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ともちゃん9さいさんの詩集が届いていた。有志による詩集。読むというよりめくる。詩集のタイトルは「確かめるすべのない両想いが死ぬまで続いてく」。これは「あまこえにと」のリフレインというのか、今はパンチラインというのか、私にはよくわからないけれども、そこで使われてる言葉だ。

元々の「あまこえにと」にはなかった気がする。元々の「あまこえにと」とは何か。それは私の記憶の中にだけある、どこかで最初に読んだ「あまこえにと」である。現代詩フォーラムだった気もするが、今は違う版(ここでは便宜上"楽曲版"と呼ぶことにする)に更新されている。
私の記憶だと、楽曲版ができた際に、後半のエモい箇所がでてきたような記憶が(私には)ある。
今現在、現代詩フォーラムの「ともちゃん9さい」のアカウントに「あまこえにと」は二種類ある。楽曲版の「あまこえにと」と、タイトルは「あまこえにと」だけど、中身は、ともちゃんの自己紹介のバージョンもある。名刺代わりな詩といった印象。「日赤病院のカレーが腐っていた」で始まるバージョンも、昔ともちゃんさんが書いていたenpitu(WEB上の日記サービス)で、日付を(恐らくは)自身の誕生日に置かれていた文章のなかにあったものだと記憶している。
この「日赤病院のカレー」は、いくつかの詩や日記に登場している。だから、日赤のカレー(なんかブランドみたいになってきた…)の文章を見ると、インターネットに書く人のリライトの形跡というか、変奏について考えることがある。どれを(紙に)残したかったのか。ここを省いた(あるいは加筆した)理由はなんだったのか。
さまざまな媒体や作品に、同じフレーズを使い、細部には編集が加えられていて、目的やシーンが違う。日記、詩、リーディング、ブログ、倉庫(作品の置き場としての)… 本人がそういう思いでそこに書き残したのか、思いとか湿っぽいというのであれば、どういう用途で書かれたのか。
少なくとも、多くのバージョンが残されているということは、好きというか、「気に入っていたんだろうな」とは思う。

そもそもの話だが、生まれた日の病院のカレーが腐ってたことなんか、わかるわけがない。あとで聞いたのかもしれない。
日赤カレーのあとに「ぼかあ生まれた」と書かれた版では、より明確にそれがわかる。
こういう表現方法をなんというのか私は知らない。ナレーション? モノローグ? 追憶? なんなんだろう。でも、始まり的にはなんかベストである。

今、現代詩フォーラムを見返していたら、enpituの最初に置かれていた日記は、現代詩フォーラムでも最初に置かれていた。たぶんでしか言いようがないが、enpituにあった文書と同じだと思う。

「確かめるすべのない両想いが死ぬまで続いてく」と聞くと、ネットの出会いかたとか、別れかたの終わりのことを思う。
そこに必ず絶望がつくわけでもなく、つくこともあるが、うっすら遠のいていくものもある。その前に、ぬかるみにはまる前に手を取り合えた人のことも、本当にそうか? 私はそういう歩き方はできなかった。
本当に幸せなのかわからない。というか、本人にしかわからないことを人にコピペしてリスクだと捉える思考に疲れたけど、嗅覚は未だ確かだと思う。信じてる。そうやって騙されてきた。

「確かめるすべのない両想いが死ぬまで続いてく」
ある種の人の思いのゆくえをうたってる。と、思っている。
でも、その前には、「言葉で」がついている。
「確かめるすべ」は最初「この指(があっても)」に係る。
そして次の「確かめるすべのない両想いが死ぬまで続いてく」に係るのは「言葉で」。
ラスト一行でやっと「確かめるすべのない両想いが死ぬまで続いてく」になる。
「確かめるすべのない両想いが死ぬまで続いてく」にくっついていた、
指と言葉。その両方が最後には取り除かれる(省略される)。
指は触ったり握ったり掴んだり投げたりするためにあるような気がする。撫でたりもする。振ったり、グッパーしたりもする。
言葉は喋ったり書いたり読んだりするために、伝えるときや反芻するとき、確かめるときに使ったりする。けなしたり、褒めたりするときも使う。
そのどちらも最後には届かなくなる。
届かなくなるからそうなるのか、そうなるから届かなくなるのか。
↑てきとうに書いてみたけど、両想いが死ぬまで続く、ということは、指も言葉も届かない相手がいるということに他ならない。

