日本、仕事、男、態度
YoutubeでPIVOTの動画ぼんやり見たり聞いたりあとNumberのM-1特集読んだり、そういやおとといぐらいまでは中村計「笑い神」読んでた
(PIVOTは)なんかフレームワークみたいなやつ見ながら喋ってて平均勤続年数の高い古めの会社のある象限(古い戦後昭和企業)の反対側、左下に「ボランティアワーカー」と書いてあって、わたしは今(ここに書かれてる大企業ではなく、中小なんだけど、むりやりここに当てはめるとすると)「古い戦後昭和企業」にいて勤続年数も大概だが自分がこれから行きたい方向としてはボランティアワーカーのほうつまり右から左下に移行したがってる。とはいえ給与水準でいえば、正直そのあたりといえばそのあたりだし、勤続年数もまだ右端(二十年以上か?)ではない。だからこの「移動」自体はそこまで変ではないというか寧ろ自然の流れとさえいえるのかもしれない。つまり今の会社に居れなくなっても、また私自身の気持ちがそこに向かうのも、このフレームワークで見た場合「大きな流れ」に即してるものなのかもしれない。但し、ボランティアワーカーの象限の勤続年数は〜5年ぐらいなので、ぶっちゃけ「そのあとどうなるんだろう…」という気持ちもある。なんか左翼的なところと繋がってってなんなと食えてったりするのかな…時々宗教に入れば結婚できるんかな…とか思ってしまう気持ちと似てる気がする。あと、個人的な退廃への憧れみたいなもの(あんまりないと思いたいけどなんかセルフネグレクター迅(しゅん)って自分のこと呼んでるときもある、心の中で)があって、むしょうに徒花に邁進したい気持ちもどこかにあるといえばある。まあそういうふうにしか生きれなそうというのがわかってきたのもある。といって無頼なほうじゃなく。酒も飲めないし腕っぷしもないし本も読まないし才能もないし。まあサラリーマンやっとくのが無難だけどそろそろそれも無理そうだけど人の役に立ちたい気持ちだけは勃発してきてるというまあはっきし言ってややこしい中年ですね。ややこい中年。会社からは慰謝料というか居る代をもらいつつ裏でしっかり快癒して別の場所を選定してどっちにも足を突っ込んだまま、しがみつくとかじゃなく、段ボール箱に両足突っ込んで歩くみたいな感じでいたい気もする。仕事とボランディアの両方に片足と言わずタコ足配線でいろんなものごとにゆるやかに足を突っ込んで生きておきたい。あとは、ぼんやり人の一回性に携われることを実践していきたい。これは極々ちいさな個人的な哲学の実践みたいなもので、アルバイトの人のサイクリックな単純作業の中に、少しだけ時間を使って、その作業で生まれる製品のピンキリある中の、ピンのほうをちょっとだけ味わってもらうなどして、短いあいだだし、うちの商材に興味もってくれるかはわからないけれども、なんかどっかで点火(イグニッション、プラネテスの何話だったかな、ロケット触ってハチの意識が切り替わる回)するかもとか、まあそういう事も極力考えずに、とりあえずサイクリックな作業の中に一回性の"何か"をさしはさむという実践、小さい自分なりの哲学の実践はできるとは思う。で、なんかどっかで行き詰まった時とかに「あの時のあの…」みたいに"ぽっ"と浮かんできたりするかもしれない。
自分が何をしているのか、何をつくっているのか、それはどう使われるのか、どんな味がするのか、みたいなことをさせてもらえない現場でそういう場をもうける。それは特にどうなるでもない。でもやる。
ただ、それをもうちょっとひろげて、いろんなとこでやりたい気もする。
とはいえ、わたしのバイタリティのなさとか興味の狭さとか好奇心のなさ、または老化によって、その足のさせる場所の幅またはバラエティはせばまってきている。
"タコ足"なのに、もう3本か4本ぐらいしかないんじゃないか。だからこの足をどこにさすかは慎重に考えねばならぬー。
副業とか言わず、なんか辞めても辞めてないみたいな感じの雇用形態とかが出てくるのっていつ頃なんだろうと思う。それでも生活はふつうにぜんぜん送れるみたいな。なんか時々給料上がらないって生産性の問題より日本中を覆ってる大きな意味での自己肯定感みたいなものが足りてないからなんじゃないかと思うことがある。自己肯定っていうか他者の尊重というか、こんなすごいことしてたんだねみたいな。今800円でやってるから800円でもっと欲しかったらもっと生産性や負荷の高い仕事をやってもらわないと…と経営者は1対多の面談で最もらしい事を言うけれども、なんかたぶん元の値段が安すぎて人を尊重しなさすぎてデフレになったりしてたんじゃないかと思って、今はなんか変なインフレだけど、もっとふつうに話を聞いてその人の強みを活かせる配置、配慮ができればもっとみんな幸せなのになーとは思う。なんか先に決めてこの人はここでみたいな、ここではこうやるのが決まりとかいうのをやめれる会社が増えればいいなーと思う。
