発生するピーターの法則みたいなもんによって今の人間は蠢きひしめきあっているのだなあ、ということを思う(思うというか途中からは適当に書いているだけだが…)
しごと

あとは詩論の中によく世界把握みたいな言葉が多かった気がするけど、今の時代そんな世界把握とか世界認識みたいに大それれるか?と問われるとけっこう厳しい(気がする)。

あと、表現の圧という意味でいうと、特にそういった世界というか、社会でもいいけど、やみにやまれず書き殴るタイプの世の中の圧によって圧し潰されて出てくる表現もあるけど、今単純にこうやってテキストボックスやフォームに向かうことによって現代の人は何かと書く圧によって常に圧し潰されてて表現させられてるという言い方もできるし、逆にもっと肩肘を張らずに書いてもよい。というふうにも捉えれる気もする。
けどやっぱり最初に外からの圧(生きづらさ?ストレス?)によって書き始めたはずの人が段々とネタがなくなってくるというのか、書くために書くようになってくると、その圧がだんだんとテキストボックス(と向き合うこと)由来の圧にすり変わっていって、書けないという苦しみによって圧を生むという構造になっていって、そうなると何かが違うような気もしてくるけど、そういうのも込みで人間の周期というのはあるのであって、もう書けなかったら書かないでいい人と、それでも書きたい人のどっちになっても別に誰も咎めないというか匿名で書いてる以上そんなことでいちいち咎める人もないから気楽といえば気楽なのだがいつやめてもいい圧というのも作れるといえば作れるわけで…そんなときは逆に自分がそれを書くことによって圧し潰している現実的な課題についてまた実際的な手立てについて考え直してみる機会が訪れているとみてもよいのかもしれない。
わたしの場合はだいたいそうで、圧し潰されて(プレス機でどうしてもわれないものが)横にスカーンと逃げるように書いている気がする。つまりわたしは弱いし色んな物事が怖い。かといってもう後戻りもできない気もするし、リスキリングとか言われても…みたいな世代でもあるので、自分の中からやってきたことの中でなるべく無駄に続いてることをさらに好きなように突き詰めてみるしかないからこうやって詩論大全を読んでるのかなーとか、そんなことは時々思う。
昔はもうちょっと負課というのかレマネンツというのかしらないが、世界が俺を、世界が俺にぃ!?みたいな雰囲気で若干語気も強めだった気がするから、まあその折には世界把握って書き方でよかったのかもしれないけど、今はどっちかってえと異世界転生どうのこうのみたいな世界なので世界は世界に逃がして、自分は自分で受け止めるみたいな感じな気もするから、世界が課すんじゃなくて、自分で課さなくちゃいけなくなってるっていう、そういうなかで書く意味っていうのもさっき言ったみたいなテキストボックスやフォームによる、自分で課した圧によって表現という圧搾行為をしなくてはならなくなっている。で、そこから生まれるものというのはたぶんだけど結構きびしい。高さは昔と比べてもそんなに変わりはなくて、ひたすら山の裾だけが広がり続けてるだけかもしれないが。教養が遍く行き渡って逆にそれの使いでについて、どのへんでアジャストして満足するかみたいなところまで自分で決定権を持たされて、そういうのをもっかい忘れよーみたいなのがアンラーンなのかと思ってるけど違うのかな。。。。まあどっちでもいいけど。

(1月末-2/1?)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?