エモいところ悪いのだが、私はひとりである。私は「両」を感じない。「両」の可能性を感じれない。一方的な気持ちは「両想い」という言葉によって、周到に除外されている。思いきり、無理やり信じればどんな対象とでも両想いになれる可能性はあるけど、それはアリなんだろうか。
両想い。そもそも認識されていなければ発生しない件。

たぶん、認識というのは、広義の意味で「会う」ことだと思う。何かしらの手段で会うことだと思う。文字で知り複数人の中で知り単体で知り体を知り習慣を知り地の部分を知り幻滅し…みたいな流れもあるが、作品「セキセイインコ(または背黄青鸚哥)」にもあるように、「みず」みたいな人たちもたくさんいる。わたしはどっちかというと「みず」のほうの人だ。
そういえば古谷実の「ヒミズ」は、もぐらのことだーとか、陽を見ずという意味だーとか言われてた時期があった。
みずと喋るのがうまい人もいる。

私はもう親も兄弟も行方がわからないから、もう死んでもわからない。ともちゃんさんが死んだというのをTwitterで見たとき、静かに衝撃を受けていた。自分では気づかないグラつきで、そこからめっきり老けてきたように思う。

私と、ともちゃん9さい、その他すべての同時代(プラマイ数年)を生きた、生きている、文字だけや、ようすだけで知ってる、地理的条件その他諸々の遠い人たち。近かった人たち。
そういやずっと「ちかあか(近赤)」ビバップだと思ってたら「ちがあか(血が赤)」だった。2年前ぐらいに読み間違いに気づいた。

インターネット上の距離感や地理が、そのまま死というか、フェードアウトに連なっている。触れなくなったら、表明できなくなったら、まあそれはそれで、生きていれば、そこで案外ネットだけが全てじゃないと気づくだろう。仕事辞めた人が仕事じゃない世界に気づくみたいに。毎日通勤通学でバス乗ってた人が乗らなくなって、暗数みたいになってても、死んでいなければ、どこかにはいて、同じ時間帯にバス乗ってた人たちからは、そこから抜けたこともカウント(認識)されてないだろうけれども、自分は別のところにいる。そして時間が過ぎる。建物の中にいた時間を、外で過ごしたりする。みんなそうやって移ろってく。みんなどっかで無理になる。

私は自分がいなくなること以外にあまり執着はない。
死みたいな、デジタルな不参加が、たったひとつのいいねなどで心変わりしたり、分岐に差し掛かったりもする。現代の心根はそういうのに振り回されてるのだけど、ときにはそれもいいと思ってはいるけど、不用意にそうしたくない。でも気まぐれではありたい。

シンプルに情報が多い。いいねとは、情報を差し向けることで、こちらが相手の存在に気づいており、且つ、相手が投稿したそれに対し、よいと思った(かどうかの真意はわからないけど、ボタン上の意味はそうなってる)ことを表明するシステムだから、とても曖昧だ。
つまり図りかねることがとても多い。何もわからないに等しい。
いったん「いいねが押された」という事実のみ措くしかない。
その意図が明かされる日は永遠に来ないかもしれないっていうか、ほとんどがその可能性に満ち溢れている。
もしねんごろになって尋ねてみても、忘れてる可能性のほうが高い。



SNSアカウントのフォローフォロワー数の規模や比率、また、実際に知っている人の割合によって、ある種の信頼感が担保される。あくまで自分の中に。
自分にも気まぐれがあるから、起き抜けだとか寝ぼけてるとか、テンションの高い低い、他人の多少のブレはしょうがない。