そういうこと言う人は自分が言ってることの根拠が長い時間をかけて空洞化していってることに気づいてもう少し外部に向かって交渉する役とかを買ってでたほうがいい。内部にむかって空洞化した根拠で後輩を締め付けるだけの先輩とかはほんと害しかない。でそういう調整に時間がかかりすぎて喧嘩ゴマをアルカイックスマイルで眺めてる経営者みたいなのも同罪に近いのでそういう日本の旧弊、宿痾、固疾はどうにかならんのか。というか結構あれで疲弊したから慰謝料系サラリーマンにみんななってしまうのである。
でもやっぱ本来であれば「居る代」じゃなくてちゃんと仕事でお金もらってる感じになって、有休もとってフッ軽になれたらな、と思うんだけど、現実問題、今生ではこれは制度がない以上、擬似的につまり個人単位でやるしかないのだろうな。とはいえ、当たり前だが自分には今生しかないので、まあやりたいようにやっていくしかない。
本気になってきて軌道にのってきたら「こっち一本でいきます」と言いつつもアカウントは残ってていつでも凍結解除できるみたいな雇用。とことん会社や経営者を翻弄できる雇用形態。
まあ今、自分の年齢とか余力、興味とか熱意を考えると、「今の会社にいながら、休みの日にときどきボランティアワーカーの象限を見にいって、ゆるやかに繋がって生きる」のが、もっともリスクヘッジになるし、わたしの性分にもあってるんじゃないか。
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M-1のオフショット集みたいな10分ぐらいの動画がアップされててみんな仲良いなーと思って見てて「笑い神」の頃と比べたら隔世の感があるなと思った。
なんか2000年初頭〜10年って、自分のプライベートもそうだったけど、人どうしが、対消滅みたいな感じで、ぶつかるばかりで、建設的な雰囲気がまるでなかった。無茶をして潰したり壊れたりするのがいいみたいな雰囲気があった。わたしの周りでは。
なんとかの20年とか30年というけれど、構造改革の問題でもそうだけど、あの頃は、年長者だけじゃなく、若い人たちも、なんというか、日本兵感がすごい残ってた。我慢したり、無茶したり、耐えたがったり、散りたがってる人が多かった。
なんかちょっと昔って、朝焼けか黄昏の東京のビル群を空撮したりビルの谷間を真上から撮って「経済大国ニッポン」とかいうナレーションで始まる番組結構あったけど、あれもおっさんとか年寄りの現状否認みたいなのだったのかなと時々思う。あの頃のもっと前から、日本はずっと大概だったけど、メディアの中の人的には認めたくなかったので変な演出「経済大国ニッポン」のナレーションが続いていた。最近ではそういう人もいなくなってやっとちゃんと現状把握ができるようになってきてる気はする。
エンパワメントというか、なんかやっと、伸びるというよりかは、やっと「潰さないような」生き方がやっとこさできそうな世の中になりそうだなー、という予感がした。M-1の動画見ててなんか。
やっと伸び伸びできる素地ができて芽が出てきてっていう。でも業種や地域によっては、まだ全然潰してばっかりのところもあるんだろうなとも思う。
自分たちは裏側(若い世代に向ける面は)ひらたくして、年寄りに向ける面は凸凹にしてちゃんと合うようにチューニングしたから上にやっとちゃんと積み上げれる素地ができたんじゃないかという気もする(わたしがよく俗に言う「キルア世代」レイザーとの対決のときキルアがとったポジションにちなんで)。
