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めも

最近何をしているか。
鈴木志郎康さんのTシャツが出てることに気づき、白と黒を一着ずつポチった。というか、原稿は手書きだったのかと思った。
鈴木志郎康さんとは会ったことがない。
イメージフォーラムフェスティバルのパンフで名前を見て
夢の島少女のエンドクレジットで名前を見て
昭和文学全集の中に名前を見て
ネットでも見た(本人のサイト)
そこから曲腰徒歩新聞を読み、本人の詩やシラバス、第二詩集の覚え書の抜粋(1と4)を読み、図書館に現代詩文庫22を借りにいき…
そこからはWEB上の更新を時々追うようになり、
日々が忙しくなり、
なんとなく鈴木志郎康さんは灰皿町のBlogで花の様子を書いているイメージになった。そして、気づくとTwitter(現X)で呟くようになっていて、さらに気づくと浜風文庫に月に1度詩を寄せるようになっていて、それも滞るようになり、という感じだった。
WEB上では、すごく昔にシルチョフさん(深夜特急ヒンデンブルク号、みたいなサイト名だった気がする。めくらうさぎの対話、という詩があった気がする。サイトデザインは当時としてはかなり垢抜けていた。)のサイトで、鈴木志郎康さんに会った、みたいな日記?があって、羨ましいと思ったりしていた。
ちなみに当然わたしはシルチョフさんが誰なのか知らない。
鈴木志郎康さんは、私のWEB上の土地勘で言えば、北というか、じゃっかん北西だけど北東に知覚される場所にいて、そこは清水鱗造さんや清水哲男さんや長尾高弘さんや渡辺洋さんといった人(言葉、名前)たちのいる場所に時々現れる、といったイメージだった。
それは「出版や詩に近い世界からインターネットに入り込んだ人たちの地方」といった趣きで、わたしはそれを時々ネットサーフィンの何かの弾みで見るのだった。
そこでは、BBSや投稿用のCGIは同じようなものを使っていても、集う人の属性がまったく違うから、会話も荒れるようでもなく、静かで大人なイメージだった。
今から思えば、出版やアカデミック(多少語弊があるか? …いや、ないか?)な人たちが集っているか、あるいは、それ以外に現実的な関係を持っている人たち、さらに、WEBからでも、意欲によってその垣根を飛び越えるような行動力(交流しようとする力。あるいはWEB上に顕現しようとする意欲。私にはなかった)で、新たに関係を取り結ぶ人もあったのかもしれない。
ただ、私はそういうのを見ることこそ好きだったが、そこに入ってどうこうするということは(当時は? 今も?)考えもしなかった。
自分の人生の見通しがつまらなくなっていくに従って、そういうものへの執着が強まるのかもしれない。そして、自分の中にそういう感情があるのかと問えば、それは確かにあるのかもしれない。ただ直近でいえば少し盛り返してきていて、私は楽しい。本がたくさん揃ってきて、楽しい。
読むべきものや見るべきものが、そうできなくなるまでの時間は思いのほか早いのだろうと思いつつ、それが集まってくることがうれしい。
だからそれ(絶望感?)は、心の奥底のほうで、なんの引き金にもならないように、まだ大人しくしている? 意外と私は私に忠実だと思える。

まあそんなこんなで、1999〜2004?ぐらいまではWEBに執着していたのだが、それ以降は忙しい日々のあいまに途切れ途切れに垣間見るようになり、ネットはネットで当たり前のインフラと化していくのだった。