常に一定のライン、ある水準・閾値を超えたものだけ「いいね」し、一定の興味に引っかかるものだけを「リツイート(現リポスト)」するというのは、なかなかに難しい。
自分自身の変化や、バイオリズムの波によって、その時々の状況や気分によって、それは常に変わる。
私の「いいね」がどれだけ重いものなのか、思い知らせてやりたいぐらいだ。
心だけじゃなくて、物理的にスマホが手近にあるとかどうとか、電車の長旅で、どこかを高速移動しているのだとか、セックスしたあとだからちょっとなんか優しいけどちょっとひとりになって退屈なったからたみくさにいいねたくさん振る舞おうという気分であるとか、いろんなことがある。しらん。

手紙のようには住所を知らない。なんか時々「フォロワーを整理するので、消されたくなければ連絡してこい」みたいな若い子とかがいて、「なんて強気なんだ…」と震え上がることがある。若者には無限の価値の源泉がある気がする。

SNSは難しい。自分の存在の感知させたり、相手の発信内容の肯定・拡散を行ったりする。問いかけ、批判、誹謗中傷もある。
最近では、「相手の発信内容」と「相手の存在」は、ほとんど同じな気がする。あえて混同されているというか、相手の存在のログが残されていると思い込んでいるというか。

フォローしていない人から反応が来た場合、私の存在そのものへの感知はおそらくあまり為されていないだろうなーという推測がぼんやりと成り立つ。というか、そういうのはほとんどねずみ講というか投資セミナーとか自己啓発的かbotみたいなな怪しいアカウントで、機械っぽさ、数撃ちゃあたる的な作業っぽさ、妙な前向きさの、「あなた"本当に"生きてる人ですか?」と問いたくなるような、ずっと前向きのことばかり宣伝してる変なアカウントなので、なんか生身の人からのいいね、真のいいねが欲しいと欲してしまうことが多々ある。
洗脳されてない、機械じゃない感じの人がいい。そういう人がいいねを押してくれると、これは、ほんとうに、ガチのいいねかもしれない、と、やっと思い始める。



(ネットでは?)無事かどうかも、音信も、相手の忙しさやつらさ、つまり意向の表出でしかなく、そこに不慮の事故や病魔、老い、あらゆる最期も含まれる。
そしてそれらをなんとなく含みおいて私たちは当たり前みたいにして生きてるし、昔からそうやってみんな生きてたのだと思う。じゃあ今特殊なのはどのへんなのかというとすぐ出せるすぐ見れるってことだが、情報の落とし穴みたいなものにいちいち抜けたり入ったりすると二度手間なので浸かりっぱなしになってる点が、今と昔では違うように思う。

情報量、昔は「この画像、◯メガあるから◯分かかるなー」と見積もってた、ああいうやりくりみたいなものはなくなった。
OSのアップデートのときぐらい。
「ネットに繋ぐ」が目的の頃もあった。
パソコンの頃、テレホーダイの頃、ガラケーの頃、スマホの頃、電話線の頃、ADSLの頃、光の頃、なんかデバイスの小型化とデータ転送の高速化?が進んで、いつでもどこでも感がグッと

でも、どこかで切断される領域がある。いつでもどこでもの罠というか、裏側というか、光と影というか、たぶん「あ、そうか」みたいな時がくるのだと思う。

ここに打ててるということは、(さらに振り絞り)公開するということは、小さな意思でしかない。いつできなくなるかわからない。それは案外遠いことではないかもしれない。指や意欲。視力と食欲。ヒートショックで溶けてるかも(ひとりで死にたいという漫画でもなんかあった気がする)。
でも「死ぬまで続いてく」。

買える物欲だけでモノがたまってく。人は遠い。
公的な支援まで、あと何十年と過ごさねばならないし、それまでは自力で繋がれ!と、なんか行政冷たい。市民だよりの催しや窓口の欄に、わたしみたいな中年を救う何かがないかみてみるが、基本的にはたぶん、自力でオタ恋とかタップルとかwithとかPC MAXかなんかそういので頑張れみたいな感じなのだろうけど、もう中年にもなるとたぶん、なんか「なんちゃら蝶」みたいな中高年用の艶のある出会い系を使わねばならぬのかもしれず、そうなると、もうサイトもなんか金屏風に鱗粉みたいな、本当は怖いグリム童話feat.金瓶梅の表紙みたいなサイトになってて、そういうアプリは使いたくないし、そもそも私はもう一生独身でいい、ここで人間終わらせて、あわあわと消えていく(by石垣りん)つもりである。
中年はなんかいろんなものが遠い。