ただ、歴史を振り返るとずっとむかしっから連綿とそういうのが地道に続いてきただけなのかもしれない。だから当たり前のことなのかもしれない。同僚でもまだ日本兵はいて、日本兵は散りたがっている。むしろ散りたいだけだったら、マルチとかで電話してるふりをしたりビル街を颯爽と歩いてみたりするほうがよっぽどあってるし、仕事のしかたもとにかく電話でそれっぽく喋ったり複雑で難しい問題を扱ってそうな雰囲気が好きそうなので、マルチの人のPVとかYoutubeで見てたらどう考えても同僚はマルチが天職なんじゃないかとは思ってしまう。日本兵が残存してる人はマルチやって全員捕まったらいいんじゃないかとは思う。畢竟我々は総なんとかで絶対殲滅なんとかであるみたいなこととやってないってことはやったらやるってことじゃん?みたいな勧誘は通ずるところがあるのでなんか言った感やった感がほしくて謎に熱く空虚に散りたがってる人というのはマルチになればいいと思う。わたしは定時で帰る。まあ幸せなのはそういう人が強制力もてなくなったのが一番いいことだよ。それだけでも全然いい。散りたがってる人は散りたがる強みを発揮できる場所においとけばいい。人は人。仕事は仕事。昔はなんか意味がおかしかった。しんどかった。
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令和でやっと日本兵死ぬかなーと言う感じ。そもそも日本兵ってなんだって話だが。地域の血とか、儒教とか、どっかの藩の慣習というか教えや観念があんな感じを作ったのかなとは思う。
建設的でなく、生産性もなく、とにかく散りたがっていて、散りにいってるやんとしか思えず、非合理で、エンパワメントもできない、なんか無茶苦茶というか、もう勝手にやっといてくださいみたいな人は、まだときどき生き残ってる。意外な人がそうだったりしてややこしい。
「男の生きづらさ」みたいなやつにも通じるけど、そういうところから降りようというか、降りれるようにはなってきた。かくあるべき、みたいなものからやっとこさ解放されつつある。
「家族」「仕事」みたいなのもなくなった。よかった。みんなで食べると美味しいとか。やっぱり汗水垂らして働いて稼いだお金じゃないと、とか。何がやっぱりやねんと。やっぱりの空洞化が著しい。何がやっぱりやねん。やっぱりおてんとさまはみてるとか。働かざる者食うべからずとか。酒は飲まなつよならへんとか。
その誰かから借りてきた常套句喋ってるときの表情。何か言ってる気になってる表情。理屈説明できるか、と。「ぼくは働かざる者は食うべからずだと思いたいし言ってしまうのですいませんけど言うてしまいますの書類にサインもらえますか」ぐらいの謙虚さがあれば「ああわかりました言うてまうんですね、しゃあないですね」ってサインして聞いたるけどもや、なんで契約もなしにそんなわけのわからんこと上から目線で聞かされなあかんねんと。
ときどき「わかるやろ?」とか「おまえなぁ…」とか言って会話が終わる上司みたいな人がいて、「この人、その先の言葉ちゃんとかんがえてはるんかなー」みたいにしょっちゅう思うけどもう部署も違うしこの人にいちいち時間割くのもあれなのでほっといてるけど、たぶんいつか言うのかもしれない。わからない。まあこういうのがさっき挙げた決まり文句みたいなもので思考停止してしまった人なのだろうと思ったりもする。
言ってるうちに空洞化していて、空洞化してる部分というのは昔あった共通理解や前提のようなもので、それを言っておけば「わかってもらえた」のだろうけど、もうそれは通用しないというかさせない。こういう人には「言うてしまいますの契約書」書かせてハンコ押した上で関係を持ちたい。契約書があればまったく腹が立たないと思う。「何もしてないのにタメ口でくる契約書」とか「何もしてないというか寧ろ問題があったときは逃げるのにアニキづらしたくてすいませんそういう態度じゃないとわたしは自我が保てないのですの契約書」とかを全部ハンコ押してから関係を持ちたい。というか最近のハラスメントの流れは結局こういう契約書にすれば別にOKな気もする。要は自分のそういう態度の出所を探って紙に書いて許容してもらうという手続きを踏めばある程度のハラスメント(いやよく考えたらマタハラセクハラパワハラとか全然無理だが)うん、全部無理だ。
ハラスメントとは別に、なんかこういう「態度」の契約書みたいなのがほしいなぁとは思う。
まあただこれも遡っていくといくらでも遡れるし、構造的にそうだったのだから(そういう態度をとらないとサバイブできなかったから)しかたないともいえるし、自分もどっかで思考停止してる箇所があると思うし実際あるので人の振り見て我が振り直せでやってかなあかんなぁいうてやってるわけですけど
*追記:年末に書いた
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