メモ(朗読、ピン芸、漫才、篤志家)

ピン芸はR-1があり漫才はM-1がある。朗読にはないとは言わないがない気がする。ROUDOKUじゃなくてRAKUGOのRらしい。R-1は漫談や講談はいけるけど朗読で決勝は難しい気がする。LOWDOCKとかにしてL-1にしたほうがいいかもしれないけど、これはこれでなんか赤い(青い?)よく寝れるヤクルトのやつ(シリーズ)とかにありそう。何ワンにするかはおいといて。そんなことよりなぜ人というのは、ひとりだとこんなにパワーがなくなるものなのだろうか。逆に二人以上だとなぜあんなにパワーが出るのか。そっちのほうが気になる。
パワーというより、なんというか、社会性というか。
もしかしたらわたしたちが社会で生きてくうえで失うバディ成分のようなものが見たいから、ひとりはもう充分です結構ですと食傷気味になるからこそ、だからふたりの関係性が見えやすいお笑いの組合大会であるM-1やその周縁にスポットがあたり、それに憧れるのかもしれない。ということはよく思う。
対して、ひとりは自分を見てるみたいでなんかやだというか、なんかできることの限界をそうそうに見せつけられてしまう感じがしてつらいものがある。ひとりであるある、ひとりでフリップ、ひとりでコント、すごく限界を感じる。限界しかない。

ひとりでやってる人の社会性とかネタとかみていると、なんかいろんなところに厳しい感じがみえる気がして、いたたまれなくなる。共感性羞恥という言葉が出てきてからは、なんだかすべてこの言葉に集約されてしまうところもあるが、ピン芸というのはどうしてもひとりで世界を相手にするという性質のせいか、強弁して、通らないものを、身ひとつであるが故に、その身を人質にして、無理くり通らせているようなところがある。
それがなんかつらい見てて。

要はその人自身が人質になることで芸として認めざるを得ないところに観客を追い込むので、よくできているとか技術があるとかおもしろいとか口では言わないといけないけれども、テレビの向こうでは何も笑っていないことが多い。ひとつ笑えればラッキーぐらいのものである。

それのもっと厳しい版が朗読である。わたしたちは何も期待していないし、さらに感情や情動を朗読というもののためにチューニングして(ふだんのままだと背筋がぞわぞわするだけだから)臨まなければならない。
というか、「ふざけんな」という感情が芽生えるかもしれない。何も観客のためになるような技術を鍛えてないのにその身ひとつで戦おうという無謀さみたいなものにイラつくかもしれない。で、その技術もテキストも常にあさっての方向性に向かってる気がするし。