思い出すと非常に断片的で、時系列も判然としない事象がたくさん思い起こされてくる。そして思いのほか、WEBであったことはあったこととも思えないし、書き留めようとも思えないことが多い。
それは関わった人たちのことを関わったと言えないもどかしさのようなものによって係留されていて、さらにそこから動けないでいる自分を曝け出すことにもなり、みっともないような気もするから、余計何も書けなくなってしまう。
そして、実際に、たいして何かあったわけでもなかった。それはとても何気ない風景の移り変わりのようなもので、置き手紙の堆積のようなものでありつつ、その人の確かな変遷を辿るものでもあったのに、私はそれを見届けることができなかった。
気づくと、皆プラットフォームを移し、次々と不確かな基盤へと書き言葉を移していくのだった。私はそれを「散らかる」ように感じたし、あまり誠実に感じなかったけれども、人間が生きるのに使う(けど、べつに使わなくてもいい)ツールに、とやかくグチグチいうのもどうかなと思ったし、それをゆう場所もなかったから、でもやっぱり、保存していくときどうすりゃいいのさとも感じたりして、有機的に絡み合ったものに対する忌避感が強かった。いや、有機的に絡み合う前には、連綿と続くはずだったプラットフォームを頻繁に移ったせいで、辿れない人がたくさん出てきてしまった。
消息がたどれなくなり、気づけばみんなTwitterとかFacabookにいた、というような状況。そしてそのとき、日記的な長い文章は、あらかた遺構のような場所に埋没させてきてしまっていた。
SNSは、なんか全然足りてない。細切れの言葉を全員が同じタイムスタンプで書いてる感じが、本人にも読み手にも総合してる感じを与えてくれない。
じゃあ総合されてないものは書けないのかというと、そうでもない気もする。あるものだけ、憶えている範囲で好きに書けばいいと思っている。
基本的に、私はそういう人間なのだと思う。
自分の記憶にある範囲で語れるだけ語って、同じところを壊れたラジオ(この比喩はおかしいと思いながら毎回使う)みたいになぞり繰り返すのが好きで、それに少しずつ、ソースを拾いながらやっていく。
そもそも自分が鈴木志郎康さんのことが気になるようになったこと自体、ネットのおかげともいえるし、自分が詩のほうに呼び寄せられたのもネットのせいである。だから逆に自分がネットで鈴木志郎康さんにも詩にも関心を持たず、完全スルーした場合の人生ってどうだったのかなって時々考える。
それはつまりイメージフォーラムフェスティバルのパンフを見なかった、そして鈴木志郎康の文字を見なかった場合の人生である。また、昭和文学全集が祖母の家になかった場合の人生でもあるし、自分がひきこもってなかった場合の人生でもある。
このへんが時系列的に少しややこしく、イメージフォーラムフェスティバル2001のパンフを見たときはまだ専門学校生であり、鈴木志郎康さんの詩を読んだ頃にはもうひきこもりだったということである。このタイミングじゃなかったら、自分はこんなふうにはなっていなかった。

最初はおどろおどろしい、という印象だった。字面のすべてがおどろおどろしい。極私的も鈴木志郎康も、すべてがマイナー調というか、これだけ明朝体の尖った感じが似合いそうな組み合わせもそうそうないというか、なんかゲゲゲの鬼太郎と近い界隈のにおいがする感じがした(当時はガロもねじ式も唐十郎も赤瀬川原平も知らなかった。今も知らないが)。
そこからなんかとにかくかっこええ…みたいなフェイズが来て、数年経つうちにイメージが変わっていき、気づくと「人生の師匠や!」みたいな感じになっていた。会ったこともない人に人生の師匠も何もないし、実際に師匠だと思ってる人に失礼だと思わなくもないが、やはり鈴木志郎康さんを知らない人生だったら途中で死んでた可能性がかなり高いので、やはり師匠というか命の恩人というか、そんなである。
いや、知らなくても全然死んでなかったしむしろ健康だった(主に精神が)まであるのかもしれないけど、やっぱ死んでた気がするんだよな。なんか不用意に上京して生存バイアスのかかった弱肉強食の世界で自死を選ぶパターンみたいなのが可能性として最も高かった。自分がそうしなかったのは、ネットで見てた人の裏側にある窺い知れない莫大な背景情報みたいなものをうっすら訝しんでいたからだし、単純にこんなやつがいたら勝てねえみたいな気持ちもあったし、そこに自分が行ってもなんか今でいうパワハラ的なことを受け精神を病み仲間はできるかもしれないけど身体がもたずに死ぬっていう予想っていうかフラグがビンビンに立ってた気がするので、今の自分の選択はかなり良かったと思ってる。
それは変わりない。むしろ歳を経るにつれ、揺るぎなくなってきて、なんかいい感じな気がしてきている。これも続くかわからないが。
結局、楽しいってなんなのかって話である。
風が吹いてるとき、自転車で橋を渡ってたら、顔の真横の空を、鳩が羽をはばたかさずに、ぎこちなくバランスをとりながら風に乗っているのをみて、「楽しいの原型って、こういうところにあるのかもしれない」と思ったことがある。楽しいってなんなんだろう。元々の、動物にまで差し戻したとき、人間の楽しいはどこに相当するのか。
話を戻す。
仕事とか社会を絡めてさまざまな文章(コトバ)を書いていた鈴木志郎康さん。とくに『極私的現代詩入門』とかめちゃよかった。ちょうど三十代半ばとかで読んでてよかった気がする。
なんて書いてあったか、今はもうほとんど思い出せないけど、なんか言葉を書くってことは社会とバトることだみたいな感じのことを書きつつも、働きながら文学のまだ書かれてない隙間を見つけて裏をかくような「新しい」言葉を書くのがそもそも無理ゲーなのでは、みたいな話もしてて、そのへんは晩年、鈴木志郎康さんが人と詩を突き合わせてみるのが楽しいっていう、詩集のあとがきにあるようなかたちにみるように、言葉で社会とバトることの厳しさも人が書く言葉を楽しむ優しさも両面持ち合わせているように感じる。
言葉で社会とバトることと、その言葉を使う主体に対する優しさ(兼厳しさ)。臆病で狭量な私にはどっちも持ち得ないものだが、心に留めておくことぐらいはできるかもしれないと思いながら生きてたりもする。
その人のための「作品」を仕上げるためなら何も惜しまない、だからお前も徹底的に自分にこだわれみたいな感じ。
そういうのが極私の極意だと勝手に私は思ってたりもする。谷川俊太郎の「自分の中の他者を見つけること」と、結構似てるようなんだけど、結論として出てくるものはだいぶ違ってくる。
たぶん、極私にはその人しかわからないことがたくさん出てくる。そのわからないことがわからないことであってもしっかり書き切れているかどうか、こだわりきれているどうかをみるのが極私であって、「あいだをとる」ために、伝わるように、文化や時代に対して中間・中庸な距離をとって普遍性を獲得しにいくような姿勢になりがちなスタンスは、結局生きたことにならないというか、それは「価値」や「淘汰」のトーナメントに積極的に参加することでしかない。
そして、それは最終的に結局持ち回りみたいな、先鋭化した世界内での文学的営為における等間隔カップルの隙間探しみたいなものであって、それは端的に言って「人生じゃないな」って感じが私はする。