こういうときの「遠さ」と、ある生活圏で、また違う顔で生きてるときの「遠さ」とは、そこそこ被ることがある。

ネットにいる自分が常に正直であるとは限らないのだが、「確かめるすべのない両想い」というのは、遠いまま、私なんかは、おそらく、ともちゃんさんと会話を交わしたりしてた人たちよりも、もっと遠い。ほとんど遠い。
めっちゃ遠い。遠すぎであろう。言いすぎることはないほどには遠い。

流れで「ある意味ではとても近い」とでも口を挟みたいところだが、特に意味はない。「逆に」とか、すぐ言いたくなってしまう。
誰も知らないだろう。
わたしは高円寺のウーハだかアーハだかのともちゃんのライブに行って、プロジェクターの映像の下の方にコントロールバーが出てるのを、Macbookの画面のカーソルずらしてフェードさせようかとずっと悩んで結局できなかった後悔がある人間である。
逆にいうとそれぐらいしかない。
あと上野の恩賜公園で、会場でいろんな角度で写真を撮ってるであろうともちゃんを見た。あれはウエノポエトリカンジャム?
UPJの、5か、6だった。
数年前、自分の記憶にある文言を、東京旅行でたどるブームが巻き起こっていた頃、とはいっても、駅で降りて「ここが高円寺かー」「ここが阿佐ヶ谷かー」「中野かー」みたいな感じだった。
ネットでこれらの文字を見てたとき、阿佐ヶ谷はなんかいっぱい天才がいるものだと思っていたが、さすがに20年経ってから見に行ってもただの土地だった。いや、20年経ってなくてもただの土地だったかもしれない。
もう自分の中では阿佐ヶ谷には図書館がいっぱいあって宮崎駿みたいなエプロンの人がいっぱいいてジブリ美術館が立ち並んでるようなイメージだったのだが、全然そんなことはなかった。4文字で、ケが入ってるから、もうなんかジブリって感じがしたのだが、そういうわけではなかった。
東京の一土地でしかなかった。私の幻想は打ち砕かれた。
といっても、あの土地が本当に阿佐ヶ谷だったのかも怪しい。
たしか、4時か5時ぐらいに、アーケードを歩いたのだ。
話がそれまくった。
関係性として、わたしは誰とも他人である。知人ですらない。
ほんと、いくつか日記や投稿を読み、本人を一度か二度、見ただけで、言葉を交わしたことはなかった。いや、手売りのCDを買ったときだけ、取引の言葉を交わしたぐらい。でもそんときはなんかイラッとされてた気がするんだけど、私は外に出て何かを買おうとすると大抵「ハァ?」と、怒気を孕んだ声で初回反応され、そのあとすぐに店主モードや対人モードになる人がほとんどなので、これはともちゃんさんが悪いというより、世界がよくないのである。ゾーンに入ってきた敵だと思ったらあらやだお客さんでしたのみたいな、そういう勘違いさせるこの世界がよろしくない。

