0719

あさ。「他者と生きる」(磯野真穂)の次何読もうかと暇と退屈の倫理学(國分功一郎)をもってきた。増補版らしいのだが、なんか、紙質なのか裁断技術なのか、本の断面(小口)が触り心地よくて驚いた。まるでびろうどのようだ、、、びろうどしらんけど
とりあえず導入のところだけ読んだ。

エレン(仮)190→195g。一気にきたな。大丈夫かと思い、ペレットを1g減らした。なんとなくストレス太りのようにも感じる。今朝も部屋んぽ。
齧ってたら息を遠くから吹きかける。なんかケージの角にペレットを隠す癖があって、それがケージの下のペットシートに落ちてるのを見るとなんか「あぁ…」ってなる。

朝から雨がベランダ手すりの空洞を鳴らしてるし、へちま(ゴーヤだけど)の葉もひどく揺れてる。山のトーンは暗いの薄いのとで分かれている。そこに吐き出し窓に映る天井のシーリングライトが映り込んでいる。安全なところに暮らしている、と今は思ってるなと思う。とはいえ、とはいえですよ、と思う。思わない。

他者と生きるの最後のほうをよんでいてふと思い出した。わたしが好きな文章。

個人的には非常にやさしい詩論として読める。

日常の言葉はたくさんの遠回りやずるい近道でできてる。
「牛乳が腐っていて、下痢をした。」
あまりこういう表現はしないでしょ?
「牛乳がわるくなっていて、おなかをこわした。」
本当は、牛乳は悪くならないし、おなかは壊れない。
でもね、でも、ひとはわるくなる、こわれる、って言いたがる。
それはずるい近道でもあるし、たいへんな遠回りでもあるんだ。
みーんな、もう意味をしっていて、かたちをもってる表現だけどね。
でも、その言葉をいうひとが、そのときに身体をなぞったり、手をひろげたり、しているんだよ。

めろめろ22号 ユーリ「詩と手足とことばと」
https://web.archive.org/web/20030902165243/http://poenique.jp:80/mero/22/22c.htm

わたしが「他者と生きる」終盤を読んで思い出したのは次の文章だった。

詩はたくさんの「わたし」からうまれて、たくさんの「わたし」にたどりつけばいい。

同上

北村太郎の「港の人」という詩集にも「からだをこわす」という表現はいい、というような一節があったかとおもうけれども、

今はもう遠回りをしたか近道をしたかなんて、思うことをしないように、固定された他者や自己でもあるかのように、詩を読んでしまうことがある。詩を関係性で捉えようとしたとき詩はどこまでもたしかに「やさしく」なれるのかもしれない。ただそれはことばよりも先に身を支えてしまうようなあやうさも湛えたまま存在していて、その手を延べてしまったことと、言葉が消えてしまったこととを、セットにして、よくないともいえないし、一概に「いい」ともいえない。まちがってもなければ正しくもない。

もっと単純にいえば、「他者と生きる」に出てきた、個人主義的人間観(や統計学的人間観)と、関係論的人間観を縫うように揺れ動くカーブ(ライン、わたしが体験する時間の経過)が、詩のうえでの作者(当事者、話者)と読者の関係になってると捉えるといいのかもしれない。

ただ、ここでも錯覚しているのは、今だけ、今みてもらえなければ、これからはもっと見てもらえない(読んでもらえない)かもしれないという考え方なのかもしれない。これが詩の上での個人主義的人間観かもしれない。
逆に、今見てもらえなくても、いつか見てもらえるかもしれないという考え方。これは「われらコンタクティ」という漫画に近い考え方かもしれない。ただ、今ふつうに考えて、これだけあるなかで読まれたり、これから読まれたりする可能性を考えると、自分はむしろ関係論的な居場所に落ち着かなければならない、という予感も常に抱きながら生きている、ということになる。つまり、関係論的な居場所の中に、擬似的に個人主義的な場を策定して、その中で「ごっこ」的に詩を書くこと、そしてそれも、ちゃんと詩であること。
詩を書く(読む)人も、やはり関係論的な詩との付き合い方と、個人主義的な詩の付き合い方とをよく使い分けているのだと思う。
そしてわたしが違和感を覚えるのは、いいとこどり、というか、わるとこ避けというか、個人主義的なものをポリシーとして一時的に掲げている場に関係論的な力を持ち込んだり、あるいはその逆のことを行うような場合において、わたしは「ああ、気持ち悪いなぁ…居心地わるそうだなぁ…」とおもってしまう。

わたしは個人的にはなんでも詩だと思ってる派で、ちょっとスパイスが足りないとかギミックが少ないとか、ひねりがないとかおもしろくないとかいうのは言ってもいいけど「詩じゃない」というのは言えないんじゃないかとおもってて、どこまでも関係におりてけば、完全にその人(人でなくてもよい)が何かしらの考え(考えでなくてもよい)があって提出した、その瞬間の、なにかしらのブームであったのは確かなので、個人主義的に、たくさんのわたしに届かなかったとしても、というか、この「わたし」のふりをして、これは「わたし」に届かないのでは?みたいな言い方もなんか変な話だなとは思う。アドバイス、というのがそれに近いかもしれない。
練習場として「わたし」が平均的になりすまして詩を読み、作者も「わたし」になりすまして詩を修正する。なんか変な気がする。
「なりすましているのでは?」という指摘もあるが、もっといえば「あなた本来の踊りがあるのでは?」みたいに言っても「いや、これはもう行き止まりです、これ以上どうしろと? それは具体的なアドバイスではない」というような作者からの反論というのを投稿掲示板でよく見かけたりしたけど、そもそも入口がおかしいというか、踊ったか踊ってないか論争であり、だいたいこういう時批判に見えるのは、もっと「そんな縮こまってないで、好きにしてみなよ」みたいなことを言ってることが多いような気もする。
この場合ややこしいのは、別に、縮こまっててもいいし、好きにしなくてもよいのである。
ただ、それをあらわすうえで、借り物のような言葉で書いちゃってませんか、みたいなことを言ってることが多いのだが、このへんのすれ違いは多い気がする。この場合、身を突き合わせると案外すんなりすることもある気がするが、そもそもそんな話にすらならないこともあるし、本人もうすうす気づいていた、ということもある。
そういう意味では、だいたい書いた詩でなんか言われることって「もったいない」に尽きるかもしれない。それは時間の無駄という意味の「もったいない」かもしれないし「自分で踊ってない、借りてきてるようにみえる」という意味のもったいないかもしれないし、もう少し突き詰めればとか、なんかしらの「もったいなさ」について言及しているのだと思う。
ただ、その人となりにまで降りていけば、読みようはいくらでもあったりするのだし、どういう出会い方が一番その人にとって合うのかというのは試行錯誤繰り返すしかない。しごと


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