わいの平成詩史13


Monkさんが時々ネットラジオをしていた。
今はどういう仕組みか思い出せないが
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的なポートを指定して、MonkさんのサーバーにアクセスしてWinamp的なもので聞いてたような記憶がある。そういえばあのときのラジオってどうやって告知とかしてたんだろう。
何回か放送してて、声はもう忘れたけど、なんかGO!GO!7188の「種」を激賞してた記憶がある。ふつうの歌はここからは歌わないよね的なことでおもしろがってる、といった雰囲気だった。
Monkさんは、基本、詩でも「こいつをみてくれ。こいつをどう思う?」って感じだった。
「うむ。この趣向・ギミックは(俺は)おもしろいと思うんだが君はどうだ?」みたいな感じでいつも詩を投稿してる感じだったので、特に作風に「こういう系」というのはなく、自分がおもしろい(そして他者にもある程度有効に作用する)と思ったやつを試している、みたいなところがあった。なんかそういうのも含めて理知的というかユーモアというかネット民というか、いや、SEっぽいといえばいいのか、そんな感じだった。
それはMonkさんのサイト サルホボ(だったと思う)においても、ネットラジオでの「種」激賞の件においても、一貫していたようにおもう。

現代詩フォーラムの批評散文カテゴリのところに、Monkさんの「それはどこで笑うのか」という文章があって、これはひとつの論として読むとおもしろいかもしれない。

なんかこういうのを読むと、当てずっぽ(自分の中でまったく焦点を結ばないまま「誰かの中で勝手に都合よく解釈されるだろう」的なノリで書くとか…)というか、自分100でいくとよくないのかなと思う。
けど、詩というのはそういう需要とかギミックとかおもしろみみたいなものはあくまでおまけであって、べつにそういうんじゃなくてもすごい長い時間でみれば、淘汰もされるけどどっかでなんかに当たる可能性も微レ存ながらあるみたいな、それはなんにでも言えるけれども、ただ、人間の時間は有限だから頑張っていきたい、他者にねらって当てていきたいとも思うけれども、かといって、無理に捻じ曲げてまで、チューニングしてまですることか、それ? と思わなくもない。
だからみんな「降ってきた」みたいな言い方をする。ざけんなって話である。なわけあるかボケ、もうここではボケと言っちゃいましょう。
なわけあるかボケである。
いやでも時間を置いて見返すと、降ってきたように見えるやつもある。
けどそれも自分の足跡が残らないようにさ、ほら、寺の砂紋だってさ、熊手みたいなので掻くときも、やっぱり自分の足跡が最後消えるように引いていくわけじゃん。なんかそういうのあんじゃん。
文章でもそういうのあんじゃん。なんか推敲っていうか、世界を閉じるというか、開かれてるっぽくしててもそれはそれで閉じる感じで閉じてるわけじゃないですか。
けどそういうのももう疲れてきてぶっちゃけどうでもいいわけじゃねえですか。
みたいな。
ですので、
言葉とか他者は自分の死のあともがっつり残ったり消えたりするわけだから、むしろ何も狙わなくていいというか、そんなの詩は(言葉は、他者は)気にしてないというか、だから好きに書け!
というか、うん、やっぱり自分の癖(へき)に従って、好きに書くしかないよ
とは思う。


(つづく)


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