わがまま言った


帰りたくない

地下鉄のびてまーす
やじるし

ベクトルの法則
ベクトルの法則

走るオレンジ

音でかくて
忘れちゃった


父がない私の隣に君が座る
黙る
目をつぶる

家が遠のく新さっぽろ行

お父さん

みたいだ
黙ってる
黙ってる
言われたい
黙ってる
黙ってる
ずっと

ずーっと

ひばりが丘
ひばりが丘

降りたら帰れそうだ
もうないのに

お母さん
無表情に暮らす
静か
違う所
静かに暮らす

新さっぽろ
新さっぽろ

ひきかえさなくちゃ

終わる
宮の沢行
走る
走る
君が
何か
言った


ゴーーー

泣いてしまった


不明。投稿日は2002年4月3日となっている。

今、わたしのメモアプリの「人の詩」フォルダを見返していたら、というか、ずっと、この詩集を頼んだときから、この詩のことを考えていた。

この詩の「ゴーーー」のことを考えていた。「君」が何を言ったかを考えていた。とかではない。「ゴーーー」のことを考えていた。

この「ゴーーー」という、擬音のぞんざいさのようなものはなんだろうと思う。大切であろう局面をマスクする言葉。その言葉の置かれ方。私には、「言葉をどこまで信じるか」を見せられてる気がする。ただ常に、へりくだって、正しく丁寧に言葉を使えば、それでいいってもんじゃないって気がしてくる。

ときにはシンプルな道具として割り切り、すべて裏拍で打つようなことをして、とにかく最適解の伝わり方、つまり「そのまま」を目指してる。ついてしまうストーリーがつかないように、ついてもいいように。すごく飛ばす。切ってしまう。ここまで飛ばしていいのだろうかと思ってしまうほど。でも、不足感はない。逆にこれ以上要らない。駅だとわかれば、電車だとわかれば、それでいい。あの音だとわかればそれでいい。わからなくていい。そういう意味で、ほとんどすべては書かれている。類推できる範囲はすべて出来る。地域は北海道であり、電車内の出来事(思いと瞬間)であり、、、、

要らない言葉がない。ほとんど単語である。繰り返すとこはかなり繰り返す。「音でかくて」は、別の作品「あけましてお」にも出てくる。共感覚的なものを感じるが、五感の繋ぎかえ、敢えての逸らしとしてみることもできる。でもこの特殊な感性? 自信といってもいいかもしれない。ともちゃんさんの詩にはいつもそれが漲ってる気がする。リズム、テンポ、感性への自信。

ともちゃんさんのこの頃の詩、わたしが勝手にそう思ってるだけだけど。
つまり2000年〜2002年ぐらいの詩? わからない。このあたりの詩は、特に言葉がシンプルで、かつ核心を全く語らず、シチュエーションも最低限なものが多いように思う。実体験を素朴に最低限に綴るような。
poeniqueの詩会にあった「カラオケ」「あけましてお」など。
他の詩を知らないだけなのだが。
ただ「あけましてお」は少しフィクショナル。いや、それ以外すべてが実体験というわけでもないと思うけど、ともちゃんさんの詩は独特な実録体?とでもいうべき文体で書かれていて、話者と作者は別、みたいな、そんな簡単な話じゃない気がする。
詩と同様に、日記も、ある種てにをはの少なめの文章で書かれてはいたが、
言葉の量は、詩に比べれば、かなり多かったし、論理性というか、かなり明晰な感じで書かれている。

ともちゃんの詩を見てると言葉を絞るというか、込めることを感じる。詩会のコメントにも「にきにきにこめてます」とあった気がする。
ビームコミックスとか、しらんけど、なんかちょっと、行間を読まないとあっという間に置いていかれる漫画みたいな、ぼーっと読んでて、気づくと読んでないことに気づき、また数ページ戻って読み直さないとなかなか繋がらない漫画のような、だから、「わからない」っていう人のこともよくわかるっていうか、それもそうなのだと思う。わからずに、何があるかわからずに、すっと通り過ぎてしまうというか。
これは詩会でもなんかともちゃんさんは金魚かなんかの詩に、かなり高い点を入れてて「眼前に真っ赤なイメージが迫ってきた」みたいな感想を入れて4点ぐらい入れてて他の人はもっと低かったのだが、なんかそういうとこで自分の中に広がるイメージを、相手の作品の評価として肩入れしてしまうようなところがあって、そういうところと、ややもすると素通りされてしまいそうな詩の書かれ方とは、どっかしら、繋がってるように私は思う。
言葉に対する向き合い方はかなり厳しいはずなのに、なんか時々超甘々になるような感じがするというのか。
だから、すごい筋がとんでるような詩を書くし、逆にすごく筋がとんでしまってる詩も補完して読んでしまう。個人的にはそういう攻守にじゃっかんぐらつきがあるような人のほうが好きだ。なんかそういう人はいいなと思う。リアルというか。整えたバランスで出てくる人よりかは好きだなと思う。