もう世界すら相手にせずに身ひとつで観客を人質にとってイメージが湧くかもわからないおもしろいかもわからないそこまで練られてもいないネタを無理やり聞かせ続けることができる。そこには「からだがあるー」「からだが空気を吸って声で空気震わしてるー」ぐらいの意味しかない。
それの点数をつけて地区ごとに優勝して全国大会をやって海外のそれの世界大会に出て(海外のそれはなんか質が違うような気もするが実質おなじなのかもしれない)毎年営まれている。
でもこれもおそらく少しずつ国民性みたいのも変わってきてるので、受容のされかたも変わっていって、徐々に世界と同じような受け入れられ方と表現になっていくように思う。結局詩の朗読が毛嫌いされるのは受容する側の姿勢というか、生きてきた環境によるものもおっきいと思うからだ。
少しずつどちらもソフトになっていって、極端な拒絶はなくなり、極端な「からだ」もなくなっていく。そしてみんな部族になって楽しく過ごす。鳥の目から戻れない人が減って、鳥も虫もそのときどきで器用に操作できる人が増えて、その代わりその操作の機会そのものが減るように世の中動いていって、そもそも人が集うという雰囲気がもういい加減日本では一旦中締めにして、一回集うということに対して、また朗読の是非について5年くらい温存期間としてみんなひとりで生きてみたらいいのかもしれない。
個人主義とかメンバーシップ型とかPTAとかとにかくいいとこどりだけして報酬は与えず感謝もしないという、篤志家待ちの世界観に無理がきてるのだと思う。それはなんとなくだけど明治大正とかの世界観のまま市民が市民を篤志家に祭り上げて搾取してサボり倒す国民性みたいなものを最近むしょうに感じ腹が立っていて、というのもわたしも急に住んでる地域の役員にならされて、この拘束時間分の金が欲しい!と切実に思うようになったからで、なんかそういう篤志家待ちの世界を一旦打ち切りにして、反省してから日本を再スタートさせれば朗読のするほうもきくほうももうちょっとマシになるのではないかみたいなことを感じた。ピン芸でいえば篤志家というのは場作りの人やスポンサーであり、ペイできるほど育つのはやはり漫才しかないのではないか。ふたりの特殊な関係性の継続が見れ、しかもそれがお笑いという一点に収斂されてくのを見れる組合の大会がM-1であり、めざましテレビでいえばキラビトに出てくる人のめっちゃ見える化されてる版がM-1であるといえるのかもしれない。
逆にそういうのに飢えてるってことはわたしたちはもっとむんずと何かをどうしようもなく掴み合って離せないようになりたがってもいるけど、このスクリーン越しがどうしようもなくちょうどいい。
わたしたちは押してから抜くみたいな機構(たとえば古いステレオの裏側の端子とか?)に不慣れになった。
体力をつけるとか、この言葉遣いは自分のことをすごく無駄に偏重&偏愛して書いちゃってる気がするなとか、そういう気づきから一旦バックして少し手前からカーブしてもう一度進んでみるみたいな感じのことをしなくなった気がする。もう自分は常に完成形で(いやいやいや、そんなこと微塵も思ってないけど思ってるような感じで、生きてるし、そういう動きに慣れて、そうなると他者との軋轢がしんどい。何もかもが他者との軋轢か確執に見えるしすべてがハラスメントに感じる。
そういう人の気づきというか、一旦バックして別の道を探すようなふとした瞬間みたいなものをわたしたちはお互いに提供することができない。なぜならわたしたちはスクリーン越しで属性や生い立ちを明らかにしないから、どこでどう傷ついて今に至るかを説明しないから、そして体を出さないから。
コンテンツというのは憧れってか代償である。どれだけ固結びで好きになれるかっていうこと。固く結ぶための力のもとを辿れないこと。
だから朗読を貶したりする意図はない。ただ一旦バックして見つけた別の道がそれならいいなと思う。すべてが一旦バックして見つけた道じゃなければ、なにかとてつもなく才能があるかのように大上段で構え続けてスクリーンの向こう側からずっと壊れたラジオみたいに同じことばかり言い続ける羽目になります。で、この壊れたラジオは同じことを繰り返していうのか問題ですけど、昔給食時間にレコードをかけていて、それが壊れてて同じところを何回も鳴らすことはあったけど、ラジオは壊れたからといって同じこと何回も言わないですね。

非自発的(半強制)篤志家の問題
組合の見える化とバディ化(いや別にバディ化は無理にしなくてもいい)
それらの活動に対するマネタイズ(所謂正当な対価というやつ。フリーライドをやめる。ただこのフリーライドをやめるには気づきがいる。)
一旦バックして別の道を探す生き方の推奨と、それとなく気づかせるやり方の確立
スクリーン越しからでも傷が見える社会、あるいは傷が見えてもつけこまない社会の達成

おそらくこれらはゆるゆる達成されつつあるけどわたしが生きてるあいだにすべて進捗率80%を目指したい。そうじゃないと生きづらかったし、今も生きづらい自分が死ぬ。
持ち出しとか手弁当とか美談とかはどうでもよくって、それが断りづらい人から出てきてるものなのかどうかを見極めるというのか、日本の賃金安い問題も結局自尊心を国民同士で買い叩いてるところがあって、そういうのの交渉?みたいなのを非対称的に場数を踏んでるのが経営者だから余計に「これだけやってるのでお給金あげてください」「…じゃあ他のところでがんばってください」とか言われても困ってしまうわけで、経営者は経営者で外がそういう「雨」が降ってる状況であることをわざと無視していて経済の原理には忠実ではあるが日本の(あなたのもとで働く)ひとびとの現状認識に対する誠実さのかけらや非対称性への配慮みたいなものは微塵もなくノブレスオブリージュ的なものも矜持や篤さより法に沿うことでそれ以上の正当性の担保は要らないとでも言わんばかりの態度でありそりゃ成長せんわなと思われても仕方がない。個々の伸び代とそれに対する信頼が欠けていて、それぞれがそれぞれを買いたたき、一歩前に出るということをしない。

ネットにたまってヘドロになった大人たちというサムネで千葉雅也さんと落合陽一さんが映ってるサムネがあって、「俺のことか!」「ちがうそうじゃない」とブチギレて回避するのがここ2日間ぐらい続いてるけど、やっぱヘドロだよねとは思うものの、ネットじゃないところにある過ごしている身というものに対して、それがあなたたちの生活基盤の一部を成していることに対してすごい狭量だなとも思う。もう少し鷹揚な人って出てこないのかなとは思う。もっと大掴みで見当はずれなのに最終的に合ってるっていうかもう包み込んじゃってるYO!みたいな大物。

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