現代詩フォーラムなどでも、ほんとうに最初のアカウントの人の最初の詩は誰でも最高なのと同じ理屈で、逆にそうじゃない人はどうやってももうなんか無理なときとかもある。でももうそれしかないって感じの人もいるから、それを否定はできない。
でも。なんかそういうときは「違うこと」をしたほうがいいのでは、って感じはする。「違うこと」もしてるけど、生業として、そこの情報や文脈を追い続けることだけやってる人だけの世界で、それ以外と呼吸していないような圏であったり、それをありがたがるような時期は、あってもいいけど、長くないほうが良いような気はする。
人間やっぱり周期なので、離れたり近づいたりするのに、ずっとしがみついていて、裏の意識では「このままじゃダメだよな…」と思いつつ惰性で詩を書いていても、それは自分としてどうなのか、それって極私じゃないよなって話になる。
そういうときはもう、素直にそれ(このままじゃおかしい)を書いて、当分詩を書かない生活に入るとか、やっぱ無理っした禁断症状でましたあざっしたみたいな詩を書くかすればいい。ただ、そうやってずっとやってるとメタになりすぎるので、意識をどのへんにもってくかみたいな話になるので、やっぱ離れたほうがいいよなーって感じになってくるし、周りも「こいつ大概やな」と思うので、そんなやつらのことは気にしなくていいけれど、そういうの気にしてる自分がいるのも事実なので、そこのところをどうするのかっていう問題が発生する。
…とまあ、いろいろ書いてきたわけだが、なんにせよ、鈴木志郎康さんには会ったことがなかった。一昨年経堂のお墓に行ったりはした。
3月で、雨が降っていた。彫ってある「遊極私」のしんにょうのところにちょっと水が溜まっていた気がする。
昔、同人の批評号で鈴木志郎康さん論(ひどい出来で一度も読み返していない)を書いたら、もうひとりの人も鈴木志郎康論を書いたから献本したと聞いて「マジか…」と思っていたら、鈴木志郎康さんからお礼の葉書が届いたというので見せてもらった。
そこには「2つの鈴木志郎康論をありがとう」的なことが書かれていた。つまり、私のわけのわからない論も、一応は読んでくれたのだった。

そもそも私は見ていただいてわかるとおり、文章を書く訓練をまったくしていないし、大学も行ってないので、論を書くとか、アカデミックライティング?っていうのか、そんなこともしてないし、若いときから本や映画をたくさん見ていて在学中から文芸の同人誌を…みたいなこともまったくなく、ゲームボーイスーパーファミコンプレイステーション友達んちでセガサターンみたいな人間だったので、鈴木志郎康論なのに、にったじゅんの『奪!童貞。』のことを書いたりしていた記憶がある。

あとは、浜風文庫になってから、浜風文庫の詩を鈴木志郎康さんがリツイートしたり、告知したりするようになって、私も自分のアカウントで鈴木志郎康さんの詩(ひー、ちょとひーみたいな詩)をリツイートしたら本人からいいねがついて嬉しかったりした記憶がある。

いうてそれぐらいである。
実際に会ってた人とは全然違う。結局、私は誰に対してもそうなんだなあと、時々思ってしまう。別に極私は孤独という意味ではない。でも、なってしまったものは仕方がない。

なので(なので?)、極私的鈴木志郎康ファンブックを作ろうと思う。
論理が飛躍している気もするが、もうそれしかない。
私は仕事しながら鈴木志郎康ファンブックを作る謎の男として生きる。












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