話がそれてきた。
シンプルな絞られた言葉の中に入ってる内容は、限られた情報内でもある程度展開でき、それは外部のストーリー、ともちゃんさん自身の身の上話、わたしはほとんど知らない、いや、日記やブログで読んだ程度でしか知らないし、それもほぼ忘れかけてるから、そういう情報を遮断したうえで、詩として書かれた言葉だけ読んでも、、、そのようにチューニングして意識して読んでも、というか、そのようにして読むと、やはり過不足がないようにみえてくるのだ。情報が足りないのではなくて、はじめからないのだ。ここはわからないかもしれないから補助線引こう、みたいな余計な言葉はない。



ベクトルの法則を2回言うのも、音でかくて忘れちゃったも、どう考えても「ともちゃん節」とでもいうべきものを湛えてる気がする。
読んでると、必ずそういう「節」というか、いや、節というより、曲げられない信念とでもいうか、共感覚みたいな、私はこう感じる!みたいな強い意志の表現が、端々に見られる気がする。それがリズムと内容に乗ってる。音源や映像で見ると「ああ、こういう感じなのか」と思うけれども、そのときの演じ方でまた変わってくるだろうから、これが確定というわけでもないのだろうけれども。「あけましてお」こんなふうに読むんだ、とか。
そもそもあれには読み方がわからない箇所があった気がする。
記号とか、子音だけとか。

削いだ場合の表現と、爆発した場合の表現がある。削いだ場合の表現は、明朝体がよく合う。



なんとなくだけど、東京ときみがいて、親との関係と思い出がある、そういうことが読み取れるような詩群。といっても、当時なんとなく読んでいた日記や、投稿掲示板の端々から、そのように私が勝手に感じ取ってたストーリーかもしれない。

そこからあと、2002年からあとは、なんていうのか、こう、社会状況をカタカナ的に拾い上げつつの生活詠、みたいなもののフェーズがあり、そこから先は現在、というか、ともちゃんブログ(livedoorのやつ?)ができてからのイメージというか、そういう感じがある。なんかちょっとその前はnaverかなんかのパンダみたいなテンプレート使ったサイトがうまく機能してない感じの時期が続いたりしていた。
この時期は私も私生活がしっちゃかめっちゃかで、なんかネット周りの人々も全員がしっちゃかめっちゃかになってて、これはWeb2.0とかいうのもそうだし、全体的にWebサービスが普及し出してアカウント作ってみたけどなんか気に食わんみたいな感じで更新が止まってたりして、実家暮らしだった人が賃貸借りて電気ガス止められて失踪したみたいな感じでみんなどこにいるの?みたいな時期だった。そしてこちらもそういう消息とか動向に関心を払えなかったし、みんなたぶんそうなのだろうと思ってる節もあった。

そこからさらにCDが出るまでのフェーズがあるような気がする。そして言葉の饒舌さ、パンチライン?的なものが生まれていくのも、それに歩調を合わせてるような気もする。少しずつ、向かっていく感じがする。ここで誤解を恐れずに言えば、なんか、叶うけど、薄まる、みたいな感じがあった。常に、ひとつの出来事を祝うフェーズと、正直な気持ちはそこにないフェーズがある。別に嘘をついてはいけないという縛りがあるわけではないが、そこを曲げちゃうと、全部嘘になってしまうとでも言いたげな、そういう奴が、自分の中にもいるし、誰にでもいる。それの抑え方がうまいというか、ほとんどそんな奴いないかのように振るまって過ごしてる人がいる。そういうの耐えられない。我慢できなくなる。



生活詠みたいなやつ、と言ってまっさきに私が思い浮かべているのは「リビング」といった詩である。

かこん
ざぱん
かこん
かこん

https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=50581
リビング 部分

ここでも擬音は「ゴーーー」的な使われ方をされている。「あけましてお」「セキセイインコ」はどちらかといえば作品的であり、「カラオケ」や「わがまま言った」は初期作品的であり、「リビング」や「よくじょう」などは生活詠的だなー、と思う。
生活詠という言葉の意味もよくわからないが、まあ、帰り道に、人の家の感じとか情景からくるようなものとでもいうか。

あとは生々しいような作品群、ある種の実録的なもの、音楽的なもの、つねにともちゃんの中で走ってるリズムによって書かれ、端折られた文体、わたしはいつもなんか「実録物の雑誌の写真のキャプションみたい」って、ブブカとかナックルズとか、知らんけど、知らんのだけど、そう言っちゃいたくなるような、ざっくりした現実の切り取り、口語の取り入れ、表現による年齢印象の操作、また先に述べたような擬音等の扱い方など、これらを超ひっくるめていえば、サブカルチャー的な?表現がしっかりと、それらをうわべだけの小道具やギミックとして登場させるのではなく、自身の体験や表現に根差した最適な形で使いこなしているように思う。

ローンとか、できちゃった子供、という言い回しと、一般的な家庭像を、通りかかった家の前の雰囲気から感じ取ってること。
「ローン」という響きが、まるで擬音のように使われていて、それもありかなと思いたくなるような。現実的には重たい長い意味をもつ現実を、それだけポンと置いてみる。その上に生活がある。なんていうと石垣りんの詩のような趣もあるような気がしてくる。そう、「リビング」には、そういう、石垣りん的な趣がある気がしてきた!



当然ながら、実際できちゃった子供なのか、ローンがあるかどうかといった事実関係は問題ではない。
「一般的な家庭のようなもの」の音が、そこから漏れ聞こえるということ、風呂の音がするときの抽象化された、記号的な物音、その生活の中に(下に)、その幸せ?そうな生活と引き替えに存在する多額の借金、ローン。

風呂中、存在するであろう無人のリビング。それが果たして、あったかいのか、つめたいのか。誰にもわかんないである。
現実って、なんなんだろうってね。いいように感じたのかわるいように感じたのかわからないように書かれてるというか、単語だから、読んだときの自分自身の体調とか具合とか、作者への想いの馳せ具合による、としか言いようがない。
読み返してみて、自分の思い込みだったところが結構単純素朴で、とくに味付けされてなかったことに気づく。

詩集をまた改めて手にとってみた。二版である。よく見ると、表紙の紙質が、おばあちゃんちの窓(昭和の型版ガラス)みたいな模様のやつである。

めくってみて、ACアダプタ、ゆっくりとん、リトミック、ユザワヤ(当時はなんのことか分からなかった。そう、当時は松ちゃんがペヤングって言ってても、マツモトキヨシと言ってても、成城石井と言ってても、関西圏(か、私)では、なんのことかよく分からなかった。ユザワヤも、そのたぐいの言葉だった)、わからんく、欲求不満の熟女料理、、、
ともちゃんのファンタジーをみながら「あったかいおあじ〜」の詩はないかなと前後をめくってる。あれもなんかのなんかなんだろうけど、私は元ネタを知らない。

いつか取り込んだ高円寺で買ったCD、不明なアルバムって出ててトラック1とかになってる。昔打ち込んだはずなのに、打ち込んでなかったのか?
1曲?目を聴きながらどれだ、と詩集を繰ると、loveletterだった。
「毎朝」が「毎日」だ。終盤が結構ちがう。2曲目は「あまこえにと」
声がステレオで振り分けられて加工も。
3曲目「ふかい」
4曲目、これだ! はっかないおあじ〜、だった。ともちゃんのファンタジー。詩集も、めくってたら見つかった。講談調、とでもいう感じ。

詩集読みながら音源も聴くと、
句読点や改行は必ずしも機能していないときもある。改行や句読点を律儀に息づかいと捉えて読む朗読よりも目がそっちにいけばもうそこで改行する。
5曲目はたぶん「ちがあかビーバップ」
(おそらく、いくつかのバージョンがある気がするので、断定しづらい)



11/27〜11/29
11/29?〜12/12


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